【第39話】熱の向こうにある危機
天明六年、冬。
夜半を過ぎた頃、華岡家の戸を激しく叩く音が響いた。
「先生! 先生はおられますか!」
青洲は跳ね起きた。
戸を開けると、弥助の息子が肩で息をしながら立っていた。
「先生、父が……息ができねえって、苦しんでるんです!」
「いつからだ?」
「夜になって熱が上がって……。呼んでも、ろくに返事をしなくなって……!」
青洲の背筋に冷たいものが走った。
前日の診察で警告した兆候が現れている。
「すぐに行く。先に戻って、父親のそばにいてくれ」
「お願いします!」
息子が駆け出すと、青洲は診療部屋へ向かい、薬箱を取り出した。
物音を聞きつけた加恵が、行灯を手に現れた。
「あなた、何があったのですか?」
「弥助の呼吸が悪くなった。今から往診に行く」
「新吉さんにも知らせてまいります」
「ああ、頼む」
加恵は迷わず新吉の部屋へ向かった。
青洲は薬箱の中身を確かめ、必要な布を加えた。
ほどなくして、新吉が提灯を手に現れた。
「先生、支度はできています」
「よし、行こう」
青洲が薬箱を持ち上げると、新吉が手を差し出した。
「先生、薬箱は私が持ちます」
「ああ、頼む」
加恵は二人を戸口まで見送った。
「あなたも、新吉さんも、どうかお気をつけて」
「ありがとう」
「行ってまいります、加恵さん」
二人は凍える夜道へ踏み出した。
風にあおられ、提灯の火が激しく揺れる。
青洲は足を速めた。
肺炎か。
あるいは、別の原因による呼吸不全か。
2025年の医療なら、血液中の酸素量を測り、胸の画像を調べ、必要なら酸素を投与する。
しかし、ここには何もない。
それでも、患者は待ってくれない。
弥助の家へ着くと、息子が戸口で待っていた。
「先生、早く!」
家の中へ入った瞬間、青洲は異様な呼吸音を聞いた。
ヒュウ、ヒュウと空気を求める音。
その奥に、痰の絡む湿った響きが混じっている。
弥助は布団の上で口を開け、短い息を繰り返していた。
胸だけでなく、首の筋まで浮き上がっている。
息を吸おうとするたび、鎖骨の上がくぼんだ。
顔色は悪く、唇には青みが差していた。
「弥助、私の声が聞こえるか!」
青洲が呼びかけると、老人は薄く目を開けた。
「……せん……せ……」
それだけで息が途切れた。
言葉を続ける余裕すらない。
青洲は脈を取った。
速い。
しかも、弱い。
「新吉、弥助の胸の動きを数えてくれ。私が止めるまでだ」
「はい!」
新吉は弥助の胸の上下を一つずつ数え始めた。
青洲は自分の脈を指先で確かめながら、一定の間を測った。
「そこまでだ。いくつだった?」
「二十二回です!」
青洲は眉を寄せた。
自分の脈を目安に測った短い間だけで、二十二回。
正確な時間は測れなくとも、呼吸が異常に速いことは明らかだった。
2025年の医学知識に照らせば、一分間に四十回を超えるほどの速さかもしれない。
しかも、一息ごとの胸の動きが小さい。
これほど必死に呼吸しているのに、十分な空気を取り込めていない恐れがあった。
青洲は弥助の胸と背に耳を近づけた。
昨日より湿った音が強い。
喉の奥では痰が絡み、吸う息にも吐く息にも力がない。
「最後に水を飲んだのは?」
青洲が尋ねると、息子が答えた。
「夕方に少しだけです。その後は飲ませようとしても、むせてしまって……」
「小便は?」
「昼過ぎから、ほとんど出ておりません」
脱水も進んでいる。
感染が全身に及び、血の巡りまで悪くなっている恐れがあった。
「今は無理に飲ませるな。むせて、かえって息が苦しくなることがある」
弥助の妻が青ざめた。
「先生……どうすればよろしいのでしょう」
「まず、息をしやすい姿勢にする」
青洲は新吉と息子に指示した。
「右脚をねじらないよう支えてくれ。肩と背中を少し起こす」
三人は慎重に弥助の上半身を持ち上げた。
「ぐっ……!」
骨折した股関節に痛みが走ったのだろう。
弥助の顔がゆがむ。
「止めろ。その高さでいい」
青洲は畳んだ布を背中に当て、姿勢を安定させた。
弥助は口を開け、大きく息を吸おうとした。
だが、途中で激しく咳き込んだ。
「ごほっ! ごほっ……!」
痰が喉に絡み、息が詰まったような音がした。
弥助の両手が布団をつかむ。
「先生!」
新吉が叫んだ。
「身体を支えろ!」
青洲は弥助の顔を横へ向け、口元に出てきた痰を清潔な布で拭い取った。
弥助は何度も咳き込んだ。
そのたびに胸が大きく上下する。
やがて、少量の痰が口元へ出た。
しかし、次の息がなかなか入らない。
一瞬。
呼吸音が途切れた。
青洲の心臓が強く打った。
「弥助!」
弥助の胸が動かない。
青洲は口元に顔を近づけた。
息が感じられない。
脈は。
青洲はすぐに首筋へ指を当てた。
弱い。
だが、触れる。
「弥助、聞こえるか!」
返事はなかった。
息子が父親にすがりつこうとした。
「親父!」
「待て! 今は身体を揺するな!」
青洲の声に、息子が動きを止めた。
青洲は弥助の頭と顎の位置を整え、息の通り道を確保しようとした。
口元に見える痰を拭い、胸の動きを確かめる。
長く感じられた、わずかな間。
「……がはっ!」
弥助が大きく息を吸った。
続いて、激しい咳が起こった。
胸が上下する。
空気が入っている。
青洲は息を吐きかけ、すぐに自分を戒めた。
安心するには早い。
再び呼吸が途切れれば、命に関わる。
「新吉、胸の動きを見続けろ。息が途切れたらすぐ知らせろ」
「はい!」
新吉の額にも汗が浮かんでいた。
冬の寒さなど、誰も感じていなかった。
弥助の妻が震える声で尋ねた。
「先生、今……息が止まったのですか?」
青洲は目をそらさなかった。
「一時、呼吸が確認できなくなった。今は戻っているが、非常に危険な状態だ」
妻は両手で口を覆った。
息子はその場に膝をついた。
「先生……父を、助けてください……」
青洲は弥助の胸に視線を戻した。
2025年の医療なら、酸素投与、抗菌薬、点滴、必要に応じた呼吸の補助を考える。
だが、この時代にはない。
手の中にあるのは、わずかな道具と、自分の知識だけだった。
「今できることを続ける。新吉、手を貸してくれ」
「はい!」
青洲は弥助の呼吸が少しでも妨げられないよう、姿勢を慎重に調整した。
右脚には余計な力を加えない。
口元の痰を取り除き、呼吸の速さと脈を繰り返し確かめる。
時間が過ぎていく。
行灯の油が減り、炎が小さくなった。
弥助は時折、苦しげにうめいた。
その声さえ、次第に弱くなっていく。
「先生……」
新吉が小声で呼んだ。
「呼吸が、さっきより遅くなっています」
青洲はすぐに胸の動きを数えた。
確かに回数は減っていた。
だが、呼吸は浅く、不規則だった。
速すぎた呼吸が落ち着いたのではない。
呼吸する力そのものが失われ始めている可能性があった。
その時、弥助が薄く目を開けた。
「……せん……せい……」
「弥助、ここにいるぞ」
「おら……もう……」
言葉が途切れた。
青洲は弥助の手を握った。
「話さなくていい。息をすることに集中してくれ」
弥助の目が、息子の方へ動いた。
息子が父親の顔に近づいた。
「親父、畑のことは気にするな。おれが何とかするから」
弥助は何かを言おうとした。
だが、声にならない。
妻が涙をこらえながら、その手を包んだ。
「お前さん……どうか、もう少し……」
青洲は家族の声を聞きながら、脈を確かめ続けた。
その時だった。
視界の端に、淡い文字が浮かび上がった。
【生命解析:起動】
【対象:弥助】
【全身状態:重篤】
【呼吸機能:著しく低下】
【循環状態:不安定】
【生命危機:進行中】
青洲は奥歯を噛み締めた。
分かっている。
そんなことは、目の前の弥助を見れば分かる。
欲しいのは警告ではない。
この命を救うための手段だ。
しかし、文字はそれ以上何も示さなかった。
青洲は目を閉じかけ、すぐに開いた。
能力に答えを求めている場合ではない。
見るべきものは、目の前にある。
「新吉、呼吸は?」
「浅いですが、続いています!」
「脈は?」
「まだ触れます!」
青洲は頷いた。
「ならば、見続けよう。一つも変化を見落とすな」
「はい!」
夜明けが近づく頃、弥助の呼吸はわずかに規則正しさを取り戻していた。
それでも、顔色は悪い。
熱も高いままだった。
危機を脱したとは、とても言えない。
青洲が呼びかけると、弥助はかすかに目を開けた。
「……せんせい……」
「ああ。ここにいる」
老人の唇が、ほんの少し動いた。
青洲はその手を握り返した。
障子の向こうが白み始める。
遠くで鶏が鳴いた。
青洲は弥助の胸を見つめた。
一度、上がる。
そして、下がる。
次の呼吸までの、わずかな間。
青洲は無意識に息を止めていた。
もう一度、胸が上がった。
まだ生きている。
だが、次の一息が必ず来る保証はない。
折れた骨を治す前に、越えなければならない危機がある。
青洲は弥助の脈から指を離さなかった。
夜が明けても、命をめぐる闘いは終わっていなかった。




