卵の悲劇
1.五月三日
さっきまで見えていたハズの杉林は闇に包まれていた。フロントガラスを激しく叩き付ける雨音に光久の鼻歌が混じり合い、車内はコーラスホールのように熱気と興奮に包まれていた。
父の刺針光久は自慢の愛車に乗ると鼻歌が零れてしまう。この愛車は光久が初心者マークを付けていた時から大事に維持し続けてきたものであり、ベージュのレザーシートは年式の古さから深い皺が見受けられるが、内装品に埃はなく大事にされてきたのがわかる。しかし、今の時代にマニュアルミッションなんて乗り物は骨董品と同等だと思う。――決して嫌いなわけではない。
その自慢の愛車の後部座席で光久のコンサートを聴いているのは、僕と隣に座っている姉の刺針加奈女だ。加奈女はずっと僕に推理小説について説いている。なんて迷惑な客なんだろうか。大人しく光久の鼻歌を鑑賞していてほしい。
自己紹介が遅れてしまった。僕の名前は刺針阿久。《シシンアク》と読む。珍しい名字にこの名前で、小学校の劇では悪役をやらされて、中学校では針を刺されたものだ。高校三年生の今ではろくに友達もいない。唯一良かったのは、アックンという呼びやすく覚えやすいニックネームがあることだ。
「アックンは格好良いんだから、もっと小説読みなさいよ。雰囲気が暗くても知的な男は――」加奈女は姿勢を変えた。「モテるわよ」
加奈女の顔が近づき吐息が頬を撫でる。光久の鼻歌が熱気で、興奮の大部分は姉に向けられたものだ。
加奈女は僕の二歳年上で大学で経済学を学んでいる。身長は同年代の人よりも低いのに加えて平らな胸に童顔なので、たまに中学生に間違われる。本人はそれを逆手に取り、髪型をショートボブにして可愛らしさを追求している。背伸びしているのは髪の色を茶色にしていることぐらいだろうか。
「おい、そろそろ着くぞ」
光久が顎をしゃくると、ヘッドライトに照らされた刺針養鶏場が眼前に迫ってきた。杉林からいきなり鶏舎が三棟現れて、少し離れたところには死んでしまった鶏を焼却処分する焼却炉が見える。一番奥の鶏舎にくっつくように事務所と作業場があり、その隣に祖父母の家が建っていた。
祖父母の家は人里離れた山奥にある。その理由は代々養鶏場を営んでいるからである。機械化が進んだ現代とは違い昔は全て手作業で行っていた。建物も簡素な作りだったので当然鶏糞などの公害が出てくる。この土地には村から追い出されるように――臭い物に蓋をする――移動してきたそうだ。
昔は大規模でやっていたらしいが、昨今の人材不足に加えて餌代等の高騰により刺針養鶏場の経営は圧迫され、今では事務所が隣接している一棟しか稼働していない。そして、この養鶏場には産卵用の鶏しかいない。
車から降りると雨に濡れないように急いで玄関の扉を開いた。
扉の音に誘われるように、奥から叔母の刺針海月がやってきた。父より年上なのに出るところは出て引っ込むところは引っ込む、ジムのインストラクターのような体型をしている。気付かれぬように横目で姉の胸を見る……遺伝とは時に残酷である。備考としては名字が変わっていないので、独身だということを静かに察してほしい。
「この雨の中よく来たわね。そこじゃ冷えるからさっさと中に入っちゃいなさい」
海月に誘われて茶の間に行くと、祖父母がソファーに座りながらテレビを見ていた。テレビの中では役者が殺陣に熱を入れているところだった。どうして老人というものは時代劇が好きなのだろうか。
「おお、こんななんにも無いところによく来たな。なにしに来たんだお前ら」
「そりゃ無いぜ親父」
「冗談だ」祖父の光太郎は笑いながら手を前に伸ばす。「婆さん、なんか飲み物でも出してやれ」
よっこいしょ、と立ち上がるのは祖母の美智子だ。
光太郎は名前の通り光輝く頭頂部――ただのハゲだ――が特徴で、美智子は眼鏡をかけているせいなのか若く見える。冗談を言い笑顔になるのが若作りの秘訣なのか。
インターフォンが鳴った。どうやら残りの二人も来たようだ。
「ただいま。帰ってきたぞ」
「こんにちは」
服に雨水の染みを作って現れたのは、叔父の碧人とその妻の春香である。この夫婦は光久や海月と違い、ネックレスをしたりお洒落で指輪をするなどアクセサリーを身に纏っていた。この二人に近い人種は、この中では加奈女だけだろう。
「春香さん、長旅で疲れただろう。……どうした、みんな突っ立ってないで適当に座れ」
「いや、その前に荷物を寝室に置いて来るよ」
僕達も碧人に倣って二階の寝室に荷物を運んだ。
茶の間に戻ると、テーブルの上にはジュースやビールが並んでいた。上座に座る光太郎を正面に見た時に、右側の奥から碧人、春香、加奈子。左側は美智子、海月、光彦、僕。この順番で座った。年功序列で座るというシンプルな席順である。
僕は一同の顔を見て、改めて全員が揃ったという実感を味わった。ここに集まったメンバーは刺針の一族である。わかりやすく説明すれば、要はゴールデンウィークの長期休暇を使った帰省で、ここ数年これが通例になっている。本当なら母もくるべきなのだが、看護師という職業柄来られない。――これも通例だ。
「よく飽きずにこんな山奥に来るもんだ。なんもねーっていうのによ」
「そう言うなよ。ここには鶏がたくさんいるじゃねーか」
「ただうるせーだけだ」
「あら、私はここの土地結構好きよ」
そう言うのは加奈子。
「鶏の鳴き声を朝の目覚まし時計にして、朝食には採れたての卵が並んで最高じゃない」「そんなこと言ってくれるのは加奈女ちゃんだけだ。どれ、お小遣いあげちゃおうか」
「爺さんや、アンタの今日のビールが二本ばかり減るが構わんか」
光太郎は顔を引き攣らせ美智子を見ると、僕たちは笑った。
光太郎の言うようにここには何も無い。あるのは鶏と卵と自然だけだ。ただ年老いた老夫婦の様子を見に来ているだけなのだ。ここには僕の好きなテレビゲームは無いが、好きな物から解放されるというのもたまには悪くない。
くだらない話に花を咲かせていると十九時を知らせる鐘の音がなった。壁に掛けられている時計は元気に振り子を振っていた。
「もうこんな時間になったのか。よし夕食だ。今日は寿司を買っといたから、腹一杯食えよ」
美智子が立ち上がり台所に行くと、僕と加奈女も立ち上がり台所に向かった。美智子一人で全員分の夕食を運ぶのは大変だろう、という思いやりからくる行動だ。別に誰かに指図されて始めたことではないが、毎回同じことをしていると体が勝手に動いてしまう。
台所に入るとワークトップの上にスーパーで買ったと思われる寿司が積まれていた。
「いつも悪いね。手伝ってくれるのはアンタ達だけだよ」深い溜息を吐いた。「あの人とは大違い」
プラスチック製のトレイにできるだけの寿司を載せると、美智子の言葉を聞かなかったことにして茶の間に寿司を運んだ。三回ほど往復し運び屋の仕事を終え、ようやく腰を下ろすことができた。 寿司を口に運び、箸を休めながら会話を弾ませる。僕と加奈女はジュースを飲んでいるので普段と変わらないが、大人達は酒を飲んでいるからか、次第に饒舌になっていく。
「アックンはもう高校三年か。彼女の一人や二人いるんだろ」
「いないよ。別に必要ないし」
光太郎の話のキャッチボールをそっけなく返した。僕はこの手の話題が苦手だ。
「ワシの孫だから彼女の三人や四人くらいわけないはずなんだがの」
「増えてるから」
光太郎は、こりゃワシとしたことが、と後頭部に手を回して上機嫌に笑っている。もう大分できあがっているのだろう。
「じゃあ私も質問しちゃおうかな。加奈女ちゃんは彼氏できた?」
「私も気になる。教えて加奈女ちゃん」
程よく酔いの回った海月と春香は話の矛先を加奈女に向けた。
「え、私? 私は彼氏なんていないわよ」加奈女はテーブルのジュースから僕に視線を移す。「だってアックンがいるもの」
一瞬空気が凍った気がする。
「なに、アンタらそういう仲だったの」
「違うから!」
若干引き気味の海月の言葉を全力で否定した。
「姉ちゃんもそういう冗談は止めてよ」
「あら、私は本当のことを言っただけよ。アックンがいてくれればそれでいいの」
加奈女の頬は薄いピンクに染まっている。サーモンを食べたからその色が頬に移ったのだろう。今はそう思うことにした。
「あ? 加奈女に好きな野郎ができたって? そんなこと俺は許さないぞ!」
いきなり光久が大声を上げた。
「大事な加奈女が嫁に行っちまう」
僕達は唖然として光久を見ていると、テーブルに突っ伏して泣き始め、次第に寝息へと変わっていった。
「兄貴はいつまで経っても酒が弱いな」碧人はコップに入ったビールを飲み干した。「春香だってまだ素面だぞ」
「私だって酔ってるよ。こんなに飲んだんだよ」
春香はビール瓶を指差す。そこには五本ほどの空瓶が置かれていた。
美智子は立ち上がり手を叩いた。
「アンタ達、飲み過ぎは明日に響くよ。今日はこれで終わりにしなさい」
「そりゃあねーよ婆さん。やっと盛り上がってきたとこじゃねーか」
「そーだそーだ」
酒に呑まれている酔っ払いは美智子に反抗する。しかし、美智子の前には何も意味を成さなかった。
「アンタ達は明日仕事でしょうが。それに、この馬鹿息子みたいに茶の間で寝られるのも迷惑なんだ。それがわかったら部屋で寝る。以上」
有無を言わさない美智子の眼光に、酔っ払い共は頭を垂れながら茶の間を後にする。その姿は収監される囚人達に似ていた。
静寂を迎えた茶の間に残ったのは、美智子と光久と加奈女、それに僕だ。テーブルの上には、乾燥して食欲のそそられない寿司が数巻と蓋の開いたビール瓶が十数本あり、それらを避けるようにして光久の上半身が乗っている。
「食べたらそのまま寝る。何十年経ってもこれは変わらないわ」
美智子は吐き捨てるように言ったが、その表情はどこか楽しそうでもあった。もしかしたら美智子は遙か昔のことを思い出しているのかもしれない。
僕たちは後片付けを済ませ、光久に薄手の毛布をかけ廊下に出た。
茶の間の扉と目の前にある台所の引き戸を閉めた。廊下の床はひんやりとしていて、夜の体には些か冷た過ぎた。階段の前に着くと、美智子と別れの挨拶を告げた。光太郎と美智子は歳で足腰が弱ってきているので一階で寝ているのだ。二階に上がることはほとんどない。
軋む階段を上がり、まず最初に見えるのは光久と海月の部屋だ。本当ならこの部屋には光久もいるのだが、光久は一階で熟睡しているので今は海月一人だけだ。扉は閉じられているが隙間から光りが漏れている。まだ起きているのだろう。
その隣には碧人夫婦の部屋だ。この部屋は二階の中で一番大きな部屋だ。貧乏性の僕は大きな部屋はあまり好きじゃない。
一番奥が僕と加奈女の部屋だ。もともとこの部屋は光久の部屋だったそうだ。光久が使っていた頃は、プラモデルや漫画が散らかっていて足場の踏み場もないほどだったらしい。大人の子供の頃の話は聞いていると楽しいものだ。
部屋に入り手探りで部屋の電気を点ける。四畳半の和室に布団が二つ敷いてあった。おそらく海月が敷いたのだろう。
電気をオレンジ色の常夜灯に変えて布団に潜ると、僕は体勢を変えて加奈女に話しかけた。
「婆ちゃんはまだ春香さんのこと許してないみたいだね」
「そうね。みんなが集まってたからなんとか笑っていられたけど、お婆ちゃんは春香さんに一度も話しかけなかったわね」
美智子と春香は仲が悪い。と言っても美智子が一方的に嫌っているだけなのだが。数年前、碧人と春香がまだ付き合っていた頃の話だ。碧人が春香をこの家に初めて連れてきたときに事件は起こった。
美智子は仕事が終わるとシャワーを浴びて全身に付いた臭いを洗い流す。これは動物の出す臭いは体に染み付きやすいので、少しでも臭いを落とそうとしての結果なのだが、その儀式を終える前に春香が家にやってきてしまった。客人を茶の間に通して自分はシャワーを浴びる、そんなことはできないので仕方なくそのまま会ったのだが、春香は鼻を動かし表情を曇らせたのだ。そう、美智子が臭い、と。それから二人の溝は深まったままなのだ。
「子供じゃないんだから、いつまでも怒っててもしょうがないと思うんだけどな」
「アックンは女心がわからないのね」加奈女は寝返りをうち僕の方を向く「女は自分が受けた屈辱は一生忘れないのよ」
「そんなもんなのかな」
僕は天井を見上げてみた。二人の仲直りするプランを考えてみる……。ダメだ出てこない。
隣から寝息が聞こえてきた。僕の口からは欠伸が漏れる。僕もそろそろ寝よう。
こうして最初の一日が終わりを告げた。
2.五月四日
外は昨日よりも雨脚が強まって気分が落ちそうなのに、加奈女の瞳は太陽のような輝きを放っていた。その理由は――朝食である。加奈女はこの刺針養鶏場の採れたて卵を食べるのが好きなのだ。
早朝五時三十分に鶏舎の電気が点くと全自動の機械がエサを配り始める。すると鶏がエサを食べて産卵するのだ。生まれた卵はベルトコンベアで隣の作業場に運ばれる。人間がするのは機械のメンテナンスと卵の検査に死体と鶏糞の処理ぐらいだ。極力鶏を外界と遮断することで菌の予防になり、道具と成り下がったそれを監視しやすくするのだ。
卵の生み終わる時間はおおよそ九時なので八時三十分から仕事なのだが、美智子はその前に小屋に行き、産みたての卵を持ってくるのだ。
今日の朝食の献立は、白米、味噌汁、鮭の塩焼き、漬け物、採れたて卵、だ。僕は加奈女が箸を進めるたびに綻びる口元を眺めながら朝食を済ませた。
朝食が終わると、僕と加奈女と春香の三人を家に残して刺針一族は作業場に行ってしまった。負担の増えてきた家業を手伝い親孝行をする。これも帰省の目的の一つらしい。
残された僕たちは茶の間で自堕落な生活を送った。加奈女は小説を読み、春香はファッション雑誌を眺め、僕は横になりお菓子を食べながらテレビを見ている。――訂正する。自堕落な生活をしているのは僕だけのようだ。
いつの間にかそのまま寝てしまっていたようだ。口の中が乾燥していがらっぽい。水を飲もうと台所に行くと、春香がシンクの引き出しを開けて何かを探していた。
「なに探してるの」
僕の声に春香の背中が伸び、ゆっくりとこちらに振り返る。
「あぁ、アックンか」春香に笑顔が戻る。「見つかっちゃったね。コレを食べようと思ったんだけど、スプーンの在処がわからなくて」
そう言って春香はワークトップの上に置かれたプリンを差し出した。
「僕も手伝うよ」
「ありがとう。報酬にプリンを一つあげよう」
こうして僕の暇潰しが始まった。狭い台所で春香と立ち位置を変え、僕はキャビネットの引き出しに手をかける。古いキャビネットなので建て付けが大分悪くなっているのだろう。引き出しの中身はおたまや包丁など軽いものだったのに、かなり重くて鈍い音を立てながら出てきた。
二つ目の引き出しも探し、三つ目に差し掛かる時に、加奈女の声が背後から聞こえた。
「二人ともなにしてるの」
加奈女は訝しい表情でこちらを見ている。僕は春香と顔を合わせアイコンタクトで許可をもらうと、加奈女に事情を話した。すると加奈女は目の前にある食器棚からスプーンを取り出した。――よくよく考えればキャビネットに食器類はいれないと思う。
「食器棚があるんだからキャビネットに入れるわけないじゃない」
「そうよね。人の家だからよくわからなかったわ」
「春香さんに言ったわけじゃないわ。アックンに言ったのよ」
加奈女は慌ててフォローを入れた。そして話はハンドルを切って僕に向かってきた。
「ところで、私にプリンは無いの?」
僕は春香を見た。
「あるわよ。一パック三個入りだったからちょうどね」
春香は冷蔵庫からプリンを取り出すと僕たちにスプーンと一緒に渡した。春香がこの場で食べ始めたので、茶の間に持っていかずに台所で立ちながら食べることにした。場所は狭いが立食は普段と違い、なんだか特別な食事に感じた。
「二人ともプリン食べたね?」春香がにやける。「二人とも共犯だね」
「どういうこと?」
「実はこのプリンは私のじゃないのよ。誰のだかわからないけど、冷蔵庫に入ってて美味しそうだから食べちゃった」
食べてから言うなんて人が悪い。しかし、春香のこういう子供のようなところが好きだった。自分には加奈女という姉がいるが真面目で大人しい性格なので、このような姉ならふざけ合い笑い合いながら――加奈女がつまらないわけではない――日々を過ごせたのだろうと思う。
プリンのカップをゴミ箱に入れて証拠を隠滅してから台所を出ると、ちょうどみんなが帰ってきたところだった。光太郎と美智子と海月は刺針養鶏場の黄緑色の作業着を着ていたが、碧人はコバルトブルーのパーカーを着ていた。灰色のくたびれたトレーナーを着ている光久も少しは見習って欲しいお洒落感である。
碧人は汚れ仕事だとわかっていても私服を着込んで行くのだ。誰に見られるわけではないのだが、刺針養鶏場の黄緑色の作業着はダサいから着たくないという、徹底された拘りがあるのだ。ちなみに光久の拘りは『穴が空くまで着る』だ。
昼食を食べて三人で遊んでいると、四時頃にみんなが帰ってきた。人数が多い分少しだけ早く仕事を終わらせることができたようだ。僕たちは物置から将棋を引っ張り出して勝負をしていた。なにも無いと人間は知恵比べを始めるのだ。
「こりゃまた懐かしい物を出してきたな。ワシにも指させてくれんか」
「いいわよ。私が相手になるわ」
加奈女が名乗りを上げた。僕が五連敗で春香が三連敗、さっきから加奈女に負け続けているのだ。願わくは、光太郎に一勝を上げてもらい加奈女の連勝を食い止めてほしい。
結局勝負は二勝二敗になったところで、美智子による夕食宣言で終止符を打たれた。
「加奈女ちゃんは強いな。お爺ちゃんはもう勝てないよ」
「私なんかお爺ちゃんの足下に及ばないわ」
二人の視線が火花を散らして飛び散っているのを見れば、互いに謙遜し合っているのは一目瞭然だ。
夕食は酢豚をメインにして食べた。パイナップルが入っていなかったので助かった。酢豚にパイナップルは絶対に合わないと思う。
夕食が終わり最終局面――ラストバトルが始まるかと思われたが、前日の疲れが溜まっていたのか、食べたら眠くなったと光太郎は寝室に引っ込んでしまった。僕たちも後に釣られるように寝室に向かった。海月はこっそりとビールを部屋に持ち込んでいたが見て見ぬ振りをした。
布団に入る前に電気を消そうとして加奈女に止められた。
「少し小説を読んでから寝たいから点けておいて。読み終わったら私が消すわ」
加奈女はうつぶせで枕元にバッグを引き寄せ中身を漁っている。
「わかった。それじゃおやすみ」
「おやすみなさい」
僕にも前日の疲れが残っていたようで、睡眠の深海に沈むのにそう時間はいらなかった。
僕は体を揺さぶられて目が覚めた。僕の安眠を妨げた正体は加奈女だ。
加奈女は布団で女の子座りをしてもじもじしていた。
「あの……アックン」加奈女は急に上目遣いになる。「一緒にトイレに行ってくれないかな」
「……姉ちゃんももう大人だろ。一人で行ってこいよ」
「だって今、丑三つ時よ。幽霊が襲ってきたらどうするのよ」
スマートフォンで時間を確認してみると、まだ一時五十分だった。
「まだ丑三つ時まで時間あるから大丈夫だよ。一人で平気平気」
僕がぶっきらぼうに答えて布団の中に潜り込むと、加奈女が半泣きになりながら体を揺さぶってくる。鬱陶しいしこのままでは埒があかないので、仕方なく加奈女と一緒にトイレに行くことになった。
寝室の扉を開けどこまでも続いていそうな暗闇の廊下に出る。屋根に打ち付ける雨脚は寝る前よりも強くなっていて、僕の恐怖心を煽る。廊下に明かりと灯せば、長年の汚れにより薄く黄ばんで顔のような染みの壁が照らされ、歩けば音の鳴る床がある現実に直面する。なるほど、住み慣れた家ではないのも大きな要因だろうが、気分のいいものではない。
僕が先陣を切って歩く。加奈女は僕の腰あたりの裾を少しばかり掴み付いてくる。早くは歩けないので加奈女の速度に合わせてゆっくりと歩くのだが、早く歩けば怖い時間も短くて済むのに、と考えてしまう。
階段を下り中盤に差し掛かったところで、下から青白い人のようなものが上がってきた。僕は驚き身を反らせた。その反動で後ろをぴったりくっついて来ていた加奈女を押してしまい、加奈女は階段に座り込んだ。漆黒の闇を身に纏い何かが階段を上がってくる。寝室での姉の言葉が脳裏に蘇る。僕は幽霊は信じてはいないけど、恐怖に身が固まってしまった。しかし、目の前に現れたのは、予想とは裏腹に現実に存在するものだった。――碧人だ。
「幽霊でも見た顔してどうしたんだい二人とも」
「碧人叔父さんか。本当に幽霊かと思って驚いたよ」
「俺が幽霊か」碧人が笑う。「だとしたら、ファッション好きの幽霊現る、って番組で取り上げられるな」
「確かに幽霊って顔ばかりが映って服は何着てるかわからないな」
碧人の言葉に納得したところで、加奈女に服を引っ張られた。その意思を汲み取り、碧人に別れを告げて階段を降りてトイレに行った。
トイレに着くなり加奈女が不思議なことを言い出した。
「耳塞いでて」
「え、なんで」
「なんでって……」最初はごにょごにょして聞き取れなかったが、耳を近づけると急に声量を上げた。「してる時の音が聞こえるじゃない。そのぐらい察してよ。察しの悪い男はモテないわよ」
加奈女はそう言い放ってトイレの中に消えていった。
トイレの扉の横の壁に寄りかかる。左には光太郎と美智子の寝室、右には階段があり、その先の左側に台所、右側にはリビングだ。右を見ても左を見ても闇が続く。どうして人の家――特に古い木造住宅というのは気持ちが悪いのだろうか。これが同じ木造でも流行りログハウスなら気にならないのだろう。
「おまたせ」
加奈女が出てきたので、僕も用足しをしてから寝室に戻った。この時も加奈女はずっと僕の服を掴んで話さなかった。
「一緒にトイレに行ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
布団に入った僕たちは向き合いながら話しあった。
「アックン壁に耳付けて音聞いてたでしょ」
「え、付けてないけど」
「今は嘘つかなくてもいいのよ。壁が軋む音がしたからわかるのよ。アックンにそういう趣味があったなんて知らなかったけど、お姉ちゃんには正直に話していいのよ」
「壁に寄り掛かっただけだから」
僕の反論に加奈女は笑った。小さな光に照らされた白い肌が、微かに紅潮している気がする。
笑ったらスッキリしたのか、加奈女は体勢を変えたので寝るのかと思い僕も体勢を変えた。すると、下の階から大きな物音が聞こえてきた。それはなにかが床に落ちる音だった。僕と加奈女は再び顔を合わせる。
「雷ではないよね」
「雷ではないわね。酔っ払いが階段から落ちたのかしら、だとしたら大変だわ」
加奈女は起き上がると寝室を飛び出し走って階段を降りていく。さっきまでのトイレはなんだったのだろうか。僕は置いてかれないように加奈女の後ろを必死について行った。
階段を降り右を見ると、光太郎と美智子が寝室から出てくるところだった。光太郎の手には木刀が握られている。
「今の音はなんだ。泥棒でも入ってきたか」
「わからないわ。私達も驚いて来たところよ」
「盛り上がってるとこ悪いけど、原因は父さんみたいだよ」
僕は二人の会話に割り込み茶の間の方を指差した。そこには廊下に腰を下ろし台所の光に照らされる光久の姿があった。多分酔っ払って足が地面に着いていないのだろう。光久に近寄り声をかけた。
「飲むのもほどほどにしなよ。廊下だったからいいけど階段だったら怪我じゃ済まないからね」
「ちが、違う」
光久の様子がおかしい。僕の方を見ないで台所ばかり見ている。台所になにがあると言うのか。僕も光久と同じ台所に視線を向ける。
そこには背中を包丁で刺されたままの人が倒れていた。現実味のない現実。これは実は夢の中ではないのだろうか。それならばと、僕は恐る恐る台所に入り倒れている人の顔を見てみる。
――それは刺針春香だった。
その顔には生気は感じられず青白くなっていた。よく見れば服は背中の刺し傷で血に染まり、その周りには血の水たまりができはじめていた。ふつふつと現実味が帯び始める。
僕は後ずさりする。すると引き戸のレールに足が引っかかり後ろに倒れそうになった。これで光久は倒れたのか。理解と納得が入り交じりながら僕の体も光久と同じ道を辿ろうとした。しかし、光久とは違い倒れることはなかった。加奈女が体を支えてくれたのだ。
「あれは誰なの」
「……春香さんみたい」
「なぜ春香があんなことに」
その声に一同が同じ場所に顔を向ける。気付けば碧人がそこにいた。
「どういうことだ。春香は生きているのか?」
「それはなんとも」
生きているかどうかなんて分かるわけがない。僕がしどろもどろになっていると、加奈女が台所に入っていき、おもむろに春香の首に触れた。どうやら脈拍を測っているようだ。みんなが固唾を呑み見守るが、加奈女は首を振った。
「もう亡くなっているわ」
加奈女の一言が電源のスイッチだったかのように、美智子はその場に崩れた。
「おい、大丈夫か。しっかりしろ」
「お爺ちゃんはお婆ちゃんを寝室に寝かせてきて。碧人叔父さんとアックンは茶の間に行って。お父さんはいつまでもボーッとしてないで警察に電話してきて」
加奈女がてきぱきと指示を出し、各々はその通りに行動した。海月が下りてこないところを見ると二階で暢気に寝ているのだろう。
茶の間に全員が揃うまで二十分を要した。
「警察はなんて?」
「すぐに来るって。台所はそのままにしておくようにだとよ」
「そう。で誰がこんな酷いことをしたの? 正直に答えて」
加奈女の問いに答える者は誰もいなかった。学校の問題を解く生徒ではないのだ。先生に問われたところで答えるはずもない。
しばらく沈黙が続き固定電話が鳴った。光久は急いで電話を取りに行く。長い話になると思ったのだが、すぐに戻ってきた。
「この家に来るための道が土砂崩れで塞がってるらしい。この家に着くのは時間がかかるそうだ」
光久の言葉に緊張が走った。道が塞がっているということは、閉じ込められたということだ――帰れない。それどころか、春香を殺した殺人者と一緒に過ごすことになる。空気が重く感じる。一番最初に口を開いたのは加奈女だった。
「わかったわ。それなら仕方ないわね」加奈女は腕組みをした。「みんなに夜中の行動を聞きたいのだけれどいい?」
光久が勢いよく立ち上がった。
「いい加減にしろ! さっきも勝手に台所に入って春香さんに触れたりして、これは遊びじゃないんだぞ」
二人は睨み合い一歩も譲らなかった。その現状をひっくり返したのは光太郎だった。
「加奈女ちゃん。なぜそんなことを聞くんだ」
「私は嘘をつく人が嫌いなの」一瞬だけ光太郎に向けられた鋭い視線は光久に戻る。「それに、犯人が野放しの現状でどうやって安心しろっていうの。いつ警察が来るのかわからないんだから、犯人を特定して捕まえるべきだわ」
光久は言葉に詰まった。どうやら認めてしまったようだ。それを見た家長の光太郎が判決を言い渡した。
「決まったようだな。加奈女ちゃんの言う通りに犯人が野放しでは危険が付き纏う。意見を出し合おうじゃないか」
「ありがとうお爺ちゃん」
加奈女の口は笑みを浮かべたが目は笑っていなかった。
「では早速だけど、各自の行動を聞くね。まずは第一発見者のお父さんからお願い」
「俺からか。俺は姉貴の酒に付き合わされてた。俺が飲んでたのはお茶な。で、姉貴がやっとくたばったから、片付けてから寝ようと思った矢先――」光久は言葉に詰まる。「あの状況に出くわしたんだ」
「そう。今が三時過ぎたところだから、その時は二時三十分ぐらいね。では、その前に台所に行った人はいる?」
光久が答える。
「日付が変わる頃に姉貴と俺が酒を取りに台所に行った。その時は異常はなかった」
「これより後に台所に行った人は?」
誰も手名乗り上げなかった。
「誰もいないのね。それじゃあ、十二時から二時三十分が犯行時刻になるのね。ここからはこの間の行動を聞くから、一緒に時間も教えて。誰からでもいいわ」
光太郎が口を開いた。
「ワシは部屋から出ていないが、婆さんは一時前に部屋から出たな。多分トイレだと思う。茶の間の時計の鐘が鳴ったから覚えとるわい」
次に碧人が答えた。
「春香がトイレに出て行った。多分時間は一時過ぎだったと思う。出て行ったのはわかるが俺は寝てしまったから、戻ってきたかどうかは分からない。その後俺も目が覚めてトイレに行った。その時にアックンと加奈女と会ったけど、何時頃だったかな」
「二時頃だよ」僕はすかさずフォローを入れる。「加奈女が丑三つ時って言ってたから覚えてる。僕が部屋から出たのはその時だけだよ」
碧人が僕に手を挙げた。ありがとうという意味なのだろう。
「私もその時しか部屋から出ていないわ。残りはお父さんね」
光久は頭を掻く。
「俺は姉貴がくたばるまで部屋から出られなかった。あれは軟禁に近いぞ」
加奈女は頬に手を添えて考察に耽っている。一分ほどで現実に戻ってきたようで、顔を上げた。
「みんなありがとう。だいたいはわかったわ。もう夜も遅いし、残りの話は明日にしましょう。と言っても今日だけどね」
一同はお互いの顔を見やって、重い腰を上げた。
「加奈女」光久が声をかける。「姉貴には俺から説明しとくから、ゆっくり休め。阿久もな」
阿久と名前で呼ばれるのはいつぶりだろうか。それだけ今の状況は緊迫しているのだろう。
僕たちは誰に言われるまでもなく、全ての部屋の電気を点けたまま二階に上がっていった。――台所以外は。
3.五月五日
祖父母の家に来て三日目、昨夜のことで寝付けなかった僕が茶の間に辿り着いたのは、時計の針が仲良く重なる十二時のことだった。
茶の間には海月がおりバラエティー番組を上の空で眺めていた。台所の惨状を目の当たりにしたのだろう。腕組みをした加奈女は光太郎の席である上座に座り天を仰いでいる。おそらく昨日の証言の続きを考えているのだろう。入り口で突っ立てるのも間抜けなので、ひとまず茶の間に入ることにした。
「おはよう」
「あぁ、おはよう。よく寝れた?」
「いや全然。そのせいで今まで起きられなかったよ」
「しょうがないわね。……お腹空いてるでしょ。今ご飯作るね。と言ってもカップ麺だけど」
さっきまでは気付かなかったが、茶の間に季節外れの石油ストーブが出ていた。今時のファンヒーターとは違い、薬缶を載せてお湯を沸かせる昔懐かしのストーブだ。
このストーブとカップ麺が出てきた経緯はこうだ。もともとカップ麺を災害用で備蓄していたそうで、台所が使えない今は食事はカップ麺を余儀なくされる。台所が使えないということは水もガスも使えないので、脱衣所の流しで水を汲み、ストーブでお湯を沸かしている。
「他のみんなは?」
僕は出されたカップ麺をすすりながら聞いた。加奈女は手際よく答えた。
光太郎はいつも通りに鶏舎の方に仕事に行ったらしい。多分家の中にいると気が滅入るのだろう。海月は台所の惨状を見てからずっとテレビにかじりついている。光久は縁側で煙草を吸っているようだ。美智子と碧人は寝室に引きこもったまま出てこない。
カップ麺を食べ終わると、だんだんとお腹が温かくなってきて、昨日の事件の実感が湧いてくる。
みんなと同じく思考を停止して呆然としていると、加奈女に小声で話しかけられた。
「アックンが大丈夫ならでいいんだけど、私に付いてきてくれないかな。無理にとは言わないわ」
不意に話しかけられたので振り向くのに一拍、考えるのに一拍、合計で二拍で返事をした。
「別にいいよ。ここにいたって現状は何も変わらないしね」
「そうと決まればお爺ちゃんのところに行くわよ」
「お爺ちゃんに用でもあるの?」
「ちょっとね」
いまいち目的がはっきりしないまま、釈然とした気持ちで加奈女に付いて行く。
光太郎のいる刺針養鶏場の事務所に行くために一度外に出た。外はまだ雨が降り続いていた。玄関には美智子の物と思われる傘が一つしかなかった。僕は加奈女に傘を差し出す。
「姉ちゃん使いなよ。濡れると風邪引くよ」
「優しいのね。でもこうすれば二人とも濡れないわ」
加奈女は傘を広げると僕の頭上に移し、相合い傘の形になった。加奈女の口がほころぶ。加奈女と相合い傘を最後にしたのは何年前だったろうか。昔を思い出し僕の口も自然と緩んだ。
刺針養鶏場と書かれた扉を開ける。中で光太郎が作業に追われていた。
「お疲れ様お爺ちゃん」
声に気付いた光太郎が近づいてくる。
「おぉ、どうした二人とも」
「マスクと手袋を貰いに来たの。落ち着かないから掃除でもしようかと思って」
「婆さんもあの調子だからな」
美智子だけではない。今のこの家で普段通りに過ごしているのは光太郎だけだ。ただ、普段通りだからと言って平気というわけではない。昨日の出来事を忘れたいだけなのだ。それだけ昨日の一件は衝撃が強すぎた。意図を汲んだ光太郎は快く受け止めた。
「これを使え」
出てきたのは肘まである青色の手袋と、薬局で売っていそうな何の変哲もない白のマスクだった。もちろんどちらも新品だ。
「ありがとう。纏めたゴミはどこに集めればいい?」
「あっちに焼却炉があるだろ。あそこで構わんよ。手袋とマスクもそこに入れていいからな。うちではあそこで燃えるゴミは燃やすことになっているからな」
「ありがとうお爺ちゃん」
刺針養鶏場を出て焼却炉に向かった。所々茶色の水たまりがあり、僕は加奈女が濡れないようにエスコートしながら進んだ。
「焼却炉に来るのは掃除が終わった後じゃないの」
「その前に中を見ておきたかったのよ」
焼却炉の蓋を開けた加奈女は、スマートフォンのライトを使って中を照らした。中には鶏糞が付いた手袋やマスクはもちろんのこと、家庭の一般ゴミも入っていた。
「ん? なんか他にもあるな」
隣で僕も目を凝らして見る。なんと、それは鶏の亡骸だった。鶏と春香の姿が重なり気分が悪くなった。春香もこのように必要性がなくなり殺されたのだろうか。考えたとしても犯人の気持ちなどわかるはずもなかった。
加奈女は満足したのか蓋を閉めると踵を返した。僕は慌てて加奈女に傘を差した。
家に戻った僕達は他の人に気付かれないようにすると、手袋とマスクをして台所に入った。僕達は春香が眠る台所に入る為にこの手袋とマスクを借りたのだ。加奈女が言った掃除がしたいというのは嘘八百のようだった。
「いいアックン。必要以上にあちこち触っちゃダメよ」
「そんな事言っても僕は入れないよ」
入れないというのは精神的にではない。物理的にである。というのも、この台所はとても狭くて二人以上は入れないのだ。入り口に立ち台所の中を見ると、左の一番奥の角にガスコンロ、真ん中はワークトップ、右はシンク、右奥に勝手口だ。ガスコンロの正面に冷蔵庫が置いてあり、その裏――入り口に立つ僕から見て、左に炊飯器や電子レンジが置かれており、右には食器棚が置いてある。台所の通路は丁字なのだ。二人が並べるのは中央と奥のシンク前だけだ。春香は台所の中央でうずくまるように倒れているので、一人しかシンクに辿り着けない。
「そうね。私が調べるから、アックンはそこにいて」
そう言うと加奈女は台所に入っていく。恐怖心というものが無いのだろうか。
春香の背中に刺さったままの包丁の柄には血が付いていた。その背中は血が固まり黒色に変色していた。マスク越しにも生臭い血の臭いがして気分が悪くなる。
「シンクの方を頭にして倒れているということは、春香さんは背後から背中を刺されたのね。叫び声や物音が聞こえなかったから即死だったのかな。それにしてもなんで丸まってるのかしら」
春香の格好はなにかを護るような姿勢を取っていた。そう、まるで母親が子供を護るような――。
「あら、なにか手に持っているわ」
何かに気付いた加奈女が春香が手にしていた物を取り、僕に見せつける。
「これ何に見える?」
「……卵」
「そうね。卵ね」
春香が手にしていたのは白い卵だ。ここで採れる何の変哲もない卵だと思う。割るわけにはいかないので、ゆで卵なのか生卵なのかはわからない。
「ごめんなさい春香さん。通るわね」
卵を春香の手に戻した加奈女は、春香を跨いでシンクの前に立った。加奈女は一度深呼吸をした。そして、左の冷蔵庫から調べ始めた。
「やっぱり卵は無いわね。ということはあの卵は作業場か鶏舎から持ってきたものね」
この家では卵を冷蔵庫に入れて保存をするなんてことは見たことがなかった。作業場に行けば新鮮な卵を取りたい放題なのだから、わざわざ卵を冷蔵庫に入れて悪くする必要はないのだ。
冷蔵庫の扉を閉め、隣のガスコンロに移動する。そこには鍋が一つ置いてあった。中身は作りかけの味噌汁だと思われる。と言っても、中にはワカメと水しか入っていなく、ワカメの樹海ができている。
「普通はワカメを入れる前に出汁を摂るのだけど、春香さんは知らなかったのかしら」 加奈女は滑るように視線を横に移す。そこには傷だらけのまな板が一枚置いてあった。まな板には特に変わったところがないようで、加奈女はそのまな板を素通りしてシンクに体を動かす。
「シンクに血は付いていないわね。付いていたとしても犯人が洗い流すでしょうけど。三角コーナーの中はタマネギの皮とか人参のヘタが入っているわ」加奈女はなにかを見つけたようで、蛇口を見つめている。「蛇口に茶色の物が付いているわ。なにかしら」
水を出す方の蛇口に茶色の土のような物が付いていた。加奈女は、これは恐らく鶏糞だ、と予想したが、物がわかったところでこれが何を意味するのか僕には検討もつかなかった。
加奈女は勝手口に置いてあるゴミ箱の中身を確認して声を上げた。
「アックン……、血まみれの手袋が捨ててある」
加奈女はゴミ箱から手袋を取り出した。その手袋は僕たちがしている物と同じ青色の手袋だったが、掌の辺りは血にまみれて赤黒くなっていた。僕が目を逸らすと、加奈女ははっとしたように、それをゴミ箱に戻した。
加奈女は咳払いをして振り返り春香を見下ろした。
「その背中に刺さってる包丁は、どこから出てきたのかしら」
その言葉に昨日の春香とのやり取りを思い出した。
「そのまな板の下の引き出しだと思うよ。昨日春香さんとスプーンを探して見たから」
僕の言葉を聞いて加奈女は引き出しを引いた。ごりごりと擦れる音が鳴る。建て付けの悪さは健在のようだ。
「この引き出し重いわね。ローラーが壊れてるのかしら。中身は料理器具ね。包丁も何本か入ってるから、ここから出したのね」
左右にある炊飯器や食器棚も調べたが、特に何も出てこなかった。
調べて分かったことは、春香は背後から背中を包丁で刺されたこと、理由はわからないが調理をしていたこと、卵を護っていたこと、犯人は手袋を捨てたこと、だ。
台所の引き戸を閉めて茶の間に行くのかと思ったら、加奈女はトイレに向かった。
「アックン。そっちは手袋をしながら掃除する必要はないわ。私はトイレを掃除するから、アックンはお風呂をお願い」
「本当に掃除するのかよ」
「するに決まっているじゃない。私は嘘が嫌いなのよ」
律儀というかなんというか、加奈女は変わり者だ。
掃除もあらかた終わった頃に光太郎が現れた。
「すまんな」
「いいよ。動かないと体が鈍っちゃうし」
鈍ると言っても、運動部ではないので気にする必要は全くない。
「掃除はそのへんにして夕食にしようか」
気付けばもう十九時二十分になるところだった。時間が経つのは早いものだと感じさせられた。
夕食――カップ麺――が出揃っても、美智子と碧人は姿を現さなかった。そして、その事に誰も触れなかった。
「お爺ちゃんに聞きたいことがあるんだけど、作業場や鶏舎って夜は鍵を掛けてるの?」
「もちろん掛けとる。最近は物騒だからな」
光太郎はカップ麺の汁を飲んだ。
「わかった。次はお父さんと海月叔母ちゃんに質問。二人は昨日の夜に何か気付いたことはない? なんでもいいわ」
「そう言われてもねぇ。アンタなんかある」
「俺も特にないんだよな」
二人とも頭を捻り記憶を引き摺り出す。そこで、海月が声を上げた。
「あ、あったよ。足音を聞いたよ。一時ちょっと過ぎだったかな。階段を登ってくる足音だった。でも急に雨が強くなったから他には聞かなかったわね」
加奈女は目を見開き海月の発言に食いついた。
「それ本当? 間違いない?」
「本当よ。光久も聞いてるはずよ」
加奈女は光久を見る。
「言われてみれば足音みたいなのを聞いたな。こんな時間に起きてる奴がいる、って思ったからな。でもそうなると」光久は言葉に詰まりながら声を出す。「そうなると一時過ぎには春香は生きていたんだから、お袋が犯人ってことに……」
茶の間に二度目の沈黙が訪れた。
「ごちそうさま」
カップ麺を食べ終わった加奈女は一足先に寝室に戻った。いたたまれない空気に僕も一気にカップ麺を平らげて寝室に戻った。
「海月叔母さんが足音を聞いていたのは大きな収穫ね」
「春香さんの足音はそんなに大きな収穫なのかな」
僕は疑問を言葉の飛行機に乗せ飛ばしてみた。
「大きな収穫じゃない。その時間には春香さんは生きていたってことになるんだから」
僕は唖然とした。加奈女も美智子犯人説を信じている一人だったのだ。僕はうなだれた。
「なにショックを受けてるのよ。男なんだからシャキッとしなさい。姿勢の悪い男はモテないわよ」加奈女は僕の頭を撫でた。「ついでに言うと、早とちりする男もモテないわよ」
「それってどういう――」
「あとで私に付き合って。一人じゃ怖いから」
僕の言葉の上に加奈女の声が重なった。
聡明な読者への挑戦
ここで敢えて物語を中断し、作者から読者へ挑戦をします。
本編はここに至り、殺人者を特定するデータが出揃いました。
次章において刺針阿久と同じ見聞をもとに、すなわち読者と同じ条件のもと刺針加奈女が犯人を指摘します。あなたに求めることはただ一つだけ『刺針春香を殺害した人物は誰か』の一点のみです。
あなたの推理がまとまりましたら、どうぞ次章へお進みください。
4.五月六日
僕と加奈女の二人は、日付が変わりみんなが寝静まった頃を見計らい、犯人がいる部屋に行くことにした。もちろん寝込みを襲うわけでは無い。僕達の――加奈女のだが――推理を犯人に聞かせに行くのだ。聞かせた上で逃げ道を無いことを悟らせて、大人しく出頭してもらうことが僕たちの望みだ。ちなみに、僕はまだその推理を聞かせてもらっていない。
「え、ここに犯人がいるの。何かの間違いじゃないの」
加奈女に連れてこられた部屋は僕が予想していた部屋とは異なり、僕は驚嘆させられた。
犯人がいる部屋の扉を静かにノックする。犯人には前もって加奈女から話しがしたいとメールを送ってあるので、こんな夜中でも起きて待っていてくれているハズだ。
「どうぞ」
犯人も周りに気を使っているらしく、小声で応答した。僕たちはその声を聞き、深呼吸を一度してから部屋に入った。
部屋の中にいる人物は部屋の中央にある座椅子に座り、僕たちの顔を覇気の無い顔で見上げていた。二つある布団は綺麗に畳まれ隅に鎮座している。
「入り口で話すのもなんだから、こっちで話せばいい」
「気を使わなくて大丈夫よ。ここで十分だわ」
彼の誘いを一蹴した。加奈女は彼を警戒しているのだ。仮に彼が犯人だった場合、無闇に部屋の中に入るのは危険であるのだから。
「そうか。で、こんな夜中にどんな話がしたいのかな」
「率直に聞くわ。春香さんを殺したのはあなたね」
「どうしてそう思うんだ」彼の眉間に皺が寄る。「ぜひ理由を聞きたいね」
「わかったわ。長くなるけど勘弁してね」
こうして加奈女の論説が始まった。
「まず、話の時空列を殺人事件があった五月五日の午前零時に戻すわ。午前零時に海月叔母さんが台所に行きお父さんが春香さんを発見したのが午前二時三十分。この二時間三十分が犯行時刻になるけど、実はもっと縮めることができるわ。碧人叔父さんの証言では春香さんは一時過ぎにトイレに行っているわ。戻ってきている足音を海月叔母さんが聞いているから、この時点で春香さんが生きてたことになるわね。ここまでで質問はある?」
僕と彼は加奈女の顔を見つめ、ぴくりとも反応しない。加奈女は僕と彼の顔を伺うと、納得したように説明を続けた。
「では、殺人が行われた現場の状態を確認の意味を込めて説明するわね。春香さんが刺殺体として見つかったのは台所の中央、そこで何かを護るように丸まりながら背中を刺されていたわ。手の中にあったのは卵ね。ガスコンロには作りかけの味噌汁と思われるものが置かれていて、ワークトップにはまな板があったわ。状況から見ると食事の準備をしていて背中を刺されたように見えるわ」
「じゃあ、やっぱりお袋が殺したんだろ。お袋は春香のことを嫌っていたし一時頃にトイレに行ったと言っていたじゃないか」
「いいえ」加奈女は目を伏せた。「お婆ちゃんでは無いわ」
彼の意見を否定する言葉を視線に乗せて、加奈女は彼を睨んだ。口には出せないが、正直に言えば僕も美智子が殺してしまったと思っている。
「状況だけ見れば食事の準備をしていたところにお婆ちゃんが現れ口論となり背中を刺した。俗に言われる衝動的犯行ね。しかし、真実は違うわ。これはどう見ても計画的犯行よ」
加奈女は一度天井を仰ぎ、脳をリフレッシュさせて説明に戻る。
「ちゃんと否定する理由はあるわ。台所の状況を思い出して。調理中でまな板があったということは、包丁があったのはまな板の上か春香さんの手の中よ」加奈女が僕を見る。「じゃあ、春香さんの調理中に台所に入るとするわ。いきなり背後に現れた人影に春香さんはどんな反応をすると思う?」
僕は目を瞑り春香さんの立場に立って考えてみる。調理中に背後に現れた気配。僕や加奈女、気心の知れた碧人ならいざ知れず、美智子ならどうしようか。
「……振り返って誰が来たのか見る」ここで僕ははっとした。「そうか。振り返るのか」
「そう。振り返るのよ。二人暮らしなら振り返らないことも多いけど、三人以上家に人がいる場合、人は誰が来たのか気になり振り返るのよ。そうすると犯人は春香さんと対峙してしまい背中を刺すことは困難になるわ」加奈女は咳払いをする。「そもそも証言を聞く限りお婆ちゃんの方が部屋を出たのが早いから、これだとお婆ちゃんが朝食の準備をしていたことになってしまう。春香さんが卵を持っていた意味がなくなるし、お婆ちゃんもボケるにはまだ早いわ」
「それならお袋が誘って春香と一緒にご飯を作ってたかもしれないだろ。そして口論になり刺してしまった」
彼が静かに反論する。加奈女は首を振った。
「春香さんは料理を作っていないわ。だって、包丁を切った具材が無いもの」
「具材?」
「えぇ、包丁を使ったなら切った具材が残るじゃない。でも、洗い場の三角コーナーの中は野菜のヘタとかだし、鍋の中はワカメだけよ。つまり、あの包丁では何も切っていないわ。仮に何かを切るつもりでまな板の上に包丁を置いておいたとするわ。その場合、春香さんを刺すには包丁を片手に、春香さんと場所を交換することになるわ」加奈女は口元に手を当てて笑った。「春香さんの背中がまな板になるわけないのに、春香さんのどこで包丁を使うのよ。これは春香さんにとって意味不明な行動になり背後をとれないわ」
そうだ。背中を刺すには気付かれずに背後に回らないとならない。
「言われる前にもう一つの可能性を潰しておくわね。包丁が引き出しに入っていた場合よ。これは言わなくてもわかるかと思うけど、春香さんに気付かれずに出すことは不可能よ。あの引き出しは建て付けが悪くて音がするから、包丁を出したら気付かれるわ」加奈女は人差し指を立てた。「つまり、春香さんがいるところで包丁を手にして背後に回るのは無理だわ。包丁は事前に準備されていたのよ」
衝撃の事実に僕の背中には電撃が走った。
「じゃ、じゃあ料理をしていたっていうのは……」
「犯人によるカモフラージュよ。おおかた朝食の準備に見せかけてお婆ちゃんに罪を着せようとしていたのね。でも、今回の殺人には大きな誤算があった。春香さんが見つかる時間が早すぎたのよ」
彼の額には汗が滲んでいる。
「次に進むわね。次は各自の証言を並べるわ」
加奈女はメモ書きした紙を広げた。
午前零時、海月と光久台所に行くが異常なし。
午前一時手前、美智子トイレに行く。
午前一時過ぎ、春香トイレに行く、戻る足音を海月が聞く、同室の碧人は戻ったことに気付かない。
午前二時手前、碧人トイレに行く、その際に阿久と加奈女とすれ違う。
午前二時、阿久と加奈女トイレに行く。
午前二時三十分、光久台所にて春香を発見。
※、光太郎は部屋から出ない。
「これがみんなの証言よ」
僕の証言が混ざっているメモ用紙を見るが、気になるところは全くない。
「これになにか混ざってるの?」
加奈女が溜息を吐く。
「もう夜が遅いからってまだ寝るのは早いわ。私はさっき台所の状況はカモフラージュで、包丁は事前に準備されたものだと言ったわ。つまり、台所の状況を作るために一回、春香さんを殺すために一回、合計二回部屋から出た人物が犯人よ」
僕はもう一度メモ用紙に目を通す。そのうえで加奈女に質問を投げかけた。
「逆さに読んだって部屋から二回も出た人はいないよ。その推理は間違ってるんじゃないの」
加奈女は額に頭を当てる。
「アックン……あなたは馬鹿なの? 春香さんを殺した人が嘘をつくのは当たり前じゃない」加奈女の蔑む瞳が僕に刺さる。「なにも無い人は正直に話して、自分に非がある人間は黙っていて、なにかを聞かれた場合には嘘をつくのよ」
僕には思い当たる節がある。海月のプリンを食べてしまったことを黙ったままだ。言えば許してくれることはわかっているのだが、聞かれるまでは黙ったままにしようと思っていた。
「話を戻すわね。ここで嘘をついている人間が犯人よ」
加奈女が黙って聞いている彼を指差す。
「碧人叔父さん、あなたが犯人よ」
――束の間の静寂が訪れた。最初に口を開いたのは碧人だった。
「いつから気付いていた」
「みんなから話を聞いた時から薄々気になっていて、海月叔母さんから足音を聞いたのを聞いて確信したわ」
「一体どういうこと」
この場で真実がわからないのは僕だけのようだ。僕は二人の顔を見比べる。
「アックンのために説明するわね。海月叔母さんが聞いた足音は春香さんのものではなく、碧人叔父さんの足音なのよ。碧人叔父さんは一時過ぎに台所でまな板と鍋の準備、それと包丁を隠してから部屋に戻って、春香さんと共に台所に行き犯行に及んだ。なんて言って春香さんを誘い出したかはわからないけど」
「酒に酔ってしまった、味噌汁が飲みたいから作ってくれと言ったんだ」
「よく春香さんは動いたわね。私なら動かないわ」
「恥ずかしい話だが、ここで駄々をこねたからな」
「恥ずべきことはそんな話より春香さんを殺したことだわ」
碧人は眉を上げ驚きの表情を浮かべた。そのあと鼻で笑い、そうだな、と一言。
「春香と一緒に部屋を出た俺はトイレに行くからと階段を降りて右に曲がり、春香を先に台所に向かわせた。実際にはトイレに行かずに忍び足で台所に行った。電子レンジの上に包丁を置いておいたから、それで春香を刺した」
「そのための卵ね」
「加奈女はなんでもお見通しのようだな。床に卵を置いておいたんだ。春香がそれに気付いてしゃがんみ、卵を手にとった瞬間に刺した。俺は上から体重をかけて背中を刺せるから、固い背中からでも包丁で刺し殺せた」
「全部話してくれてありがとう」
「俺は感謝されることは何もしちゃいない。それよりも、肝心の物的証拠があるんだろうな。外に出て俺が否定したら、今までのやりとりは意味ないぞ」
「もちろんあるわ。碧人叔父さんが抵抗した時のためにね。犯行の時に使った手袋が台所に捨てられていたわ。そして、蛇口に付いていた茶色の砂のような物は鶏糞ね。ここにきて二日目に鶏舎で仕事をしたのは、お爺ちゃん、お婆ちゃん、海月叔母さん、碧人叔父さん、お父さんの五人よ。手袋は外の焼却炉に捨てるから、家には持ってこないわ。それならば、話は簡単よ。卵と手袋を持ってきた人が犯人だわ」
ここで僕は疑問が浮かんだ。
「仕事が終わって帰ってきた碧人叔父さんを見たけど、手にはなにも持って無かったよ。手袋は肘まである長いタイプだから、折り畳めば厚くなってポケットが不自然に膨らむから気付くと思うんだけど」
「アックン良いところに気付いたわね。でも注意力が足りないわ。碧人叔父さんが手袋と卵を入れていたのはポケットではないわ。パーカーのフードよ。人間の頭は想像以上に大きいからパーカーのフードならすっぽり入るし、手袋で型を作って入れれば自然な立体感を生み出せるから卵が入っていても気にならないわ。だから、碧人叔父さんのパーカーのフードの内側には鶏糞が付いているはずだわ。それが証拠よ」
碧人は静かに聞いている。
「一回目に台所に行った時に、指紋を付けたくない一心で碧人叔父さんは手袋をした。しかし、その手袋には鶏糞が付いていた。鶏糞を洗い流すために蛇口を捻り水を出した。鍋や包丁に指紋を付けないことに夢中で、最初に触れた蛇口を洗うことを忘れてしまったのだと思うわ」
「まるで実際に見てきたように話すな。実は陰でこっそりと見てたんじゃないか」
「まさか」加奈女は肩をすくめた。「私にもわからないことがあるわ。それは動機よ。どうして春香さんを殺したの?」
碧人は深呼吸を二、三回してから答えた。
「表では良い子ちゃんをしてるが、裏でアイツは浮気してたんだよ」碧人は青筋を立てた。「浮気してるだけでも気が狂いそうなのに、アイツは離婚をするから慰謝料をよこせと言ってきたんだ。信じられるか? DVを受けたとか性の不一致を理由にするからアナタに勝ち目はない、大人しく言うことを聞くのが身のためだと」
碧人は畳を殴りつけた。
「俺はアイツの金蔓じゃない。どうしても許せなかった。そこで今回の計画を思い付いた。お袋は春香を嫌っているから罪を被せようと思ったんだ。春香は八方美人だからな、俺と仲が悪くてもここに来ることは断らなかった」
「二人とも馬鹿なのね」加奈女は碧人を見下ろした。「似たもの同士じゃない」
「そうだな。話は終わりだろ。終わったなら一人にさせてくれないか。もう人を殺すことはないから安心してくれ。それに救助が来たら自首する。加奈女に見抜かれるほどのお粗末な犯行だ。黙っていてもすぐに捕まるだろうしな」
「わかったわ」
部屋から出ようと扉に手をかけたところで、加奈女は振り返り、碧人に最後の疑問をぶつけた。
「そういえば、床に置くのは野菜でもなんでも良かったのに、どうして卵だったのかがわからないわ。もし良かったら教えて」
碧人はなにも無い壁を見ていた。その視線はどこか遠くを見ているようだった。
「俺はこの家が嫌いだった。鶏は臭いし産みたての卵は汚い。春香に裏切られた時に、どうせ殺すなら全て壊してやろうと考えた。俺が物心ついた時には卵があるのが当たり前で、その汚い物は毎日生み出されてた。だから、この殺人を生み出すのも卵に委ねることにしたんだ。春香が気付かず卵を蹴るなり跨いだら大人しく部屋に帰るつもりだった」碧人は俯いた。「ただそれだけだ」
「ありがとう。おやすみなさい」
僕達は部屋から出ると、大きな溜息を吐き出した。
「俺ションベンちびるかと思ったよ。よく姉ちゃん耐えられたね」
「このぐらい余裕よ」
加奈女の足が震えていることに気付いた。
「なんだ嘘かよ。姉ちゃんも嘘つくんだな」
加奈女は僕の口に人差し指を当てた。
「人を傷付けるのが嘘、人を笑わせるのが冗談よ。しっかり覚えておきなさい」
加奈女は満足したのか、寝室に戻っていった。
僕は照れ隠しの台詞に笑いがこみ上げてきた。
5.エピローグ
日が昇り始めた頃にインターホンが鳴った。玄関を開くとそこにはオレンジ色の服を着た救急隊員と、紺色の制服を着た警官がいた。土砂の撤去が進み車一台が通れる隙間ができたようだ。
普段着に着替えて外に出てみる。外はまだ薄暗かったが、雨は止み雲が切れて星を覗かせている。久しぶりに太陽の香りがした。
春香の死から美智子は心身共に虚弱状態になっていた。強い一面しか見せなかった美智子だったが、実は心が弱く常に強者であろうとしていたと知り、僕は驚きよりも哀れだと思った。その弱い心で春香と一歩近づく努力をすれば、碧人もこんな計画を思い付かなかったのではないだろうか。ストレッチャーで運ばれる美智子を光太郎が励まし、二人は救急車で病院に搬送された。
碧人は罪を認め、その手首には手錠が嵌められた。
「迷惑かけて悪かったな」
碧人は誰と目を合わせるわけでもなく、ただただ地面を見ていた。
「まぁなんだ」光久は頭をぼりぼりと掻く。「兄弟なんだから相談ぐらいしろよ。出てきたら愚痴を聞いてやるから一杯やるぞ」
「アンタは一人で抱え込み過ぎなのよ。待ってるからちゃんと帰ってきな」
意外な兄弟の声に碧人は顔を上げた。
「――すまない」
パトカーに乗る時に、碧人の頬に涙が伝うのが見えた。
僕は加奈女を見た。加奈女はジーンズのサロペットに黄色のトレーナーを着こなし、ニュースボーイキャップを被っていた。姿形は幼いままだったが、その身に纏う雰囲気は大人と同じに感じた。
「よく姉ちゃんは犯人がわかったな。やっぱり推理小説のおかげなのかな」
推理をしている時の加奈女は格好良く、僕の中に小さな火を灯した。たぶんこの火は憧れだと思う。
「卵の中にはなにが入ってると思う?」
「白身と黄身でしょ」
「これもそれと同じよ。殻を割れば中から出てくるのは真実だけよ」
加奈女はどこか寂しそうに話した。
「そろそろ行くから車に乗って」
海月に声をかけられた。この辺りは土砂災害警報が出ているようで、近くの公民館に避難することになったのだ。
なにも知らない鶏の鳴き声が聞こえてきた。タイマー式の照明が朝を告げたのだろう。
夜が明ける。鶏が鳴く。そしてまた卵が生まれる。