第6話 『境界操作者』の価値
侍女の淡々とした報告は続く。
俺はベッドに腰掛けたまま、その内容を彼女の思考の断片から拾い上げていく。
王女は、侍女の言葉を一言も聞き漏らすまいと、真剣な表情で耳を傾けていた。
(……特使は、例の客人……異界から来た者の能力を『境界操作』と呼称。その力は世界の理すら歪める可能性を秘め、計り知れない価値を持つ、と国王陛下に進言した模様……)
『境界操作』。
それが、この世界での俺の能力の呼び名らしい。
初めて聞いたが、的を射ているのかもしれない。
テレキネシスも、テレパシーも、テレポーテーションも、突き詰めれば何らかの「境界」を越えたり、操作したりする力だ。
だが、問題はその『価値』とやらの内容だ。
(……軍事利用……空間転移技術への応用……帝国の国力を飛躍的に高める……)
(……故に、その力を正しく管理し、導く必要がある……帝国にはその用意がある、と……)
侍女の思考から読み取れる特使の言葉は、どこかで聞き覚えのある、虫唾が走るような内容だった。
正しく管理し、導く?
平和利用?
笑わせる。
結局、どこの世界でも同じか。
俺のこの力は、便利な道具か、危険な兵器としてしか見られない。
研究施設にいた頃と、何も変わらない。
俺自身のことなんて、誰も見ようとしない。
ただ、この『境界操作』という力がもたらす利益と危険性だけを天秤にかけている。
胸の奥が、冷たく、そして重くなっていくのを感じた。
過去の記憶――白い壁、無機質な機械音、研究者たちの好奇と侮蔑の入り混じった視線――が蘇り、吐き気がこみ上げる。
(帝国め……やはり狙いは……!)
王女の思考にも、焦りと怒りの色が濃くなる。
彼女も帝国の野心に気づいているのだろう。
そして同時に、俺の力の『価値』と、それがもたらす『危険』を改めて認識しているのかもしれない。
利用されるのは、もううんざりだ。
俺はポケットの中で、無意識に拳を握りしめていた。
この力がどれほどの価値を持つのか知らないが、俺はもう、誰かの都合のいい道具になるつもりはなかった。
侍女の報告は、さらに衝撃的な内容へと移っていった。
俺は息を詰め、彼女の思考の断片と、それを聞く王女の反応に意識を集中させる。
(……帝国の特使の要求に対し、国王陛下は……驚くほど冷静に対応されました)
侍女の思考が伝える。
玉座に座る国王――王女の父親は、帝国の圧力にも全く動じる様子を見せず、むしろどこか楽しむような余裕すら漂わせていたという。
(……陛下は『その力、余も興味がある。だが、我が国の客人を易々とは渡せぬな』と仰せになり……)
そこまでは、まあ予想の範囲内だ。
一国の王として、そう簡単に他国の要求を呑むわけにはいかないだろう。
だが、問題はその次だった。
(……そして、特使にだけ聞こえるように……こう囁かれた、と……)
侍女の思考に、わずかな揺らぎが混じる。
彼女自身も、その言葉の真意を測りかねているのかもしれない。
(……『――100年前、余もそなたらのように境界を越えてきた。世界の秘密は、まだ暴かれぬ方がよい』……と……)
……は?
俺は思わず耳を疑った。
いや、耳で聞いたわけじゃない。
テレパシーで読み取った侍女の思考だ。
100年前?
境界を越えてきた?
なんだそりゃ。この国の王様は、いったい何を言ってるんだ?
(陛下が……境界を……?)
隣で聞いていた王女も、明らかに動揺していた。
彼女の思考は混乱し、驚きと疑念が渦巻いている。
父親である国王が、そんな素振りを見せたことは今まで一度もなかったのだろう。
侍女の思考によれば、その言葉を聞いた帝国の特使は、顔面蒼白になって凍りつき、国王に対する態度がそれまでの尊大なものから、明らかに畏怖を含んだものへと変わったという。
蛇みたいな目つきの男が、蛇に睨まれた蛙みたいになったってわけか。
(国王陛下は……いったい……何者なのだ……?)
侍女の思考にも、困惑と、底知れない存在への畏怖のようなものが滲んでいた。
100年前に、境界を越えてきた……?
まさか、この異世界の王様も、俺と同じように……別の世界から?
だとしたら、どこから?
まさか俺と同じ、地球から……?
この世界は、俺が思っているよりも、ずっと複雑で、根が深いのかもしれない。
そして、俺がここに召喚されたことにも、何か……俺の知らない理由があるのかもしれない。
背筋に、冷たい汗が流れるのを感じた。
◇
侍女は一瞬だけ視線を伏せ、そして再び王女様を見据えて答えた。
その報告内容は、俺にとっても、そして王女様にとっても、最悪の展開を示唆するものだった……。
(……陛下は、表向きは帝国の要求を保留としつつ、水面下で密約を……)
(……三日後の夜明けに、例の客人……異界の者を、秘密裏に帝国側へ引き渡す、と……)
(移送先は、帝国が新たに建設中と噂される……『特殊能力研究施設』……)
侍女の思考から流れ込んでくる情報に、俺は全身の血が逆流するかのような感覚を覚えた。
三日後……帝国へ引き渡し……研究施設……だと?
王女様も息を呑み、顔面蒼白になっている。
父親への裏切られたという怒りと絶望。
そして、俺が送られようとしている『研究施設』という言葉に、彼女自身の「檻」のイメージが重なり、強い拒絶感が思考に渦巻いていた。
ふざけるな……!
研究施設だと? 冗談じゃない。
怒りと、過去のトラウマからくる激しい拒絶反応で、身体が勝手に震えだす。
部屋の空気が、またピリピリと張り詰めていくのを感じた。まずい、感情を抑えろ……!
(……もう、時間はありません)
侍女が、静かだが有無を言わせぬ口調で促す。
言葉の意味は分からないが、その響きだけで状況の切迫感が伝わってきた。
王女は、震える手で唇を強く押さえていた。
彼女の思考は激しく揺れ動いていた。
(このままでは、彼は帝国に送られ、道具として利用される……それは、私が彼を召喚してしまった結果……)
(そして父上は……帝国と手を組み、私をも意のままにしようとするだろう……このままでは、私も、彼も、破滅する……)
(逃げる? この国を捨てて? 王女の地位を捨てて? それでも……あの『檻』の中にいるよりは……!)
(彼となら……あの力を持つ彼となら……あるいは……)
彼女は迷い、葛藤し、そして……顔を上げた。
その紫の瞳には、もはや動揺の色はなく、全てを捨ててでも未来を掴もうとする、燃えるような強い決意の光が宿っていた。
彼女は侍女に向かって、そして俺に向かって、はっきりとした口調で何かを宣言した。
言葉は分からない。
だが、その内容は明白だった。
――逃げる。この王都から。帝国からも、そして、この国からも。三人で。
俺たちの間に、もはや他の選択肢は残されていなかった。
残された時間は、わずか三日。
俺は強く拳を握りしめた。利用されるのも、閉じ込められるのも、もうたくさんだ。
この異世界で、俺は俺自身の意志で生きてやる。たとえ、それがどんなに困難な道だとしても……!
部屋の中には、三者三様の覚悟が重く、しかし確かな熱を持って満ちていた。
◇
残された時間は少ない。
俺たちは三日後にはここを発たなければならない。
それまでに、少しでもこの厄介な力を制御できるようになる必要があった。
暴走させてしまっては、逃げるどころの話じゃない。
幸い、というべきか、あの王女が能力制御の訓練に付き合ってくれることになった。
彼女自身の目的――俺の力を利用したいという思惑――があるにせよ、今の俺にとってはありがたい話だ。
邸宅の一室。
俺は床にあぐらをかき、目の前に置かれた掌サイズの石ころに意識を集中させていた。
王女は少し離れた椅子に座り、静かに俺の様子を見守っている。
時折、何かアドバイスらしき言葉を異世界語で口にするが、もちろん意味は分からない。
だが、彼女の思考や身振りから、伝えたいことはなんとなく理解できた。
(……力に抗うのではない。流れを感じ、受け入れ、そして導くのだ……)
(……全ての存在には境界がある。その境界を見極め、干渉する……それがあなたの力の本質ではないのか……?)
流れを感じる……境界を見出す……か。
以前、この世界の未知のエネルギー――仮に『魔力』と呼んでおくか――が体内に入り込んできた時、俺の身体は激しい拒絶反応を起こした。
だが、今は違う。意識的に、その流れを感じ取ろうと試みる。
目を閉じ、精神を研ぎ澄ます。
部屋の中を満たす、濃密なエネルギーの気配。
それはまるで、目には見えない川の流れのようだ。
そして、俺自身の体内にも、その流れが循環している。
拒絶するのではなく、この流れと同調する……。
深く息を吸い込み、吐き出す。
再び目を開け、目の前の石ころを見る。
そして、テレキネシスを発動させる。
以前のように力任せに動かすのではない。
石ころと、それを取り巻く空間との『境界』を意識する。
その境界線に、そっと触れるような感覚で……。
すると、どうだ。
石ころが、ふわりと静かに宙に浮いた。
以前のような不安定さはない。
まるで、水に浮かぶ木の葉のように、自然に、穏やかに。
そして、その瞬間。俺の目に、奇妙な光景が見えた。
浮き上がった石ころの輪郭が……ほんの一瞬だけ、淡い青白い光の線で縁取られたように見えたのだ。
それは、石ころと、それ以外の空間とを隔てる、まさに『境界線』そのもののように思えた。
すぐに光は消えてしまったが、確かな手応えがあった。
ただ力を振るうのではなく、世界の境界を認識し、それに干渉する。
これが、『境界操作』の第一歩なのかもしれない。
俺はもう一度、石ころに意識を集中させた。
今度は、もっとはっきりと、あの境界線を見るために。
隣では、王女がわずかに目を見開き、俺の様子の変化に気づいたようだった。
彼女の思考に、驚きと……そして、やはり期待の色が混じっているのを感じながら。