前編
白を基調とした西洋風の家の庭に植えられた青と紫の紫陽花が、六月の生温い風を切裂く、冷たい雨に濡れ輝いている。その紫陽花の葉に隠れる様に小さな蛙が一匹、何か考えている様に見えて、何も考えていない大きな瞳を、午後の曇り空に淡く浮かんでいる部屋の明かりに向けていた。
襟附きの真白い長袖のワイシャツを着た水元直哉は、自宅のアトリエで真白なキャンバスの前に立ち、向い合っている直哉の右側には絵具、キャンバスの下にパレット、左側には、先程から庭の蛙が見つめている大きな窓が在った。
水元家の使用人である高倉が、アールグレイの紅茶を持って部屋の扉をノックした。高倉は、直哉が産まれる前から水元家に仕えていた。幼い頃から直哉は高倉を、まるで本当の祖母の様に接していたが高倉は、直哉のことを決して、直哉とは呼ばず、直哉さん、と呼んでいた。
部屋に入った高倉は、初めて直哉を見る様にして不思議そうに、
「どうして、直哉さんはいつも、絵を描くのに、白い服に着替えるのですか?」と問うた高倉の喋りには、酷く東北の訛りが入っていた。
「あまり余計な色を見たく無いんだ。これだと絵に集中出来るし、自分の氣持ちに素直になれるような氣がしてね」直哉は自分の着ているワイシャツの袖を、撫でながら言った。アトリエとして使用している部屋はやはり、机やソファー、絨毯などが白を基調に整えられている。
「でも、それだと直ぐに、汚れてしまいますでしょう?」橙色の蛍光灯に照らされた紅茶に、直哉はミルクをゆっくり注いだ。ミルクはカップの中で雨雲の様に広がり、直哉は目を閉じ香りを嗅いだ。
「確かに、白い服を着て絵具を扱えば、服に絵具が付着してしまうね」
直哉の着ている白い服の手元や胸元辺りには、絵の具の多彩な色が附いている。庭の蛙は何度も鳴いていたが、頭上の紫陽花の葉から雨の滴が一滴、額に当たる度に鳴くのを止めた。直哉は両手を広げ、
「これも芸術さ」高倉の顔を見ずに、左右の袖に附着した絵具を見て言った。
「高倉にはわかりませぬ」高倉は一礼して部屋を出て行った。
直哉は声を出さないで笑った。紫陽花の葉の茂みの奥で、鳴き声が人間の耳に聞こえない所で怯える様に、蛙は震えていた。
薄暗い部屋にはパソコンの画面と、その光に反射する眼鏡のレンズだけが光っている。散らかった部屋が、木田純と云う男のだらし無い性格を表している。パソコンに向っている木田の後ろ姿はとても小さく、鼠が生ゴミを漁っている様であった。カタカタとキーボードを叩き、時折マウスをクリックする音が鳴る。画面には、幽霊の如く透けた顔が映り「今日は5万の儲けか」と渇いた前歯を舐めて、マウスをクリックした。「スロットでも行くかな」木田の独言はいつも、口元で直ぐに消えた。
玄関の扉を閉め、鍵を掛ける音が鳴り止んだ部屋には、パソコンの画面だけが光り、動いている。その画面の中で金魚が、揺らめいている。金魚には水も餌も要らず、役目を終えたパソコンの画面だけがあれば、半永久的に生き続ける。ただ、飼主である木田にとっては、そんな事、知れた事ではなかった。開け放たれたままのベランダから、風が部屋に入り込み、カーテンを激しく揺らした。パソコンの画面には既に金魚の姿は無く、ただ真暗な、しかし明るい画面だけが血液を持たずに息づいていた。
直哉はアールグレイの紅茶の、香りの中にある懐かしさに悲しみを感じ、痛みを伴う懐かしい思い出から、離れられないでいた。離れる必要も無い、直哉は、そう強く考えて漸く一口、カップを傾ける。赤い絵具がキャンバスを埋め尽くし、筆を持つ右手は僅かに震えていた。
両親は共に東北の出身で、その縁で高倉は水元家に仕えるようになった。父親は十年前、直哉が十四才の頃に、この家で首を吊った。絶命したばかりの父親を、最初に目にしたのは、直哉だった。当時の直哉は冷静だった。いや、冷静過ぎた。ゆっくりと回転している父親の姿を暫く眺め、そして、隣室で父親の白いワイシャツにアイロンを掛けている母親ではなく、階段の手すりを掃除していた高倉を、いつも通りの声で呼んだ。高倉は驚きで声を出せず、手に持っていた雑巾を胸元で強く握りしめ、その場に立尽くした。その日を境に母親は、あまり家から出なくなり、リビングルームで本を読んで一日の大半を過ごす様になっていたので、高倉ともう一人の使用人が、その後の家事やらを全て行った。
半日を過ぎても直哉が部屋から出て来ないのを心配して、高倉が扉を強く叩いた。
「直哉さん、少し休まれたらどうですか?」老いた高倉の鼓膜に、直哉の返事は、聞こえなかった。其れも其の筈、部屋の中で何かに操られる様に、絵を描いている直哉の鼓膜にも、老いた高倉のか細い声は聞こえていなかった。もう一度、扉を叩いて部屋に入った高倉は直哉では無く、描いている絵に目が移った。
「これは一体、何の絵ですか? 生物じゃないな、こんな花も見た事無いです」と言って高倉は首を、左右に捻っている。
催眠から覚める様に直哉は、筆を持つ手を止め、部屋の掛け時計を見た。
「動物でもなければ、植物でもないよ。完成しなきゃわからないんだ」
直哉は筆を置いて、冷めた紅茶を飲んだ。
「この手と筆が勝手に動くんだ。自分の意思とは関係無くね」
「手が勝手にですか? それは大変です。今日はもう遅いので、明日にでも病院へ行かれた方が」
直哉は声を出して笑った。
「御心配ありがとう。今度、診てもらおうかな。きっと医者は、何の病氣でも御座いません、そう言うだろう」
高倉は、やはり心配そうにしながら部屋を出て行った。直哉は画材道具を片付けている途中、窓に目を移した。外は暗く、窓には反射した自分の姿が映っている。その姿に十年前の十四才だった頃の、自分の面影を何処かしらに感じたが、何故そんな事を感じたのだろうか、と考えなかったのは、何となくその理由が解っていたからだ。部屋の電気を消し、直哉は夕食をとる為に階段を降りた。
薄汚いジーンズのポケットに両手を入れて、騒がしい店から出てきた木田は「今日の儲けがチャラだ」遠くの方から騒がしい声が聞こえて「煙り?」その方向に歩き出す。煙りの元は商店街から一本裏通りへ入った少ない人通りにあった。現場には何人かの野次馬がいて、既に火は消えていたが、古ぼけたバイクのシートが焼け焦げていた。「小火か」木田が来た道を戻ろうとした時。
「あれ? 優衣ちゃん?」
「あっ、木田君。どうしたの? こんなところで」
「そこで小火があったらしいんだよ。氣附かなかった? 優衣ちゃんは何してるの?」
二人はコンビニで酒を買い、木田の住むマンションの部屋で飲んだ。
「この絵……」壁際に無造作に置かれた絵に、見入っている優衣。
「あー、それ? 直哉が描いたやつだよ。何だか氣味悪いでしょ?」
「直哉君、画家なんだ?」絵の縁を指でなぞる。
「って言ってもほら、あいつん家金持ちじゃん。画家なんて儲からないし、飽きたらやめるでしょ」と言って木田は、少し残った酒を鼠の様に、口を尖らせて飲み干した。
「ふーん……バイトの帰りだったんだ」
「えっ?」
「さっき、あの通りにいたのが」
「あっ、あーそーなんだ」
優衣、何とは無しに絵の裏側を見る。
「ねぇ、木田君。神様って信じる?」




