第3話 境界崩壊
まずい、と思った時にはもう遅かった。
身体の内側で荒れ狂う未知のエネルギーの奔流は、俺の意志による制御を完全に振り切っていた。
兵士たちが俺を取り押さえようと槍を構え、数人が飛びかかってくるのがスローモーションのように見える。
彼らの思考――「押さえつけろ!」「抵抗するな!」――が、頭の中で歪んだエコーのように響く。
やめろ、触るな……!
俺がそう叫ぶより早く、身体から何かが爆発した。
「―――ッッ!!」
声にならない絶叫が喉を突き上げる。
全身から青白い燐光のようなオーラが迸り、周囲の空間が、まるで薄いガラス板にヒビが入るように、ミシミシと音を立てて歪み始めた!
(な、なんだこれは!?)
(空間が……歪んで……!?)
(ひぃぃっ!)
兵士たちの驚愕と恐怖の思考が、先ほどまでの比ではない激しさで俺の精神に叩きつけられる。
ノイズの洪水だ。
頭が割れそうだ。
視界が激しく明滅し、色彩がぐちゃぐちゃに混ざり合い、目の前にあるはずの広場の光景が、まるで抽象画のように形を失っていく。
ドゴォォォン!!
足元の石畳が、爆発したかのように粉々に砕け散り、衝撃波が周囲を薙ぎ払う。
兵士たちが木の葉のように吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
近くにあった石の柱が、ぐにゃりと飴細工のように捻じ曲がり、轟音と共に崩れ落ちた。
(魔人だ……!)
(逃げろぉぉぉ!)
(助けてくれ……!)
阿鼻叫喚。
パニックに陥った人々の恐怖の思考が、俺の意識をさらに深く侵食してくる。
やめろ、聞きたくない……!
俺は耳を塞ごうとしたが、自分の身体すら思うように動かない。
力が、俺の制御を離れて暴れ回っている。
世界との境界が、俺自身の境界が、溶けて、崩れていく……!
その時、目の前の空間に、黒い亀裂が走った。
まるで空間そのものが裂けたような、深淵を思わせる漆黒の裂け目。
その向こう側に、一瞬だけ、ありえない光景が見えた気がした。
うごめく無数の眼、ねじくれた幾何学模様、冒涜的で、理解不能な色彩……。
あれは……なんだ……?
強烈な吐き気とめまいに襲われ、俺は膝から崩れ落ちた。
意識が遠のいていく。
最後に聞こえたのは、誰かの――銀髪の王女様の、悲鳴のような声だった気がした。
意識が途切れそうだ。
身体の制御は完全に失われ、ただ破壊の奔流が俺の中から溢れ出すのを、為す術もなく感じているだけだった。
もう、どうなってもいい……。
そんな諦めにも似た感覚が、意識の底を漂い始めた、その時。
銀髪の王女の凛とした、しかしわずかに震えを帯びた声が響いた。
霞む視界の中で、銀髪の王女が、俺の前に立ちはだかるのが見える。
周囲の兵士や貴族たちが何かを叫んでいるが、彼女は動かない。
豪華なドレスの裾が、俺が巻き起こした力の余波で激しく揺れている。
彼女は、いつの間にか手にしていた白銀の杖――先端に大きな紫の宝石が嵌め込まれている――を、強く握りしめ、俺に向かって真っ直ぐに掲げた。
その紫の瞳には、恐怖の色が浮かんでいる。
だが、それ以上に強い、何かを守ろうとする決意の光が宿っていた。
(怖い……でも、私がやらなければ……!)
(このままでは、この人も、王国も……!)
彼女の悲痛な覚悟が、思考のノイズを突き抜けて俺に伝わってくる。
やめろ、来るな……!
巻き込まれるぞ……!
そう叫びたかったが、声にならない。
彼女は深く息を吸い込むと、杖の宝石に魔力を込めるように、澄んだ声で詠唱を始めた。
俺には意味の分からない、古の歌のような旋律。
詠唱と共に、彼女の杖から、そして彼女自身から、銀色の光の粒子が無数に溢れ出した。
それはまるで、夜空から降り注ぐ星屑のようだった。
キラキラと輝きながら宙を舞い、俺の身体から迸る青白い破壊のオーラに触れると、パチパチと音を立てて弾ける。
だが、星屑は怯まない。
次から次へと溢れ出し、徐々に俺の身体を包み込んでいく。
暖かくも冷たくもない、ただただ清浄な光の繭。
すると、どうだ。
あれほど荒れ狂っていた身体の中のエネルギーの奔流が、少しずつ、だが確実に穏やかになっていくのを感じた。
血管を焼くような痛みも、空間が歪むような感覚も、ゆっくりと和らいでいく。
頭の中を埋め尽くしていた思考のノイズも、潮が引くように遠ざかっていく。
俺は、光の繭の中で、呆然とその光景を見ていた。
目の前で杖を構え、必死の形相で詠唱を続ける銀髪の王女。
彼女の額には玉の汗が浮かび、肩は小刻みに震えている。
それでも、その瞳は真っ直ぐに俺を見据えていた。
俺はただ、その銀色の光に見入っていた。
◇
銀色の光がゆっくりと薄れていく。
身体を締め付けていた見えない枷が外れたように、暴走していたエネルギーの奔流がようやく静まった。
全身から力が抜け、俺は荒い呼吸を繰り返しながら、ぼんやりと周囲を見回した。
そして、息を呑んだ。
そこにあったのは、惨状、という言葉が生ぬるいほどの光景だった。
俺が立っていた広場は、まるで巨大な何かに蹂躙されたかのように、見る影もなく破壊されていた。
石畳は砕けてめくれ上がり、周囲の壮麗だったはずの建物は歪み、崩れ、瓦礫の山と化している。
空気中には土埃が舞い、焦げ臭いような匂いもした。
(ひどい……なんてことを……)
(これが……あの男一人の力だというのか……?)
(化け物め……!)
意識がはっきりしてくるにつれて、再び周囲の思考が流れ込んでくる。
だが、さっきまでのパニックとは違う。
今は、恐怖と共に、明確な敵意と非難が俺に向けられていた。
見れば、生き残った兵士たちが、距離を取りながらも再び俺を取り囲み、槍を構えている。
その顔には恐怖の色が濃いが、それ以上に「危険な存在を排除しなければならない」という義務感が浮かんでいた。
そして、貴族と思われる派手な服を着た連中が、遠巻きにこちらを見ながら口々に叫んでいた。
俺のすぐそばには、まだ銀髪の王女が立っていた。
彼女はひどく疲れた顔をしていたが、背筋を伸ばし、非難の声を上げる貴族たちを毅然とした態度で見据えている。
その隣では侍女が、王女を庇うように立ち、鋭い視線で周囲を警戒していた。
(王女様……なぜあのような者を……あなたの身が危うくなるというのに……! だが、今は王女様をお守りするのが最優先……あの男は、後で必ず……)
侍女の思考は、冷静さの中にアイリスへの深い忠誠と心配、そして俺に対する揺るぎない敵意を宿していた。
結局、俺はどこへ行っても厄介者でしかないらしい。
地球でも、この異世界でも。
自分の持つ力が、ただ周囲に破壊と混乱をもたらすだけなら、いっそ……。
自嘲的な笑みが、俺の口元に浮かんだ。
広場の惨状と、俺に向けられる無数の敵意の中で、俺は自分が立っている場所が、まるで世界の敵になったかのような、深い孤独を感じ、そして意識が遠のいていった。
◇
どれくらい意識を失っていたのか。
次に気が付いた時、俺はどこか古びた部屋の、硬いベッドの上に横たわっていた。
身体は鉛のように重く、暴走の反動による猛烈な倦怠感が全身を支配している。
頭痛もまだ残っていた。
ゆっくりと身を起こし、周囲を見回す。
石造りの、円形の部屋。
壁際には本棚がいくつか並んでいるが、ほとんど空っぽだ。
小さな木のテーブルと椅子が二脚。
そして俺が寝かされているベッド。
それ以外には何もない、殺風景な空間。
窓からは、夕暮れとは違う、昼間の柔らかい光が差し込んでいて、空気中を漂う無数の埃の粒子をキラキラと照らしていた。
窓の外には、さっきまでいた王都とは少し違う、落ち着いた街並みが見えた。
どうやら王宮からは離れた場所にある、古い邸宅か何かのようだ。
あの後、どうなったのかは分からない。
だが、少なくとも俺は捕まってはいないらしい。
あの銀髪の王女が、貴族たちの非難を押し切って俺を匿ってくれた、ということか。
部屋の空気はひんやりとしていて、古い木の匂いと、微かにカビ臭いような匂いがした。
外の喧騒は遠くに聞こえるだけで、ここは妙に静かだった。
久しぶりに感じる静寂だ。
思考のノイズも、今はほとんど聞こえない。
疲労のせいか、それともこの場所が王宮から離れているからか。
だが、完全に気が休まるわけではなかった。
部屋の唯一の扉の前に、影のように立つ人影。
赤褐色の髪の侍女が、腕を組んで壁に寄りかかり、じっとこちらを見ていた。
その表情からは何も読み取れない。
だが、その視線は明らかに俺を監視している。
(……結局、ここも檻の中か)
俺は自嘲気味に息を吐き、再びベッドに身を沈めた。
束の間の静寂の中で、俺は深い疲労感と共に、どうしようもない閉塞感を感じていた。