キツメの彼女
「これから飲みに行かない?」
「は? めんどくさい」
「奢るからさ」
「今テレビ良いところだから。邪魔しないで」
「……そっか」
うちの彼女は口が悪い。気分屋だしわがままだし何考えてるかわかんないし。でもどうしてか僕と付き合ってくれた。こんな僕と。
僕と彼女が付き合い始めたのは、今から三ヶ月前の夏。会社の飲み会の帰り道でのことだった。
僕は前から彼女に想いを寄せていて、酒の勢いにも手伝ってもらって告白をした。その時は断られたのだが、次の次の日の月曜日、職場で会った時にどんな顔をすればよいかと悶々と考えながらの仕事が終わった夜、彼女からメールで連絡が来た。ちなみに彼女とは部署が違うため、そこまで顔を合わせる機会が無い。その日は結局会えず仕舞いで、良かったような残念なような。
『終わったら連絡して』
そっけない用件だけの文章が一行だけだった。それもまた彼女らしいと言えば彼女らしいのだが、僕はそれはもう光の速さで電話をした。数コール後、彼女の声が聞こえた。
『……もしもし』
「もしもし? 僕だけど、仕事終わってたから連絡を……どうかした?」
『……キモイ』
「いや、いきなり第一声がそれってどうなの?」
『まぁいいや。近くの「アペロール」っていうバーわかる?』
「バー? 知ってるけど……」
『じゃあそこ来て。なるはやで』
「う、うん。わかった」
そう言われた僕は、さほど遠くない距離にあったそのバーに小走りで向かった。
バーは、三十代前半くらいのマスターが一人で営んでいて、カウンターの席が八席あるだけの小さなバーだ。『アペロール』という名前はオレンジ系のリキュールから取っているらしく、店の中をのぞける小窓には、数個の作り物のオレンジが置かれていた。
僕は何度か足を運んだことがあって、彼女とも来たことがあるバーだった。もちろん二人きりというのはなく、ほとんどが同僚数名と一緒だった。
ドアを開けると、マスターが出迎えてくれて、目配せで一番奥に座っている彼女の方へと案内された。
「お疲れ」
「お疲れさま。あ、ラムコークで」
「はい、お待ちを」
彼女は甘いお酒が好きだそうで、今もミルク系のカクテルが入ったグラスを置いていた。
「で、なんかあった?」
「いきなりソレ?」
「いや、催促してるわけじゃないけど、誘われたの初めてだったから何かあったのかと思って」
「誘ったっていいでしょ」
彼女はムスッとした顔でグラスに口をつけて一口飲んだ。僕としては彼女はいつもこんな感じなので慣れた。
僕はマスターが目の前に置いたラムコークを一口飲み、改めて彼女に尋ねた。
「えっと、どうかした?」
告白されて断った相手を誘ってきたんだから、何かしらの理由があるはずだ。僕はそう考えていた。
「……別に」
「別にって……」
彼女はまたグラスに口をつけた。それに倣って僕もグラスに口をつけた。まだ夜も始まったばかりで仕事上がりで空腹な僕は、彼女と呑める機会に酔うわけにはいかないので、ペースを上げるようなことはしなかった。
そんな僕の心境を知ってか知らずか、彼女は無言を貫いていた。グラスをクルクルと傾けながら、中の氷が音を立てるのをただ見ていた。元々表情が豊かじゃない彼女が何を考えているかなんて全然わからない。しかしふとした時に見せられた彼女の笑顔に僕はハートを撃ち抜かれたのだ。笑顔の矢で心臓を一突きだった。
店内にはしっとりとしたジャズが静かに流れていて、僕はラムコークに視線を落としてそれを聞いていた。
「あのさ」
ジャズの曲が途切れた時、彼女が口を開いた。
「ん?」
「なんで私なの?」
それは告白の話だろう。僕はすぐに気が付いた。チラリと彼女を見たが、視線は相変わらずグラスに注がれていたので、僕も視線はグラスに戻した。
「笑顔がステキだったから」
「それだけ?」
「それだけ、じゃないけど……恥ずかしいから言いたくない」
「ふーん」
そう言うとまた黙ってしまった。気まぐれな彼女のことだ。きっと僕が彼女に告白したことが不思議でならなかったのだろう。これは一種の事情聴取みたいなものだろう。
僕は何を聞かれてもいいやと思ったが、何を言ってるかわからないジャズの歌声が耳に入ってきて、『これは歌有りなんだ』とか全然どうでもいいことを考えていた。
だから彼女の不意打ちに気が付かなかった。
「付き合ってもいいよ」
「そっか。ありがとう」
「ん。よろしく」
「うん」
…………ん?
「え? 今なんて言った?」
「なんなの? その耳は飾り? それとももう酔った?」
「いや、今なんて言ったの?」
「はぁ……」
僕の言葉に、彼女は深いため息をついた。
「いやいや、今付き合ってもいいよって言った?」
「聞こえてるんじゃん。何回も言わせないで」
「え? いいの? 本当に?」
「……なんなの? 質問攻めが好きなの?」
こっちを向いた彼女の眉間にシワが寄った。
「マジで!? マジでいいの!?」
「…………うん」
「マジか。マスター聞いた? 今の聞いてた?」
「聞いてましたよ。おめでとうございます」
微笑みながらそう言うマスターとムスッとした彼女を交互に見ながら、何とも言えない喜びをどう表現したらよいものかと頭の中はパニック状態だった。
「じゃあさ、今度から恋人同士になるってこと?」
「絶対に会社にはバレないようにしてね。めんどくさいから。バレたら別れるから」
「オッケーオッケー! 全然オッケー!」
「私冷やかしとか嫌なんだよね」
「僕もそういうの苦手だから大丈夫」
その言葉に、彼女はチラリとこちらを見た。そして口の端をわずかに動かして言った。
「そんな気はしてた」
今のは……笑ったのか? あ、相変わらずツボがよくわからない。でもそれが良い。
「えっと、じゃあ、その、こ、これからよろしくお願いします」
「うん。よろしく」
そんなわけで付き合い始めたのだが、僕としては一緒に入れるだけで楽しい……というか満足なので、出かけるとかデートとかっていうのは頻繁にできなくても構わなかった。
彼女は元々出不精のようで、基本的にどちらかの家でのんびりすることが多かった。たまにデートに行っても昼くらいに待ち合わせて日が沈むころには帰ることが多かった。大人の付き合いとしてはどうなのかとも思ったけど、僕らは僕らだし、とほとんど割り切っていた。
今日も僕の気まぐれで飲みに誘ってみたのだが、見事に断られてしまった。まぁいつも通りと言えばいつも通りだ。
並んでソファに座ってテレビを見ていると、彼女は不意に口を開いた。
「一個聞いてもいい?」
「ん? どうかした?」
「なんで私と付き合ってるの?」
キョトンとした僕に、彼女の無機質な視線が注がれる。
僕は急展開な質問に、とりあえず思いついたことを言った。
「えっと、好きだから、かな?」
「曖昧すぎ」
「具体的にってこと?」
彼女は何も言わずにこちらを見続けている。無言は肯定。これは彼女と付き合い始めてから知った。
「僕は別にどこかでかけられなくても一緒ならそれでいいかなって。両方の意見を尊重すべきでしょ」
「私の意見しか通してなくない?」
「まぁ、そうかもしれないけど、惚れた弱みってやつかな。ははは」
僕は照れながら後頭部をポリポリとかいた。
彼女はふいっとまたテレビの方を向いてしまった。な、なんなんだ?
僕が今の羞恥心をどこにやったらいいのかと考えていると、彼女はテレビのリモコンに手を伸ばし、電源を切った。そして立ち上がって僕を見下ろす。
「……ほら」
「え?」
「行くよ」
「どこに?」
「飲みに行きたいんでしょ。付き合ってあげるって」
「え、なになに。どういう風の吹き回し?」
「……たまには互いの意見を尊重しないと」
僕は頬が緩んだのを感じた。
「急にどうしたのさ」
「いいから行くよ! 立って!」
そっぽを向いて手を差し伸べる彼女がなんだかおかしくて、僕は笑いそうになったけど、笑ってしまうと彼女の気が変わってしまうかもしれないので、そこは堪えて彼女の手を取り立ち上がった。
「どこ行く?」
「アペロールがいい」
「あそこ好きねぇ」
「あそこのBGMが好き」
「僕とどっちが好き?」
「調子に乗るなっ」
僕は足をガスッと蹴られた。
おしまい
最後まで読んでいただきありがとうございました。