第4話 心の壁
ベッドの上でぼんやりと天井を眺めていると、控えめなノックの後に扉が開き、銀髪の王女様が入ってきた。
手には質素な木製の盆を持っていて、その上には湯気を立てるスープと、硬そうなパンが載っている。
異世界の食事、ってやつか。見た目はあまり美味そうじゃないな。
彼女は無言でベッド脇のテーブルに盆を置くと、真っ直ぐに俺に向き直った。
その紫の瞳は、さっきまでの混乱が嘘のように、今は静かな湖面みたいに落ち着いて見えた。
……少なくとも、表面上は。
彼女が何か、落ち着いたトーンで話しかけてくる。
もちろん、言葉の意味はさっぱり分からない。
だが、テレパシーで流れ込んでくる思考は雄弁だった。
(聞かなければ……この男が何者なのか)
(あの力……もし制御できるなら、父上に……いや、今は考えるべきじゃない)
思考がぐるぐる回っているのが手に取るように分かる。
期待、恐怖、自己嫌悪、そしてほんの少しの共感。
まったく、忙しい頭の中だな。
俺がどんな状態か気遣うような素振りを見せているが、本心は情報収集と警戒が大部分を占めている。
俺は無言で彼女を見返す。
どう答えるも何もない。
言葉が通じないのだから。
俺の沈黙に、彼女はわずかに眉をひそめた。
そして、今度は少し強い口調で、矢継ぎ早に何かを問いかけてくる。
身振り手振りを交えないあたり、まだ俺が言葉を理解できないという現実を受け入れきれていないのかもしれない。
あるいは、王女としてのプライドがそうさせるのか。
(早く答えなさい! 私の計画に必要なのか、不要なのか……!)
(でも、もし敵だったら……エリザに合図を……)
内心の焦りが、ひしひしと伝わってくる。
心を読んでいると知ったら、どんな顔をするだろうか。
少し意地悪な考えが頭をよぎる。
俺はゆっくりと身体を起こし、彼女の紫の瞳を見据え返した。
そして、わざと日本語で、彼女の思考をなぞるように言ってみた。
「質問が多いな。あんたこそ、俺に何を期待してるんだ? 『この力があれば、父上の言いなりにならずに済むかもしれない』……とか?」
俺の言葉の意味は、彼女には分からないはずだ。
だが、タイミングが悪すぎた。いや、良すぎたのか。
彼女がまさに今、心の奥底で巡らせていた、父に対する秘めた考え。
それを、俺は的確に言い当ててしまった(もちろん日本語で)。
瞬間、彼女の顔からサッと血の気が引いた。
言葉は理解できないはずだ。
だが、自分がたった今考えていた内容と、目の前の男が口にした(意味不明な)言葉が、不気味なほど一致している。
そのありえない偶然の一致が、彼女の中で一つの結論を形作る。
――読まれたのだ、と。
紫の瞳が驚愕に見開かれ、次いで羞恥と怒りが一気に込み上げてくるのが、テレパシーで手に取るように分かった。
(な……!? どうして……!? なぜ知っている!?)
「%#&*@……!」
彼女が異世界語で何か叫ぶ。
言葉の意味は分からないが、その声に含まれた動揺と怒りは痛いほど伝わってきた。
完璧だったはずの冷静な仮面が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
顔がみるみるうちに赤く染まっていくのが、なんだか少し滑稽に見えた。
俺は肩をすくめる。
言葉は通じなくても、これで俺の能力の一端は伝わっただろう。
「……!%#&*@!!」
彼女は耐えきれなくなったように再び何か叫ぶと、テーブルの上のスープ皿をひっくり返しそうになるのを、かろうじて踏みとどまった。
その震える指先が、彼女の内心の激しい動揺を物語っていた。
どうやら、俺のテレパシー能力は、言葉の壁があろうとなかろうと、人間関係を面倒にするだけの、厄介な代物らしい。
◇
あの王女様との(一方的な)会話の後、俺はこの古い邸宅の一室で、半ば軟禁のような状態で数日を過ごすことになった。
問題は、この部屋には常に監視役がいることだ。
赤褐色の髪の侍女。
彼女は、俺がこの部屋にいる間、ほとんど常に俺の視界のどこかにいる。
俺がベッドで横になっていれば部屋の隅の椅子に静かに座り、俺が部屋の中を歩き回れば、音もなく立ち上がって扉の前に移動する。
その距離感は絶妙だった。
近すぎず、遠すぎず。
常に俺の全身を視界に収め、かつ、俺が何か行動を起こそうとすれば、即座に反応できるであろう距離。
無駄な動きは一切なく、その佇まいには、まるで熟練の狩人のような隙のなさが感じられた。
そして相変わらず、彼女の心は読みにくい。
テレパシーを使っても、表面的な思考――「異常なし」「警戒を継続」といった、まるで任務報告のような断片しか拾えない。
感情の波は、分厚い氷の下にあるみたいに、ほとんど感じ取れなかった。
意図的に思考や感情をコントロールしているのか、それとも元々そういう性質なのか……。
だが、感情が読めなくても、彼女が放つ空気感のようなものは伝わってくる。
それは、揺るぎない覚悟と、プロフェッショナルとしての矜持。
(王女様のためならば……この命すら……)
時折、そんな強い意志の欠片のようなものが、彼女の纏う静かなオーラの中から漏れ出してくるのを感じることがあった。
それはもはや思考というより、彼女の存在そのものに刻まれた信念のようなものかもしれない。
彼女にとって、俺は主君を危険に晒しかねない、排除すべき対象なのだろう。
今は王女の意向で監視役に徹しているが、状況が変われば、その腰にある短剣が躊躇なく俺に向けられるに違いない。
まったく、気が休まらない。
俺はベッドに寝転がったまま、天井のシミを数えるふりをしながら、視界の端でこの侍女の気配を探り続けた。
この暗殺者との奇妙な同居生活は、まだ始まったばかりだ。
◇
俺がベッドの上で、扉の前に立つ侍女の気配を探っていると、不意にその扉が開いた。
入ってきたのは、銀髪の王女だった。
彼女は一度、俺と、それから扉の脇に控える侍女のほうを交互に見て、何かを逡巡するように小さく息を吐いた。
さっき心を読まれたことの動揺がまだ尾を引いているのか、少し顔が硬い。
だが、やがて意を決したように深呼吸を一つすると、俺に向き直った。
その瞳にはまだ警戒の色が残っているが、それ以上に強い好奇心と、そして……何かを探るような真剣さが浮かんでいた。
彼女は再び、俺に何かを問いかけてくる。
言葉の意味は分からない。
だが、テレパシーで流れ込んでくる思考の断片と、その真剣な眼差しから、彼女が俺の素性――俺が何者で、どんな過去を持っているのか――を知りたがっていることは明らかだった。
(この男は……どこから来て……?)
(あの力は……一体……?)
詮索されるのは好きじゃない。
自分の過去は、思い出したくもない記憶ばかりだ。
だが、目の前の王女の思考には、単なる好奇心だけでなく、何か……俺と同じ種類の痛みを抱えているような、そんな響きが混じっている気がした。
俺はベッドの縁に腰掛けたまま、窓の外に視線を向けた。
異世界の、知らない街並み。
「……俺は、物心ついた時から、普通の人間じゃなかった」
ぽつりと、日本語で呟く。
彼女には通じない。
だが、それでいい。これは独り言だ。
「この力……テレパシーも、テレキネシスも、テレポーテーションも……気づいたら持っていた。便利だと思うか? とんでもない。おかげで、俺はガキの頃から研究施設にぶち込まれて、モルモット扱いだ」
白い壁、冷たい機械、無機質な研究員たちの視線……思い出すだけで吐き気がする。
「来る日も来る日も実験、検査、測定……俺は人間じゃなく、ただの『被験体K-13』だった。自由なんて、どこにもなかった」
彼女の紫の瞳が、わずかに揺れたのが分かった。
俺の言葉の意味は分からなくても、俺の声に含まれた苦々しさや、過去を追想する際の痛みが伝わっているのかもしれない。
「……十年前に施設から逃げ出した。力ずくでな。それ以来、ずっと逃げ続けてる。政府からも、自分の力からも……誰からも理解されず、ただ一人で」
俺は自嘲的な笑みを浮かべ、改めて彼女を見た。
「あんたも、立派な服を着て、王女様なんて呼ばれてるけど……その瞳の奥には、俺と同じ種類の諦めが見える。違うか? あんたも結局、王女っていう役割に縛られた、でっかい檻の中にいるだけなんじゃないのか?」
俺の言葉(に含まれた感情)が、彼女の心の壁を貫いたのが分かった。
彼女は息を呑み、紫の瞳を大きく見開いた。
驚き、動揺、そして……痛みを分かち合えたような、奇妙な共鳴。
彼女は何か言い返そうとして、だが言葉を見つけられないように唇を噛んだ。
そして、ふいと視線を落とす。
その横顔には、先ほどまでの王女としての威厳はなく、ただ自由を渇望する一人の少女の弱さが滲んでいた。
初めて、俺たちの間にあった見えない境界線が、ほんの少しだけ揺らいだような気がした。
言葉は通じなくても、心の奥底にある同じ痛みが、俺たちを繋いだのかもしれない。