02×焦がれ焦がれて、引き裂かれて
要と出会ったのは、ヴィクサーがまだ八つのときのことだ。
ハーツォグ王である父の手に引かれ、大陸を縦断する峻厳な山脈をはるばる越えて、初めて泰東の地を踏んだ。
行き帰り合わせてひと月半もの長旅のうえに、人生初となる未知の東方への遠出とあって、日ごろ英邁なる神童と謳われながらも多分に好奇心旺盛な年齢であったヴィクサーは、珍しくも歳相応の少年らしく、まるで大冒険でもしているように毎日わくわくと胸を躍らせたものだ。
国を出発して三週間。
幾つもの国境を通過し、ようやく目的地の和国皇宮に到着した。
「覇国王陛下、皇太子殿下、ならびに随伴の方々。遠路はるばるようこそお越しくださいました。皇におかれましては近ごろご体調がかんばしくなく、代わって現在和国の内閣総司をつとめておりますこの不肖高村が、このたび出迎えの大役をおおせつかった次第です」
居並ぶ人々のなかでもっとも高官だと思われる老官僚が前に進み出、先導に立った。
道中もそうだったが、ここは右を見ても左を見てもどれもこれもすべてが不思議で、いっそう興味を掻き立てられた。眼に入るもの全部が気になってしょうがない。
ヴィクサーはキョロキョロと周囲を見回しながら、父王の横について白亜の回廊を歩いた。
「われらが皇はこちらにてお待ちです。わざわざご足労いただき、深く感謝いたします」
「ああ、気にするな。形式にさしてこだわりはない」
「調印には皇太子殿下もご同席なさいますか。皇はいっこうにかまわないとおおせですが」
「……いや、これは連日はしゃいで夜もろくに眠っておらぬゆえ、先にやすませて欲しい」
「承知いたしました。それでは皇太子殿下、どうぞこちらへ」
父王と別れて案内されたのは、皇宮と同じくやや西方風の建築様式が際立つ迎賓館。
もうもうと黒煙をあげて軌条を走る鉄道の車窓から見た純和風の家屋も好きだが、これはこれで違ったおもむきがあっていい。
「こちらが当方でご用意させていただいた皇太子殿下のお部屋となります」
「…わあ…」
東西の文化がほどよく調和する簡素だが品のいい客間に、ヴィクサーは思わず歓声をあげて見入る。
が、ほほえましげな老翁の視線に気づき、あわてて表情を引き締めた。
「ご滞在なさるあいだ、皇太子殿下の身のまわりのお世話をする者をご紹介いたします。
――戸倉士官」
「はっ」
明朗な返事とともに、十代なかばごろの少女が戸口に現れた。
肩までできれいに切り揃えられたまっすぐな黒髪と、凛ときらめく意志の強そうな漆黒の双眸が印象的だった。
ヴィクサーの眼はたちまち、少女に釘づけになる。
〈父上が持っている和国の絵巻物に描かれた女の子が、そっくりそのまま出て来たみたいだ〉
「これよりこの者を女中代わりにお使いください」
「戸倉要と申します。ご用向きがございましたら何なりとお申しつけを、殿下」
〈…あれ?〉
紫の眼をかがやかせ、興味しんしんで少女のそばに駆け寄ったヴィクサーだったが、少女が口を開いた途端に違和感を覚えて、内心頸をかしげる。
女中の恰好をしているのに、きびきびとした所作と少女らしくない角張った物言いが、どこか堅物な軍人を思わせるからかもしれない。士官、と言っていたから、あながち外れてもいないだろう。
〈ま、いっか〉
幼いヴィクサーはさして気にとめず、早々にその思考を切りあげた。
わけの判らない違和感よりも、眼の前にいる和国の少女への純粋な好奇心のほうが圧倒的にまさったので。
先刻「タカムラ」と名のった老官僚は一礼ののち、すでに客間を辞しており、広い部屋のなかはヴィクサーと少女の二人きりだ。つまり、気にすべき人目はもうない。
皇太子の皮を脱ぎ、ここぞとばかりに問いを投げかける。
「えーと、トクラカナメ……だっけ?」
「はい。戸倉が姓で、名が要です」
「カナメ……じゃあカナだな! おれはヴィクサー。ヴィーって呼んで」
手を取って屈託なく笑うと、少女――要は一瞬驚いたように眼を見開き、ふっと頬をゆるめた。
「…はい、ヴィー殿下」
「ヴィーでいいってば」
ぷくっと唇をとがらせて不満顔をしてみせても、要は聞き分けのない子どもをあやすようにやわらかく微笑むばかりで、終始『殿下』の尊称を取り払おうとしなかった。
こうして和国に滞在しているあいだじゅう、ヴィクサーは何かにつけて「カナ、カナ」と要を呼びつけ、かたときも己のそばから離さなかった。