第1話 雑踏の中の不協和音
気が滅入る。
夕暮れ時、世界で一番人が交差すると言われる渋谷のスクランブル交差点。
信号が青に変わるのを待つ人々の塊の中で、俺――鳴海 境――は、うんざりしながら溜め息を吐いた。
耳にはめた最新のワイヤレスヘッドホンからは、お気に入りのインディーズバンドの、ノイジーで攻撃的なギターリフが大音量で流れている。
少しでもマシになるかと思ってのことだが、正直、気休めにもならない。
俺には聞こえてしまうのだ。
いや、流れ込んでくる、と言った方が正確か。
(――あー、マジむかつく。部長、マジでありえねー)
(今日の合コン、可愛い子いるかなぁ……てか、金足りるか?)
(……疲れた。早く帰りたい)
(あの人、かっこいい……けど、なんか怖そう)
(死にたい。消えたい。誰か、助けて……)
ヘッドホンの音楽に混じって、まるで壊れたラジオから流れる無数の放送みたいに、周囲の人間の思考の断片が、俺の頭の中に勝手に流れ込んでくる。
怒り、期待、倦怠、欲望、そして、希死念慮。ポジティブなものより、ネガティブな感情の方がなぜか強く響く。
まったく、迷惑な能力だ。
これが俺の持つ能力の一つ、テレパシー。
心と心の境界を越えて思考を読み取る力、なんて言うとかっこいいが、実際はこれだ。
垂れ流される他人の感情の濁流。
望んでもいないのに、勝手に流れ込んできて、俺の意識をかき混ぜる。
「…………っ」
思わず眉間に皺が寄る。
人混みの熱気と、様々な香水の匂い、排気ガスの臭い。
それら物理的な情報に加えて、目に見えない感情の奔流が、俺と世界との境界線を曖昧にしていくような感覚。
気持ち悪い。
まるで、ぬるま湯にゆっくりと溶かされていくみたいだ。
俺は無意識に、ダークブルーのコートのポケットに突っ込んだ右手を強く握りしめた。
指の関節が白くなる。
この不快な感覚の奔流から、少しでも自分を引き離そうとする、無意味な抵抗。
これが俺と世界を隔てる、かろうじての境界線なのかもしれない。
信号が青に変わる。
巨大な人の波が一斉に動き出す。
「うるさい……消えろ……」
誰に言うでもなく、俺は小さく呟いた。
声に出したところで、このノイズが消えるわけじゃない。
うつむき加減に、できるだけ他人と視線を合わせないように、俺は足早に人混みの中を歩き始めた。
誰にも触れたくない。
誰の心も、これ以上覗きたくない。
孤独? ああ、そうかもしれない。
でも、俺は孤独を選んでいるんじゃない。
この力がある限り、俺には孤独しか選べないんだ。
それが、鳴海 境という人間の、どうしようもない現実だった。
◇
街の喧騒から逃れるように、一本脇道に入った。
日が落ちて薄暗くなった路地裏は、生ゴミの腐ったような匂いと、どこかの店の換気扇から漏れる油の匂いが混じり合って、あまり気分のいい場所じゃない。
さっさと通り抜けようとした、その時だった。
(やめて……! こないで……! 誰か……!)
鼓膜を直接殴られたような衝撃。
それは音じゃない。
悲鳴のような思考。
純粋な恐怖と、助けを求める切実な叫びが、俺のテレパシーに叩きつけられた。
足を止める。
声がした方向――路地の少し奥まった、自販機の明かりも届かない暗がりへと視線を向ける。
「ヒッ……! や、やだ……!」
か細い、本当に怯えきった少女の声。
そして、ゲラゲラと下品に笑う男たちの声が聞こえた。
「いーじゃん、ちょっと付き合えよー」
「カワイー顔してんじゃん?」
最悪だ。チンピラに絡まれてるのか。
少女は一人。
小柄で、肩にかかるくらいの黒髪ボブ。
着ているのは多分、どこかの高校の制服だろう。
壁際に追い詰められて、恐怖でガタガタ震えているのが、暗がりの中でも分かった。
大きな瞳には涙が浮かんでいる。
少女の恐怖が、まるで冷たい水みたいに俺の背筋を這い上がってくる。
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
やめろ、感じるな。
俺には関係ない。
そう頭では分かっているのに、少女の絶望的な感情が、俺の中の古傷――研究施設で、何もできずにただ実験されるだけだった頃の、あの無力感と怒りをあぶり出す。
(助けて……怖い……痛いのはやだ……!)
少女の思考が、俺の思考と混じり合う。
境界がまた、溶けていく。
「おい、何見てんだコラ」
チンピラの一人が俺に気づいた。
リーダー格らしい、金髪で耳にピアスの穴がやたら空いている男だ。
他の二人もニヤニヤしながらこちらを向く。
「なんだテメェ。邪魔すんなら……」
金髪がドスの効いた声で言いかけた瞬間、俺の中で何かがブチッと切れた。
視界の端が、怒りで赤く染まる。
沸騰した血液が全身を駆け巡るような感覚。
「――やめろ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷たく響いた。
「ああん? 聞こえねーな!」
金髪が、面白そうに顔を近づけてくる。
その下卑た笑顔と、少女の恐怖のコントラストが、最後の引き金を引いた。
右手を、衝動的にチンピラへ向ける。
――ドンッ!!
鈍い、肉が壁に叩きつけられる音。
金髪のチンピラが、まるで透明な巨大な手に殴り飛ばされたみたいに、数メートル先のコンクリート壁に叩きつけられていた。
ぐえ、と蛙が潰れたような声を上げて、そのままズルズルと地面に崩れ落ちる。
壁には蜘蛛の巣状のヒビが入っていた。
「「は……?」」
残りのチンピラ二人が、何が起こったのか理解できずに固まっている。
少女も、恐怖で引き攣った顔のまま、信じられないものを見るように俺と壁際の金髪を交互に見ている。
俺は、わずかに震える右手を見下ろした。
また、やってしまった。
テレキネシス――物体と空間の境界を操作して、物体を動かす力。
感情の高ぶりに引きずられて、意図せず発動してしまった。
力を使った後の、独特の倦怠感と自己嫌悪が押し寄せる。
だが同時に、少女の恐怖が少しだけ和らいだのを感じて、ほんのわずかな安堵感も覚えていた。
◇
面倒なことになった、と思った矢先だった。
路地裏から一歩、ネオンが滲むアスファルトの大通りへ踏み出した瞬間、ピリッとした感覚が走った。
さっきまでのチンピラとは質の違う、訓練された思考の波。
複数。俺を探している。
(ターゲット、大通りへ出たぞ!)
(A班、B班、包囲網を狭めろ!)
(今度こそ逃がすな。確保優先!)
ほら来た。公安の皆さんだ。
まったく、嗅覚だけは一流だな。
さっきの騒ぎを聞きつけたのか、あるいは単なる定期パトロールか。
どちらにせよ、俺にとっては同じことだ。
息を一つ吐く。
心臓は妙に落ち着いていた。
恐怖も焦りもない。
悲しいかな、こういう状況には慣れすぎている。
俺は周囲の景色と、頭の中に流れ込んでくる追跡者たちの思考――彼らの位置、視線、連携の意図――を瞬時に重ね合わせ、最短の逃走ルートを弾き出す。
まるで脳内にリアルタイムの戦術マップが展開されているようだ。
一人が角を曲がって、俺の姿を視界に捉えた。
(発見! 北西方向へ逃走中!)
思考を読んだ瞬間に、俺は動く。
フッ、と息を吐き出すような感覚で、テレポーテーションを発動。
視界が一瞬、ノイズ混じりの灰色に染まり、次の瞬間には数メートル先の電柱の影に立っていた。
身体が空間に溶けて、別の場所で再構築されるような、奇妙な浮遊感。
何度やっても慣れない感覚だが、逃げるためには必須スキルだ。
(消えた!? どこへ行った!)
追跡者の思考が混乱するのが分かる。
面白い、と一瞬思ったが、すぐにその感情を打ち消す。
油断はできない。
彼らが俺を見失っている隙に、さらに跳ぶ。
駐車しているトラックの荷台の上へ。
そこから隣のビルの非常階段へ。
まるで街全体を使った、俺一人だけの障害物競走だ。
(屋上へ向かったか?)
(いや、気配が途絶えた……まさか、また……!)
彼らの思考を読む限り、俺のテレポーテーション能力については把握しているらしい。
だが、その精密なコントロールと、テレパシーによる先読みまでは想定外だろう。
夜の帳が下りた都会のジャングルを、俺は影から影へと飛び移る。
ネオンの光が作る明暗が、俺の逃走を助けてくれる。
息が少しだけ上がる。
右手の指先が、また冷たくなってきた。
能力の使いすぎだ。
(クソッ、また撒かれた…!)
(各班、報告しろ!ターゲットを見失った!)
追跡者たちの焦りが伝わってくる。
どうやら、今夜の鬼ごっこは俺の勝ち、らしい。
俺は人気のないビルの屋上の端に立ち、眼下に広がるきらびやかな夜景を見下ろした。
ダークブルーのコートが夜風にはためく。
いつまで、こんなことを続ければいいんだろうな。
そんな答えのない問いを胸に、俺は再び夜の闇へと跳んだ。
さっきまでの追跡劇の疲れもあって、腹が減っていた。
ボロアパートに戻り、コンビニで買った唐揚げ弁当の蓋を開ける。
安っぽいプラスチックの容器、揚げ物の油の匂い、蛍光灯の白い光。これが俺の日常……そう思った、次の瞬間だった。
世界が、割れた。