02-3
やがてやってきた出国の日。
ヴィクサーは力いっぱい要にしがみついて、かたくなに離れることを渋った。
「いやだ! カナもいっしょじゃなきゃ帰らないっ」
「ヴィクサー、年端のいかない子どものように駄々をこねるのはやめろ。ハーツォグの皇太子ともあろう者がみっともないぞ」
「父上ぇ…!」
頭では、これ以上ごねても無駄だと判っている。みっともない真似をしている自覚もある。
それでも「もしかしたら」「ひょっとしたら」という奇跡にも似た期待に一縷の望みをかけ、懇願をやめない。
普段のヴィクサーは、みなまで言わずともすべてを理解し、あまつさえ相手の望むことから更に一歩も二歩も先回りした言動をやってのけるほど怜悧で聞き分けがいい、いわゆる「よくできた聡い子ども」だった。
だが、それゆえに同年代の子どもと比べればやや感情を抑えがちで、父王はつねづね若干の危惧を抱いていた。
…それが、一体どうしたことか、この変わりようは。
今回、道中から滞在期間中にわたるまでずっと見せてきた、八つという年齢に見合った、演技ではない本物の無邪気で楽しそうなさまは、本当に貴重なもので。そんな息子が初めて子どもらしいわがままを見せたことが父親として非常に喜ばしくもあり、されども国政を主導する王としてはそのわがままを叶えてやるわけにはいかず。
父王はすっかり困り果てた顔で溜息をはいた。
一方の要も、困惑と苦笑の入り混じった複雑な表情を浮かべて、眼元と鼻先を赤くしてぐずるヴィクサーの金の頭をそっと撫でてさとすだけに終始した。
「申しわけありません、ヴィー殿下。わたしはこの国の臣民で、軍部のいち士官です。ですので、どうあってもここを離れるわけにはいかないのです。なにとぞご理解ください」
「やだっ! 絶対いやだっ! カナも連れて帰るんだぁっ!」
「殿下……」
ヴィクサーは意地になってますます強くしがみつく。
こうなれば持久戦だ。
〈カナがいっしょに行くと言ってくれるまで、何が何でも離すもんか!〉
「わたしごときをこれほどまでにお慕いくださるヴィー殿下のおこころは、たいそう嬉しく思います」
落ちついた穏やかな声。要の両腕が抱擁するようにふわりと背にまわされ、ヴィクサーは顔をあげた。
まっすぐに見つめてくる黒眸に一気に期待が高まるが、すぐさま打ち砕かれる。
「ですがやはり、お申し出をお受けすることはできません」
「どうして…ッ」
「わたしが和国に仕える武官で、殿下が覇国の次期国王だからです」
「それの何がいけないんだよぉ…」
ふたたび顔をくしゃくしゃにして唇を噛みしめる。そんなの全然納得いかない。
いつもの大人顔負けの冷静さと判断能力を欠いたヴィクサーには、要の言葉が筋の通らない単なる言い訳にしか聞こえない。
自分が今、悔しいのか、悲しいのか。それとも怒っているのか。
制御できないほどに感情が昂りすぎて、それすら判らなくなっていた。
「和国にも、そして覇国にも。わたしを本国に随行させたいというヴィー殿下のご意志を受け入れられぬ事情があるのです。物事には万事、道理というものがございますれば……どうかお聞き入れください、ヴィー殿下」
軍属であるせいか、女にしてはやや節くれだった指先で、やさしく頬を伝うしずくをぬぐわれる。
この温もりと離れなければならないのだと思うと、また新しい涙があふれ出てくる。
どうして。
何が、いけないと言うのか。
「カナは、おれが…き、きらい、なのか」
「いいえ、違います。そうではありません」
きっぱりと否定した要は、膝を突いてヴィクサーと同じ目線になり、その小さな両肩に手を置いて語りかける。
「ヴィー殿下。ただ今の御身には少しばかり難しい話やもしれませんが、それでもどうかお聞きくださいませ。
――あなたさまのこの双肩にかかるものは限りなく大きく、また重い。しかれども、それがいかに投げ出したくなるほど苦痛な重荷であろうとも、絶対に負うことから逃れようとはなさるな。上辺だけの讒佞のやからの誘惑には決して屈されますな。今、殿下がその御胸に抱いておられるお志をそのままに、御国の永き繁栄を支える礎に――延いては近隣諸国の王が治国の指標と見習うような、民に慕われるよき名君となられませ。
そのためには、このようにわたしひとりにおこころをかまけていてはならないのです。おのおのの立場を、互いの地位というものを考えねば――聡明な殿下ならば、お判りですね?」
「…」
難解な言葉の羅列に、言っている意味は半分も判らなかった。
要を好きなことが、国政を担う者として適っていない? そんなのは大人の理屈だ。関係ない。
〈杞憂だ。おれは……おれなら、カナを、カナだけを好きなまま、国をよき方へと導いていけるのに〉
しかも、いずれはヴィクサーが王位を継がなければならないにしても、それにしたって随分先の話だ。
現王たる父はこの通り、息子であるヴィクサーの眼から見ても老いの気配など微塵もない、男盛りの壮健ぶりなのだから。
ヴィクサーは涙目で要を睨みつけ、引き結んだ唇を不満げにとがらせた。
一歩も引かないその様子に、困ったように眉根を寄せた要はほんの数秒、視線を斜め上にさまよわせ、それからまたヴィクサーに視線を戻して今度は少しだけ笑った。
「ですが…そうですね。もしもすべてを成し遂げられた際に、まだわたしのことをご記憶にとどめておいでであれば――。そのときにこそ、今一度、わが国においでください。そしてわたしに、ご立派に成長なさった殿下の雄姿をお見せくださいませ。遠く東西に国をへだててはおりますが、この戸倉要、殿下のご活躍を心より楽しみにしておりますよ」
「…うぅ~…」
曲がりなりにも男として、好いた女からそこまで言われてしまっては、もう引きさがるしかなかった。
幼いながらになかなか骨のある男の矜持を有していたヴィクサーは、袖でぐいっと涙をぬぐい、好きで好きでたまらない要からとうとう自らの手を離した。
しかし、車中の人となって尚、名残惜しさは尽きず。
父王と相乗る馬車の小窓から何度も後ろを振り返り、そのたびに声を張りあげる。
「カナ、おれ、必ずおまえに会いに行くから…っ! だから絶対待ってろよっ」
「はい」
「約束だからな! 忘れるなよ!」
「はい」
じょじょに皇宮が遠くなる。要の姿が小さくなり、やがて返事も聞こえなくなる。
豆粒大ほどの大きさになった距離から、ヴィクサーは最後にありったけの大声で叫んだ。
「カナーッ、大好きだーッ! いつかおまえを妃に迎えにいくからなーッ!」
最後の叫びに対する返答は果たして「はい」だったのか、それとも違う言葉だったのか。
確かめるにはあまりに要から離れすぎていて、ヴィクサーは開け放った小窓から皇宮のほうに顔を出したまま、しばらく湧き上がる切ない寂寥を噛みしめていた。
――それからしばらくして。
肌触りのよいフカフカした壁面に力なくもたれて俯いていると、やれやれといったふうに口元をゆがめた正面の父王から、額をぺちりとはたかれた。
「ませガキが…」
乱暴な口調のわりには、小突かれた額にさほど痛みはなかった。
御国の永き繁栄を支える礎に――延いては近隣諸国の王が治国の指標と見習うような、民に慕われるよき名君となられませ。
要はもう忘れているかもしれないが、あのときの言葉は、今やヴィクサーにとってそっくりそのまま将来を決定づける尊い神託となったのだった。