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第2話 世界の断裂

 目の前の光景が、まるで古いブラウン管テレビが壊れるみたいに、ノイズと共に激しく歪む。

 強烈な白い光が網膜を焼き、平衡感覚が完全に消失した。

 身体がどこかに吸い込まれるような、あるいは内側から引き裂かれるような、経験したことのない浮遊感と圧迫感。


(え……?)


 思考する間もなく、重力が戻ってきた。

 いや、戻ってきたというより、どこか別の場所に叩きつけられた、と言う方が正しい。


「……っ、ぐ……!」


 硬い石の床に背中から落下し、肺から空気が叩き出される。

 全身を打った衝撃に、思わず呻き声が漏れた。

 咳き込みながら、霞む視界で周囲を見回す。


 ここは……どこだ?


 俺がさっきまでいた、安アパートの六畳一間じゃない。

 だだっ広い、石造りのホールのような場所。

 天井は高く、壁には松明がいくつも掲げられて、パチパチと音を立てながら炎が揺らめいている。


 空気はひんやりとしていて、埃っぽい匂いと、何か……甘いような、香のような独特の匂いが混じっていた。

 床には、複雑な幾何学模様がうっすらと光って……いや、もう消えかかっている?

 魔法陣か何かか?


 そして、俺を取り囲むように立っている、

 数十人の人間。フード付きのローブを着た者、きらびやかな鎧をまとった騎士のような者、貴族っぽい派手なドレスの女……明らかに現代日本の服装じゃない。

 皆、驚いたような、あるいは警戒するような目で俺を見ている。


 状況がまったく理解できない。

 ドラマの撮影?

 ドッキリか?


 いや、違う。この肌を刺すような視線と、そして……。


(な、何だ……? 召喚は成功したのか?)

(違う! 聖騎士様ではないぞ!)

(どこから来たのだ、この者は……?)

(アイリス様……!)


 ……まずい。


 さっきまでの比じゃない。

 質も量も、桁違いの思考の波が、ダムが決壊したみたいに俺の頭の中に流れ込んでくる。

 驚き、混乱、恐怖、敵意、疑念……異質な感情の洪水が、脳を直接かき混ぜるような激しい頭痛を引き起こす。


「ぐ……ぅ……あああっ!」


 思わず頭を押さえてうずくまる。

 吐き気がこみ上げてくる。

 耳鳴りのような思考のノイズが止まらない。

 多すぎる。情報量が多すぎるんだ!

 この場所が特別なのか?

 分からない。だが、このままでは精神が持たない……!


 これが、俺の異世界での、最悪な第一歩だった。

 

 ◇


 頭の中で鳴り響く思考の洪水に耐えながら、俺はノイズの中から最も強く、そしてクリアに響いてくる声(思考)の主を探した。

 自然と視線が、消えかけた魔法陣の中心……そこに立つ一人の少女へと吸い寄せられる。


 年の頃は……十八歳くらいか?

 腰まで届く流れるような銀色の髪が、松明の光を反射してキラキラと輝いている。

 白い肌はまるで上質な陶器のようで、気品のある顔立ちは、人形かと思うほど整っていた。


 服装もすごい。

 何重にもなったフリルとレースで飾られた、淡いブルーの豪華なドレス。

 胸元には大きな宝石があしらわれ、頭には繊細な細工のティアラが載っている。

 どこかの国の王族か、それに類する存在だろう。


 そして何より印象的なのは、その瞳の色だ。

 深く、吸い込まれそうな紫色。

 まるで磨かれたアメジストみたいだ。

 その紫の瞳が、今は床にうずくまる俺を、値踏みするように、冷ややかに見下ろしていた。


(失敗した……まさか、こんな……)

(予定と違う。聖騎士様はどこへ……?)

(この男は何者?)

(でも……少しだけ……興味もある……?)


 彼女の思考が、他の連中のざわめきの中から、ひときわはっきりと俺の頭の中に流れ込んでくる。

 外面の冷静さとは裏腹に、内心はかなり動揺しているらしい。

 計画が狂ったことへの焦り、俺というイレギュラーに対する警戒心、そして、ほんのわずかな好奇心。


 どうやら、俺はこの場違いな場所に「召喚」されたらしい。

 それも、本来呼ばれるはずだった誰かの代わりに。

 とんだ人違い、いや、召喚違いってわけか。


 俺は彼女――たぶん、この国の王女様か何かだろう――の冷たい視線を受け止めながら、内心で毒づいた。


(勘弁してくれよ……)


 状況は最悪。

 周囲は敵意と警戒心だらけ。

 おまけに、このやかましい思考の洪水。


 どうやら俺の異世界ライフは、とんでもないハードモードで幕を開けたらしい。


 ◇


 頭痛と吐き気はまだ続いているが、なんとか立ち上がる。

 周囲を取り囲む視線が痛い。

 状況を把握しないと……。


「おい、ここはどこなんだ? あんたたちが俺を呼んだのか?」


 できるだけ落ち着いた声で、日本語で問いかけてみる。

 だが、答えはない。

 きょとんとした顔、訝しむような顔、敵意をむき出しにする顔……。

 反応は様々だが、俺の言葉を理解した者は一人もいないようだ。


 だろうな、とは思っていたが、実際に言葉が通じないとなると、想像以上に厄介だ。


 すると、さっきの銀髪の王女様が、何か厳かな口調で言葉を発した。

 俺にはまったく意味の分からない、だが不思議な響きを持つ言語だ。


 彼女の言葉に反応して、周囲にいた鎧姿の兵士たちが一斉に手に持った槍の穂先を俺に向けてきた。

 カシャン、と硬質な金属音が響く。


(何だこいつ!)

(警戒しろ!)

(動いたら突け!)


 兵士たちの単純で直接的な思考が、テレパシーで流れ込んでくる。

 なるほど、どうやら俺は警戒対象としてロックオンされたらしい。


 銀髪の王女様は、なおも何かを問い詰めるように俺を見ている。

 その紫の瞳には、苛立ちと、状況をコントロールしようとする意志の色が浮かんでいた。


(なぜ言葉が通じない……? どこの国の人間でもないというのか?)


 テレパシーで彼女の思考の断片は拾える。

 俺が何者かを知りたがっていること、警戒していること、そして、言葉が通じないことに苛立っていること。

 だが、それ以上の具体的な内容は、まるでノイズの向こう側にあるみたいに、うまく掴めない。


 言葉が違うと、思考の形そのものが違うのか?


 クソ……テレパシーがあってもこれかよ。


 言葉という明確な境界。

 文化という見えない境界。

 俺は今、その壁の前に一人で立たされている。

 異世界に来て早々、コミュニケーション手段をほぼ断たれた状況。


 これは、本気でまずいかもしれないな……。

 俺は槍の穂先に囲まれながら、乾いた笑いを浮かべそうになるのを必死でこらえた。

 

 ◇


 言葉が通じない、という絶望的な状況の中で、俺は改めて周囲の人間たちを観察した。

 特に注意を引かれたのは、あの銀髪の王女様の隣に、影のように控えている侍女だ。


 年の頃は……俺と同じくらいか、少し下か。

 肩にかからない程度に切り揃えられた、赤褐色の髪。

 侍女らしいシンプルなデザインの服の上から、動きやすそうな軽装の革鎧を重ね着している。

 腰には短剣らしきものが見えた。

 侍女というよりは、護衛騎士に近い雰囲気だ。


 さっきから気になっていたのだが、この侍女からは、ほとんど感情が読み取れない。

 他の連中みたいに、思考がダダ漏れになっていないのだ。

 テレパシーが効かない?

 いや、そういうわけでもなさそうだ。

 完全に無感情というわけではなく、まるで分厚い壁の向こう側で、微かな感情の波が揺れているような……。

 そんな、捉えどころのない感覚。

 意図的に感情を抑制する訓練でも受けているのか?


 俺が訝しむように彼女を見ていると、ふいに侍女の視線がこちらを向いた。

 鋭い、まるで獲物を見定める猛禽類のような目つき。


 その視線が俺に向けられた瞬間、ぞくり、と背筋に悪寒が走った。


(……!)


 言葉にならない、純粋な殺意のイメージ。

 それは感情の波というより、研ぎ澄まされた刃が首筋に突きつけられるような、直接的で冷たい感覚だった。


(王女様を害するならば、排除する)


 思考そのものではなく、明確な意志を持った指向性。

 まるで、プログラムされた命令みたいに、淀みなく、一切の躊躇がない。

 こいつ……プロだ。

 それも、相当な手練れ。


 俺は咄嗟に視線を逸らし、冷や汗が背中を伝うのを感じた。

 侍女は、俺が彼女の殺意を感知したことに気づいたのか気づかないのか、表情一つ変えずに再び王女様の斜め後ろ、完璧な護衛ポジションへと戻る。

 その無駄のない動き、隙のない佇まい。


 俺は内心で警戒レベルを最大に引き上げた。

 この侍女からは、絶対に目を離さない方がよさそうだ。

 

 侍女への警戒心を強めた、まさにその時だった。

 身体の奥深く……いや、細胞の一つ一つから、奇妙な違和感が湧き上がってきたのは。


 なんだ……これ……?


 さっきまでの頭痛や吐き気とは違う。

 もっと根源的な、身体そのものが悲鳴を上げているような感覚。

 まるで、濃硫酸でも血管に流し込まれたみたいに、内側から焼けるような激痛が走り始めた。


「ぐ……ぅっ……!」


 思わず呻き声が漏れる。

 立っているのがやっとだ。

 視界がぐにゃりと歪み、松明の炎や人々の顔が、水彩絵の具を垂らしたみたいに滲んで見える。

 色が混ざり合い、形が崩れていく。


(なんだ……? 何が起きてる……?)


 頭の中に響く思考のノイズも、さらに酷くなっている。

 だが、それ以上に身体の異常が深刻だった。

 体中の筋肉が勝手に痙攣し、指先が意思とは無関係に震える。

 体温が急激に上昇していくのが分かった。

 汗が玉のように噴き出し、コートの下はじっとりと湿っていく。


 この空間に満ちている、未知のエネルギー。

 なんだ、この……濃密で、熱を持ったエネルギーは?

 これがこの世界の普通なのか?

 それが俺の身体に、無理やり流れ込んできているのか?


 地球には存在しなかったエネルギー。

 俺の身体は、俺の能力は、どうやらこの未知の奔流を異物と認識して、激しい拒絶反応を起こしているようだ。


「は……っ、はぁ……っ……!」


 呼吸が荒くなる。

 心臓が警鐘のように激しく脈打つ。

 身体の制御が、少しずつ、しかし確実に失われていく。

 力が……俺の意図とは関係なく、内側から溢れ出そうとしている……!


 まずい。このままでは!


 制御不能に陥る恐怖が、灼熱の痛みと共に俺の全身を貫いた。

 

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