↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
PR

悪役令嬢は、母に「自由に」と言われた

作者: ミツリ
掲載日:2026/09/05

 死ぬ前に読んでいたネット小説に転生した。悪役令嬢の母親だった。

 あとこれから私は死んでしまうらしい。生来の病弱さがいよいよ来るところまで来たという感じ。

 そういうわけで、私は今、娘に縋り付かれている。せっかくの美人が台無し……いや私の娘めちゃくちゃ可愛いな……泣いてても絵画みたいだな……。


「お母さま、置いていかないで、おかあさまぁ……!!」


 寝台に横たわる私の手を握り締め、娘が悲痛な声で訴える。以前までなら抱き寄せて頭を撫でて落ち着かせていたけれど、生憎もうそんな力も残っていなかった。マジで指一本動かせない。ひゅうひゅうと喘鳴が喉からもれる。

 狩りで追い詰められた死にかけの獲物みたい、と思って。そういえばもう私は死ぬのだったと改めて気付いて少し笑ってしまった。


 簡単な話だ。嫁いだ家がハズレで、跡取りを産んで用済みになったうえ病弱で夫を満足させられなくなった私は、まだ乳飲み子だった娘と共に別邸へ追いやられた。そしてそこで、娘と二人で生きてきた。

 本邸には今、夫と息子と、あと夫の愛人が暮らしているらしい。


 病で日に日に動かなくなる体をどうにか叱咤して、娘には最低限の教養は身に付けさせることができたと思う。けれどそこで限界が来てしまった。

 この子を産んで十二年。この脆弱な体でよくぞ生き抜いたと我ながら思う。根性論とか嫌いだけどたぶん最後は根性だった。


「おかあさま……いや、いやです……」


 いよいよか細くなった娘の声に、もうぼやけてきた視界で考える。

 何を、言えばいいのか。

 鈍ってきた思考を最後だからとなんとか回転させて、襲い来る頭痛も捻じ伏せた。


 この子の呪いにはなりたくない。

 どうか幸せにという祈りの言葉すら、ときには呪いになるのだから。


「オリガ」


 この子を産んだときにはもう夫は完全に私を見限っていたので、この子に名を与えたのは私だった。

 思い悩んで、この名前を付けた。確か、「神聖な」とか「清らかな」「祝福された」「健やかな」という意味があるらしい。この子がどうか、ことほぎに満ちた道を歩けますようにと祈りを込めた。結果はこの有様だけど。


「愛してるわ。この世の何よりもあなたを愛している」


 一言一言、噛み締めるように囁いた。最後にどうにか抱き締めたかったけれど、やはり体はぴくりとも動かず、吐息のような声を紡ぐだけで精一杯だった。

 まだ、まだ終わらないで。まだ、あと少しだけ許して。心臓よ、動いていて。


「好きに生きなさい。あなたはあなただけのものよ。幸せも苦しみも、生きるも死ぬも、すべてあなたが選んでいいの」


 ひゅっと息が詰まった。ああ、これでおしまい。


「あなたは、じゆうに」


 それが最後の一呼吸だった。


 こうして私の、転生だとかいう、数奇な人生は幕を閉じた。



 ◆



 ええ、ええ、お母さま。

 わたくし自由に生きていくわ。

 どこまでも羽ばたいてご覧にいれる。


 どこまでも飛んでいって――何をしてでもこの家のことごとくを滅ぼして差し上げる。


 あなたのためではなく。あなたを踏み躙られて憎悪と憤怒で焼け爛れているわたくし自身のために。

 愚鈍な父も、無関心な兄も。必ずや死よりも惨たらしい屈辱に貶めてみせましょう。


 わたくしは。この家の息の根を止めるために、この人生を捧げましょう。

 お母さまはきっと悲しむでしょうけど、最後にはわたくしは自由に生きたのだときっと抱き締めてくださるわ。


 お母さま、お母さま! わたくしも愛しています、あなただけを!


 だから、あなたを殺したこの家を、決して許しはしないのです。



 ◆



 なんかたぶん死ぬ前に読んでたネット小説に転生したっぽい。


 いや、どうなんだろう。私が読んでいたのは王道の悪役令嬢モノだったし……記憶が他の小説と混ざっていない自信はあまりない。

 あとたぶん親世代に生まれたっぽい。なんでだ。


 しかしまぁ、転生したとはいえ、前世はぐうたらな社会人だったので、何かに特化したスペシャリストでも、様々に精通したゼネラリストでもなく。つまりはチートとかなかった。

 というか、倫理とか道徳とか社会規範とか制度とか衛生観念とか何もかもが違う場所で、令和日本の技術や知識を活かすだけの能が私にはなかった。残念無念。

 仕方ないので、この世界でなんとか生きていこうと思う。ちなみに剣と魔法はない。


 私が貴族令嬢とか笑っちゃうけど、まぁ、生まれちゃったもんは仕方ないよね。



 ◆



 オリガ・サンティアゴはある日から貴族社会へ参加するようになった。

 なんでも母親に似て病弱で、幼いころから療養していたとのことだった。


 しかし、オリガは大層整ったかんばせで、月の光を閉じ込めたような銀髪に、いつも潤んでいるような湖の瞳と、花のように儚い色の、けれど艶やかな唇をしていた。それだけでも目を引くのに、彼女は立ち振る舞いまで可憐で優美だった。

 ドレスをつまんでカーテシーを披露するだけで、誰もがまるで清廉なダンスを見たかのように感嘆した。


 父であるサンティアゴ伯爵が「最近なんとか回復いたしまして、こうして外に出してやることができました」と誇らしげに笑うので、参加者たちは微笑ましげに親子を眺める。


 そのすべてを、オリガは冴え冴えとした瞳で観察していた。


『オリガ、笑顔とは慣れよ。いついかなるときも微笑んでいられるように練習しましょうね。嫋やかに微笑むその顔を、貼りつけてしまうの。そうすれば、怒り狂っていても、悲しみに暮れていても、誰もあなたの心を冒さない』


 ええ、そうね、その通りだわお母さま。あなたに教えられた通りに、あなたを真似た笑みを浮かべていれば、誰もわたくしの憎悪にも憤怒にも気付かないのね。

 わたくしは世間知らずだから、あなたの施してくださった何もかもが、こんなにもわたくしの武器になることを知らなかった。


「ほら、あの子だよ。白百合の君の娘だって」

「まぁ……生き写しね……儚げで、麗しくて、まさに社交界の華でしたわ……」


 お母さまはどうやら相当有名だったらしい。オリガは耳をそばだてながら、何回目かのパーティーをそつなく立ち回った。


『よくよく周囲を観察なさい。なるべく感情を排して事実だけを拾いなさい。そうしてしっかり考えて、何を言って、どう振る舞えば相手が満足するかを導き出すの』


 はい、お母さま。オリガは決して見落としません。指先まで神経を研ぎ澄ませて、わたくしは誰よりも花のように美しく振る舞いましょう。それが今、この場の人間に、そしてお父さまに求められていることだから。


 オリガの父は妻が亡くなった後、娘と赤ん坊のとき以来の再会を果たした。そしてその、母親譲りの美貌と、教師をつけてもいないのに十分以上の教養を持つ娘に市場価値を見出した。

 この娘を使えば、己はもっと成り上がれる。亡き妻の躾が行き届いているのか、従順に微笑む娘を見て彼はほくそ笑んだ。いい駒が手に入ったと思ったのだ。


 当然オリガはそんな父の思惑は見抜いていたし、むしろそれを狙っていた。どのように家を滅ぼすかの計画もまだ立てていないのだ。悲願の途中で放逐されても困る。そのためには一旦、自身の価値を吊り上げておいた方が得策だろうと判断した結果だった。


 さて、これからどうしよう。オリガはことりと人形のように愛らしく首を傾げる。

 例えば、オリガが第一王子を篭絡しようとしたとする。その過程で、彼の幼いころからの婚約者を虐げたとする。けれど、オリガがどれほどの醜聞にまみれたとしても、この家の破滅には届かない。オリガだけが処分されておしまいだ。

 どうにか父と兄を巻き込んで滅び去るための方法を考えなくては。けれど年若く世間知らずのオリガには、まだとんと策は思い付かなかった。


 お母さまの聡明さが似ればよかったのに。悔しさを覚えながら、彼女はパーティーに参加していた第二王子にうやうやしく頭を垂れる。

 ほのかに頬を染める、歳の近く、身分の高いその少年に。とりあえず損にはならないだろうと、彼女は蠱惑的な微笑みを浮かべた。


 手札は多い方がいい。それもまた、母の教えだった。



 ◆



 なんか私が悪役令嬢の母親らしい。うける。

 まだ影も形もない。何ならお腹には彼女の兄となる存在がいるところだ。

 ちなみに嫁ぎ先ガチャは負けた。まぁ私程度の女じゃ仕方ないか。


 しかし、随分と私も諦めるのに慣れたものだと思う。

 私は死にたくなかったし、前世でもっと人生を謳歌したかった。前世が楽しかった。今だって、帰れるなら帰りたい。生き返りたい。

 けれどその願いがズタズタになるくらいには、この世界に迎合してしまった。

 どうだろう、しきってはいないかも。でも、結構諦められたんじゃないだろうか。


 女に人権はない。そういう価値観に慣れて、私は色々を諦めた。

 もっと勉強したかったとか。細々、大小、たくさんを。諦めて、諦めて、ここまで生きてきた。


 ついでに健康も諦めた。前世病死で今生は虚弱病弱とか笑うしかない。

 あーあ、また病気で死ぬのかなぁ。いやまぁお産でまず生き残れる気があんまりしないけど。ああでも悪役令嬢を産むんだから少なくともそれまでは生きられるのか。

 はたしてどうなることやら。


 そんなこんな、ことあるごとに罵りながらも家のためだけに私を抱いていた夫との間に産まれてくる命がおさまっている腹を撫でた。

 あなたはどうか、こんな風にスレたりしないで、幸せであればいいと。そんなことを祈った。



 ◆



「母上はおまえだけが可愛いのだと父上は仰っていた」


 折を見て、オリガは母に託されていた手紙を兄へ渡すことに成功した。すると彼はほろほろと泣き出してしまったので、オリガはそっとハンカチでその涙を拭ってやった。


「母上は俺に興味がないからほとんど会ってくれなくて、果てはおまえだけを連れて自ら別邸へ引き籠ったのだと」

「そうですか……お母さまはよく、お兄さまのことをお話してくださって、……いつも、お兄さまが幸せで、健やかであるようにと祈っておりましたわ」

「……ははうえ……」


 手紙を何度も何度も撫でながら後悔の涙を流す兄を慰めてやりつつ、オリガの心は冷え切っていた。

 お母さまが無関心? いいえ、無関心だったのはおまえでしょうに。

 本当にお母さまが恋しかったのなら、別邸の様子を使用人でも買収して探らせるなりすればよかったのよ。それをしなかった怠惰を棚に上げて、よくもまぁ恥知らずにも泣けること。被害者面がよくお似合いで。


 お母さまは。お母さまは、適切な環境で、適切な処置を受けていれば、病弱な身でも生き延びることができたはずなのだ。社交界の華とすら呼ばれる立ち振る舞いができていたのだと何度も聞いた。つまりは、本来であれば外出に耐えうるだけの体力があったのだ。きっと。

 それを、粗悪な環境でお母さまを死に至らしめたお父さまとお兄さま。


 許さない。許しはしない。

 泣き伏せるお兄さま。お母さまを見殺しにしたおまえを、わたくしは決して許さない。


 オリガはそっと時計を見やる。そろそろ下校の時間だった。

 貴族の令息令嬢が通う学園に入学してから、家と変わらず校内でも兄に避けられていたオリガは、少し考えると適当な用事を作って生徒会室へ乗り込むことにした。そして立ち去ろうとする兄に追い縋って手紙を渡したのだ。


 家の事情だからと他の生徒会の人々へ退室を願ったのは不敬だったかもしれないが、オリガは自身の価値を見誤っていなかった。

 自分の儚げで申し訳なさそうな顔は、他人の庇護欲を掻き立てるらしいと、とっくに学んでいた。


 気遣ったふりをして、けれど本音としては忌々しい姿を見ていられなくて、オリガは兄を置いて一人生徒会室を出た。

 この学園でどうにか家を潰す方法を見付け出さなくてはと、日に日に焦りが募っていた。卒業してしまったら、オリガは市場へ売り出されてしまう。そうすれば家を出ることになって、潰すのにさらなる労力が必要になる。

 それならばどうにか、今のうちに。


 そんなことを考えていたある日、ふと、オリガの目に隣国からの留学生が留まった。かの国では王族の血を引く公爵家の嫡男であるとのことだった。

 どうにも彼が気になって、目について。オリガはその理由を突き止めるために、それとは知られぬよう彼のことを調べ上げた。


(もしかして)


 オリガは気取られぬように留学生をよくよく観察した。


『いい、オリガ。言葉は嘘を吐ける。態度は偽れる。けれど行動は隠せない。その人の立ち振る舞いで一貫していること。それこそがその人の価値観であったり、目的であったりを示すものよ』


 もしかして、この人は。


(この国を落としにきたのではないかしら)


 国の内情をそれとなく探る素振り。きな臭い噂の絶えない貴族との隠れた親交。ひとつひとつはどうとでも言い訳ができても、積み重なれば疑念は容易く深まった。


 その疑念は、あまりに甘美なものだった。

 見付けた、見付けた! ああ、あなたこそが、わたくしの天使さまだわ!

 だって、わたくしの悲願をきっとあなたが叶えてくださるのだから!



 ◆



 娘が産まれた。ついでにとうに私に飽きていた夫に別邸へ軟禁された。乳飲み子もいるんですけど。夫、ハズレっていうかドブだったかもしれない。


 この子が悪役令嬢か~と小さな娘を眺める。

 どうやって育てよう。悲しきかな息子は産まれてすぐに取り上げられてたまにしか交流できなかったレベルで子育てにはノータッチだったし。赤ん坊の育て方とか知らんのだけども。


 悩んだけれども、幸いなことに夫は別邸に私の荷物を大体は一緒にぶちこんでくれたので、使用人への賄賂に使えそうなものもいくつかあった。

 分かりやすい宝飾品とかはがめついことに抜き取られていたけど、ドレスについてる小さな宝石とか、集めていた稀覯本とかはそのままだったのでしばらくは困らないで済みそうだ。


 買収したけどこれっぽっちも私たちの味方ではない使用人を捕まえては育児の知識を仕入れていく。あとは自分の幼いころの記憶を引っ張り出した。

 どうにかこうにか、娘は生かすことができそうで安心した。



 ◆



「あなたさまにこの国を差し上げる。そのためならばどんな協力だっていたしましょう。どんな危険にも身を晒しましょう」


 だからどうか。


「国賊の首、引いてはその一族のことごとく、さっぱりと切り落としてくださいませ」


 オリガは人気のない場所で留学生を呼び止めると、単刀直入にそう告げて、美しいカーテシーを披露した。


「わたくしはあなたさまを恋い慕い、そのあまりに国を売った悪女となりましょう。我が悲願を叶えてくださるならば、いかようにもお使いくださいな」


 最初はオリガを警戒し追い払っていた留学生だったが、何度も何度もオリガが懇願し、かつ、いつまでも彼を告発しないので、とうとう国家転覆に彼女を巻き込むことにした。

 社交界の白百合の娘。彼女自身は白蘭と謳われる麗しい才女。駒として使えることは間違いがなかった。


 オリガは留学生に教えを請うた。家を、引いては国を亡ぼす方法をしずしずと尋ねた。


『なんでも自分でやる必要はないの。専門家の知恵を借りなさい。最適解を導きたいなら、それを知っている人に聞いてしまうのが手っ取り早いわ』


 オリガは母ほど賢くはない。世間のことも学んではいるが、十二年の軟禁生活のせいで、教養は深くともすこんと常識が抜け落ちていることがある。

 だから、彼女は謀略の手解きを願った。オリガには考え付かなかったこと、できなかったこと。すべてを留学生は知っていた。


「お父さま、隣国で注目されているお薬があるんですって。まだこの国では広まっていないそうですから、見ることが叶わないのが残念です」


 食卓の席でそっと嘆いているふりをする。欲深い父は、この情報に商機を見出すだろうと分かっていた。その薬がなんであるかも知らないで。


「ねぇ、ご存知? 我が家が仕入れている隣国で評判の薬だけれど、気分が良くなったり、何もしていないのに痩せたり、肌艶のよくなる効果があるんですって。……ナイショよ? いつもわたくしに優しくしてくれる、特別なお友達のあなたにだから、すこぅしだけ差し上げるわ。お父さまに叱られてしまうから、ナイショよ、ね?」


 手に入れた薬を学園でばら撒いていく。子から親へと薬は渡り、薬を求めて人々はオリガの家へ殺到し、父は楽しげに忙殺されていた。

 誰もまだ、この薬の恐ろしさに気付いていなかった。


 中毒性があるのだと、留学生は言っていた。なんて見事な手腕かしら、とオリガは感心してしまった。そうか、こういうときは内側から腐敗させればいいのか。大変いい勉強となった。


 そこで、はて、とオリガは気付く。

 いつからわたくしは、家どころか、国さえも落としてしまいたくなったのか。


 でも、だって。

 憎いのだ。今となっては、なにもかもが。


 パーティーではよく母の話題がのぼった。それだけオリガが母に似ていて、母に教わった作法を完璧に真似ている証拠だった。


『白百合の君はほんとうに儚げで……いつも控えめに微笑んでらっしゃるのに、それでいて歌も、ダンスも、なんにでも懸命で、卓越した才能をお持ちで……非の打ち所がなくて……』


 そこまで聞いてオリガは吹き出すのをなんとか堪えた。確かに母は誰よりも美しく聡明だったけれど、決して欠点がないわけではなかった。

 どちらかというとだらしがなかったし、要領が良いのに胡坐をかいて努力は最低限しかしなかった。「私はぐうたらなのよ」と、怠けるために要所だけ家事などを終わらせては、のんびりだらだらと本を読んでいた。

 彼女が懸命になるのは、いつだって、オリガのためだけだった。


 そして、思う。

 あなた方はそれだけお母さまを褒めそやしておいて。誰ひとり、あの寂しい別邸で朽ちていくお母さまを助けないどころか、あの愚鈍な父の虚偽を信じて社交界から姿を消したお母さまを気にすることさえしなかった。


 美しく嫋やかな白百合。そう称える口は、けれどもその花の顛末を語ることはない。だって、知らないのだから。彼女がどのように枯れ落ちたのか、知るのはオリガだけ。


 憎い、憎い。全てが憎い。

 最初は父と兄だけだった。けれど、成長して世界を知るほどに、広げるほどに。憎しみが募っていく。

 使用人はどうして母を助けなかったのか。王族はどうしてこのように愚鈍な父を放置しているのか。

 どうして、みんな。お母さまのいない世界でこんなにも幸福そうなのか。


 お母さまのいない世界など滅び去ってほしくて。けれどそれにはわたくしの才覚は足りなくて。ならばせめて、この国だけでも滅茶苦茶にしてしまいたかった。

 そして最後には。できるだけ多くを道連れに、一刻も早く死んでしまいたかった。


 お母さまは天国にいらっしゃるから、地獄に堕ちるわたくしはおそらく共にはいられないけれど、きっと。きっとお母さまは、何をしてでも、必ずわたくしに会いに来てくださるはずだわ。

 だからわたくしは、地獄に行く前にひと目お母さまに再会して、うんとうんと抱き締めていただいて、褒めていただいて、そうして地獄でも笑ってやるの。


 その日が途轍もなく待ち遠しくて、オリガはそっと可憐に溜息を吐いた。



 ◆



 ところで娘は転生者ではないっぽい。

 五歳くらいになったけどぜんぜん元気いっぱいな五歳児。体力がないばかりに遊び相手として力不足で申し訳ない限り。


 というわけで、全部私の妄想とか杞憂かぁ~と胸を撫で下ろす、わけにもいかなかった。転生者ではない以外の様々な世界観とか人間関係とか国や人物の名称とかはやっぱり一致してるし。マジで死ぬ前に読んでたせいかこの期に及んで結構覚えてるもんだ。

 転生者ではない娘がそもそも原作……と言っていいのか、あの小説と同じ道を辿るとはあまり思えない。その点ではあまり心配していない。


 けれど、こんなクソみたいな環境で生まれ育って、この子が、幸せになれるのか。そればかりが胸を占めた。

 私は必ずこの子を置いていくし、しかもまだ幼いだろう年齢で別れなければならない。私はこの子の人生を支えうる存在にはなれない。

 教えられることも高が知れている。私は貴族令嬢としては劣等生だったから。


「おかあさま! おかあさま!」


 無邪気に駆け寄ってくる娘をなんとか踏ん張って抱き留める。たぶん数年以内に体幹で負けるなと予感した。

 どうにかこうにか随分重くなった娘を抱き上げながら、彼女が別邸の中庭で摘んだ花を見る。おかあさまにあげる、と差し出された花を受け取って、お礼を言いながら頬にキスをする。娘はきゃあきゃあと声を上げて喜んでくれた。可愛い。妖精かもしれない。

 ついでに花の名前と、花言葉だとかを教える。私の知識も技術も何もかも、この子に渡し尽くしてあげたかった。


 最初、は。この子と二人きりにされたばかりのころは、この小さな命をどうしたらいいのか分からなかった。

 産んだら愛しくて堪らなくなる、と前世では聞いたこともあるけれど。そんなことは特になかった。ただ、私の腹から産まれた赤ん坊という、それだけの認識だった。


 だから、命懸けで育て始めたのは、ただの大人としての義務感だった。「子供とは守り慈しまなければならない、自分で産み落としたというのならばなおのこと」。そういう、前世で培われた価値観からの行動だった。


 けれど。

 柔らかくあたたかい体を抱き締める。こんなにも成長してくれた。それが嬉しくて仕方ない。


「おかあさま、だぁいすき」


 ああ。

 この、全身全霊で私だけだと叫ぶ命をどうしよう。

 私の愛を食べねば生きていけないのだと泣き喚く子をどうしよう。

 この胸の思いひとつで、きっと殺してしまえる脆く儚い存在を、私はどうしたいのだろう。


 くにゃりと体も命も私に明け渡し、安心しきっている我が子を見詰める。

 どうしたい、もなにもない。

 愛して、慈しんで、導いて。いつか私の手を離れて、幸せに微笑む姿を見届けたい。

 それだけなのに。それだけのことが、叶わない。


 そして、訪れた別れの日に、私は。

 娘の泣き声を聞きながら、口元には慣れた笑みを浮かべながら、魂は慟哭していた。


 死にたくない、死にたくない、死にたくない!

 ああ、神さま! 何度憎んだかしれない神さま!

 どうしてこの子を守り切れぬ脆弱な体を私にお与えになったのですか!


 最後にこの子を抱き締めることもできない脆い体が憎らしい。愛しているという言葉がこの子の支えになることを祈りながら、けれど。

 ほんとうは、言葉なんかではなく、私自身が、生きて。

 この子をずっと、見守っていたかった。



 ◆



 街が燃えていた。オリガは壊れていく国を留学生の隣で眺めていた。


 そして、戦争に負けたこの国は、隣国に言われるがままに敗戦処理を開始した。

 売国奴であったオリガは、もちろん罪に問われることとなった。そして、国を瓦解させた一因であった薬物の売買を推進していたサンティアゴ伯爵も同様だった。

 兄は、何も知らなかったと第二王子が証言したことで、減刑される運びとなった。

 どうでもいいな、とオリガは裁判所で蒼白な兄の顔を眺めていた。彼は平民へ落とされる。貴族として生きてきたからには、厳しい人生となるだろう。なにせ彼は自分で着替えもできないのだから。もうそれでいいか、と。オリガは兄から視線を外した。


 オリガは隣国の間諜に篭絡されて傀儡となった稀代の悪女、売国奴として縛り首となった。ついでに父もそうなった。斬首よりもずぅっと惨めで素敵だわ、とオリガはとびきり喜んだ。


 第二王子は、いつものように慎ましく微笑む初恋の少女を一心に見詰めていた。けれど彼女が彼に意識を割くことはなかった。

 隣国の留学生は、都合のいい手駒であった少女を観察していた。彼女はただ前を向いて、長年の悲願が成就することに胸を躍らせているようだった。


 オリガは恋を知らなかった。もしかすると、情もあまり知らなかった。けれど、それでよかった。

 彼女はいつだってあふれんばかりの母の愛に包まれて、満たされていたから。他にはなんにもいらなかった。


 いよいよ処刑当日。戦争で大切な何もかもを失った民衆が、売国奴の親子に石を投げていた。オリガはぶつけられた石で全身の痛みを感じながら、歓喜に震えていた。

 ああ、ああ! お母さま! やっと、やっと、お会いできる。あなたを虐げ死に至らしめた男を手土産に、オリガが今参ります。ああ、いいえ、この男は邪魔だから、やはり置いていきましょう。ひとりで先に地獄へ堕ちていてほしい。


「――マリエッタ!!」


 ふいに、サンティアゴ伯爵は金切り声を上げた。それは、オリガの母、彼の妻の名前だった。

 とっくに薬物中毒となっていた彼は、死に際の幻覚を見ているのか、狂ったように言葉を口走る。


「愛していた! おまえを愛していたんだ! おまえは俺のものだったのに!」


 その叫びに、オリガは目を剥く。なにを、言っているのだ、この男は。


「俺のもののくせにおまえは俺を見なかった! そのくせガキどもは簡単に愛して! おまえは俺だけを愛するべきだったんだ!」


 醜悪極まりない執着の吐露だった。今の今までそんなものを知らなかったオリガは素直に驚く。

 狂人の絶叫を聞き終えた彼女は、同じく狂ったように笑い始めた。


「ざまあない、ざまあないわお父さま! あなたはきっと二度とお母さまにお会いできない! このまま惨めに独りで地獄へ行くの! わたくしは、わたくしにだけは! お母さまは必ず会いに来てくださる!」


 だって、だって――お母さまは、わたくしだけを想って死んでいったのだから!


 がこんと、床に穴が開く。首にかかった縄に体重がかかって、そして。

 オリガの意識はぷつりと途切れた。



 ◆



「あなたは小さなころから元気いっぱいねぇ」


 困ったように母は微笑んだ。

 その姿に、オリガは「ほぉら」とほくそ笑んだ。言ったでしょう。お母さまはわたくしにだけは、会いに来てくださるの!


 同じくらいの背丈になった娘をマリエッタは抱き留める。

 ザンバラになっていたはずのオリガの髪は元の艶やかさを取り戻していた。そっと、慈しむように美しい髪を撫でてやる。


「オリガ、あなたは自由だったかしら」


 問いかけたマリエッタに、オリガは間髪入れず首肯した。


「ええ、お母さま。オリガはずぅっと自由でした。わたくしはわたくしのために、成したいことを成しました。あなたのためではなく、あなたを失い憎しみと怒りに全身を焼かれた自分自身へのせめてものはなむけに、多くのものをことごとく焼き尽くして差し上げました」

「そう。……そう」


 マリエッタは目を細める。自由に生きたならそれでいい。あなたがしたいことを成し遂げたのなら、どんなに咎められても私は誇らしいとあなたを褒め称えるでしょう。

 けれど、どうしても。決してこの子には言えないけれど。


 西日の差す窓辺。あたたかな紅茶。柔らかな赤い光の中で、微睡むように目を閉じる。明日は何をしようかと考える。胸を躍らせる。楽しみと喜びと驚きと。そんな明日を確信しながら思いを巡らせる。愛しい人が、同じく自分を愛おしんでくれているのだと無邪気に信じて、世界は自分に優しいのだと知っている。

 前世の、マリエッタの話だ。


 そんな、そんな時間が、あなたにあればよかった。

 愛しい愛しい私の娘。呪ってしまえばよかったと、幸福になれと命じればよかったと、悔いる私自身を黙らせる。私が呪わなかった娘は、晴れ晴れと笑っていた。


「かわいいオリガ。私のオリガ。えらいわ、いいこね。うんとがんばったのね」

「はい、はい! お母さま! オリガはとっても頑張りました!」

「見ていたわ、ずっと見ていたわ。本当に、あなたはあなたのために自由に生きて、成し遂げたいことを諦めなかった」


 諦めてばかりだった私とは大違い、と独り言ちて、マリエッタは娘の額に口付けた。


「あなたは私の誇りよ、素晴らしい人生だったわ。たくましくて、したたかで、はげしくて……いっとう、輝いていた」


 ああ、と二人は同時に溜息を吐く。終わりの時間だと分かってしまった。

 これきり二度と、もう会えない。オリガは地獄へ堕ちて、自分自身のために何もかもを無惨に轢き潰した報いを受けなければならない。


「愛してるわ」


 マリエッタはオリガを強く抱き締める。生前は力が弱くてできなかった分を取り返すように、強く強く胸にかき抱く。


「この世の何よりもあなたを愛している」


 この言葉ひとつで、この子は走り抜けてしまった。母からの愛を確信している少女は、誰からの愛も必要とすることはなかった。

 だからどうか地獄でも、この子が軽やかに駆けていってしまえるように、マリエッタは愛を紡ぐ。

 思えば、そう。これがきっと、もはや呪いだったのかもしれなかった。


「はい、お母さま」


 オリガは微笑む。とびきり美しく、可憐で、目映いばかりの、祝福に満ち満ちた顔だった。


「わたくしも、お母さまを愛しています!」


 そうして、重力を思い出したように、オリガの体が下へと落ち始める。抱き合った母娘の体は離れていく。マリエッタがどんなに腕に力を込めても、それ以上の重さでオリガは落ちていく。


 ならばせめて共に落ちようとしても、マリエッタの体は縫い留められたように動かなかった。

 握り合った手が段々と解かれ、ついには指先が離れる。マリエッタが悲鳴を上げた。オリガは楽しげに笑った。

 あはは、とオリガは高らかに笑い声を上げる。美しい、澄んだ音だった。


「お母さま、見ていて、ずぅっと見ていて! オリガは地獄でも自由に、わたくし自身のためだけに羽ばたいてご覧にいれる!」


 きゃらきゃらと涼やかに笑いながら、オリガは一直線に落ちていった。


 マリエッタは。

 一粒だけ涙をこぼすと、ふっと、おもむろに空を見上げた。


 美しいばかりの陽光が、彼女をただ柔らかく包んでいた。

面白かったと思っていただけましたら、評価・ブックマークも励みになります。

X(https://x.com/mitsuliules)では小説の話や創作のネタを呟いていたりいなかったりします。よしなに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
なぜ処刑したのかの気になり覗いてみたらなくて残念です。負けた側の国民をコントロールしやすくするためかな、利になる行為をしても処刑で勝ったけど先が暗いのかな、本人が生きる意志を持ってないからかな、とか考…
母が違う道を歩んで欲しいと願っていても、結局知っていた原作通りになってしまったの? それとも原作よりも壮大に娘の復讐劇になってしまったの? 母が原作を気にするあまり諦めすぎて旦那を見なかったから嫌わ…
区切ってあるが場面が非常にわかりづらい 急に母親視点に戻るの?死んでるのに? せめて時系列に並べるか区切りの所で明記してほしい
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。