子供な僕と由紀
「旅行って大変なんだな……」
「そうですね……」
僕と由紀はカフェのテーブルに突っ伏していた。
時刻は正午を少し回っていて、会社員や子連れの母親達で賑わっている。喋りながら食べる子供をたしなめる声、エスプレッソマシーンのけたたましい動作音、それらの間をぬうように聞こえるジャズ。
いつもなら顔をしかめるようなそれらの騒音も、今だけは少しありがたい気がした。
僕たちはついさきほどまで旅行代理店にいたのだ。
以下、そこでのやりとり。
「エベレストに行きたいんです」
「…ネパールですね。ツアーですか、個人旅行ですか?」
「いえ、その辺はまだ考えてないんですけど……」
「日程はいつ頃にどのくらいでお考えでしょう?」
「…いや、それもまだ考えてないんですけど……」
「…ご予算はお幾らくらいでお考えでしょうか?」
「……すいません、それもまだ……」
…振り返ると考えなしにもほどがある。僕は持ち上げかけていた頭をまたテーブルに打ちつけた。
正味五日ほどの入院生活から開放された僕は、ものすごく無駄にハイテンションだったのだ。ギプスさえつけてなかったら飛び跳ねていたくらい。まあ、松葉杖をライフルにして射撃のマネはやった。由紀がそばにいてノリノリだったのだけど、普通のひとには見えない……。
ハイテンションだったのは開放感からだけではない。エベレストに行く、という目的を得たこと。そしてそれが自分自身の人生においても大きな意味を持つような確信があった。その確信は、なんだってできそうな、万能感をもたらし、僕を高揚させていた。
そうして食堂にでも入るような気軽さで旅行代理店に行った僕は、まだ目的地以外何も考えていなかったことを思い知らされる。
旅行代理店の店員さんは、こんな僕に対しても最後まで笑顔を崩さずに(ちょっと引き攣っていたような気もするが)丁寧にアドバイスしてくれた。その結果、いくつかのツアーパンフレットとフライトプランのリストを持たされ、何度も頭を下げながら店を後にした。僕に倣うように由紀までペコペコ頭を下げていた。みえないのに。
そしていま、空回っていた事実だけが残っている。恥ずかしい……。
やがて僕は頬を両手で張って、気合を入れる。
「よしっ。まず、すべきことを明確にしよう」
「と、いうと?」
由紀は小動物みたいに小首を傾げる。
「情報収集と整理、計画と準備。とりあえずはさっきもらった資料と、あとガイドブックを買う」
「そうですね」
「そうと決まれば、書店に寄って帰ろう」
「おー」
そして僕らは書店を目指したのだが。
「少ないな……」
「少ないですね……」
ガイドブックコーナーで思わずこぼしていた。
規模の大きな書店にもかかわらずガイドブックは片手で数えられるほどしかなかった。そのどれもが簡素に必要最低限の情報のみを掲載していた。沢山の写真で豪華に彩られたハワイなどの人気観光地のそれとは明らかに一線を画している。写真などで魅せて盛り上げてやろうという気概はないらしい。
「まあ、選ぶ手間が省けるしな。」
「…そう…ですよね」
ポジティブに解釈することにして、無難そうな一冊購入すると、帰途についた。
バイクに乗れなくなって気付いたことがある。公共交通機関を使いこなすのはなかなか大変なのだ。病院から僕の家までは電車で三駅十五分、そこからバスで三十分弱、さらに待ち時間が加算されてしまう。いつも乗っていたバイクだと病院から家まで三十分もかからないだろう。
僕がバス停についたのは、ちょうどバスが出た後だった。時刻は三時前で本数そのものが少なく、次の便まで結構な時間があった。
「……どうするかなぁ……」
僕はこれといった案もなくつぶやいて、視線を彷徨わせてみる。
数人の高校生が壁にもたれて携帯を操作している。僕が数年前通っていた高校の制服だ。無性に親近感がわいてしまう。
ふと、由紀が何かためらうようにもじもじしているのが目に付いた。
「どした?」
「あっ…いや、えっと…その……」
歯切れが悪い。
由紀は少しの間逡巡すると、やがて決心したのか、よし、と拳を固めてから僕に向き合った。
「ここから少し歩いたところにカフェがあるんですけど、そこに行きませんか?」
「……?いいけど」
どこにそんな一大決心するような箇所があるんだろう?僕は首を傾げる。
由紀が先だって歩き出す。その肩越しの横顔を眺める位置で僕はついて行く。
連なったの客待ちタクシーの横を通り過ぎる。西に傾いだ陽射しは柔らかい。風が吹く。微かな冷たさを伴って。それから、近くのベーカリーから甘い香りも。
道中、由紀は何も喋らなかった。どことなく緊張したように、表情を強張らせていた。僕のほうも通行人の目があったせいもあり、特に話しかけなかった。
ちなみに誰かの前で由紀と話すとき、基本的に電話するフリをしている。こうすれば怪しまれず堂々と由紀と話ができるのだ。
目的のカフェには十分もかからずに到着した。白壁に臙脂の庇、濃い色の木材を配した落ち着いた外観だ。通りに面してふたりがけのテーブルセットが数組あり、そこで若いカップルが心地よさそうに談笑している。
僕も少し前まではそんなふうだったはずなのに、どこか遠い過去のように感じられる。
「さ、入ろうぜ」
僕はドアを開け、入り口で止まっている由紀を促す。
「は、はい」
由紀はおっかなびっくりといった様子で入り口を通りぬけようとして、また止まった。はっとしたように口を両手で押さえたので表情がみえにくい。
「おい。どうしたん……」
進まない由紀と入れ替わるように奥の方から店員が急ぎ足でやってきた。どうやら松葉杖をついている僕が扉を開けるのに難儀していると勘違いしたらしい。四十代後半位だろうか、その女性店員はおっとりとした口調で言った。
「大丈夫ですか?ごめんなさいね、この扉結構重いですから」
「あ、いえ、大丈夫です。ちょっと電話が…」
僕は出来るだけ自然を装って携帯を取り出し、通話するフリで動かない由紀に言う。
「由紀、どうしたんだ?由紀」
促しながら、呆然としている由紀の視線をたどる。そこに女性店員がいるのだが、彼女はなぜか僕を驚いたような表情でみていた。
「……どうかしましたか?」
「あ、いえ。失礼致しました」
すると、思い出したように由紀が動き、僕と女性店員の前を通って入店した。
「なんだったんだ……?」
僕も中途半端に携帯を仕舞い、店へと入る。
「おひとりさまですか?」
「あ…と、はい」
「ではこちらにどうぞ」
「ここ、わたしの家族がやっているお店なんです」
注文したレアチーズケーキとカプチーノがテーブルに置かれると、由紀はそう告白した。
僕は最初、由紀が言っていることが理解できなかった。
「さっき、入り口にいたのがわたしのお母さんです」
僕は店内を見渡す。先ほどの女性店員は、少し離れたテーブルで客とにこやかに談笑している。すると奥のほうからシェフらしい痩身の男性が現れ、会話に加わった。
「いま出てきたひとがお父さん」
由紀に視線を戻すと、彼女は柔らかく微笑みながらその様子を眺めていた。
「元気そうです」
由紀は穏やかな表情を向けたままつぶやいた。
僕はというと、少なからずショックを受けていた。彼女たちにではない。こんな身近に死があったという事実に。誰かの死を内包したまま生きているひとがいることに。情報として知ってはいても、実感がなかった。今更ながらに初めて気が付いた。由紀の死も、テレビで放送される誰かのそれのように、ここではないどこか遠くの出来事みたいに思っていた。(まあ、彼女の非現実的さもあるだろうけれど)
由紀がこちらに顔を向けたので、僕は訊いてみる。
「何か、伝えようか?」
「いいえ。いいんですよ、このままで」
彼女はくすくす笑って答える。
「それに…どう言うんですか?ただの怪しいひとになっちゃいますよ」
「確かにそうかもだけど……」
正面から向き合った由紀は、これまでより大人びてみえて、僕は言葉を継げない。
「本当はちょっとここに来るのが怖かった……。わたしがいた家族がいまどんな風か、知ってしまうのが。でも、元気そうなお父さんとお母さんを見てたらすごく安心して……。それだけで十分です」
「……おとな、なんだな……」
僕がつぶやくと由紀は、いい子いい子と、わざとらしく僕の頭を撫でた。




