一人旅の理由
大学生の青年が夏休みを利用して山の温泉宿へ行った。一人旅であった。
その宿は昭和中期に建てられて年期が入っており、アクセスもそれほど良くいため、夏だというのにそれほど賑わってはいなかった。青年が夕食を食べに大広間に行くと、座卓が八台置かれていた。各座卓に名前の札と前菜や湯飲み、おしぼりや紙ナプキンが置かれていた。偶然か、それとも旅館側が意図的に配置したのか、青年の周りの座卓は全て一人客だった。
料理を食べているとまず同年代で少し太めの男が浴衣姿でやってきて、青年の前にある座卓にドスンと坐った。彼は急須からお茶を入れようとして青年と眼があった。
「お一人ですか?」
「ええ、まあ」
曖昧な笑いで青年が返すと、太めの男は座ったまま膝を動かし近くまでやってきた。
「見たところ大学生ですよね。俺も一人旅なんです。どうです、よかったら一緒に夕食を食べませんか? お互いの旅について、情報交換をしましょう」
突然の申し出に青年は少し迷ったが、孤独に飽きていたこともあり「いいですよ」と返した。太めの男は扇子がぱっと開くように大きく笑い、それから仲居に声をかけて自分の料理を青年の座卓に運ばせた。そうこうしている内に今度は眼鏡をかけた男がやってきて青年達の右側に坐った。青年と太めの男は顔を見合わせ、小声で相談する。
「あちらの方もお一人のようですね」
「誘いますか?」
「そうですね。せっかくなら」
太めの男は大きく頷くと、眼鏡の男に声をかけた。
「そこの方、よろしければご一緒しませんか? いやなに、俺たちも一人旅同士なんです。せっかく隣り合ったのですから話でもどうかと思いまして」
「僕をですか? 急な話ですね」
眼鏡の青年は疑り深く眼を細めていたが、仲居が太めの男の名前の札を青年の座卓に移したのを見て本当だと判断したらしい。
「せっかくなら」
といって青年の横に腰を下ろした。
一人旅の男三人は同年代だった。まずはビールで乾杯し、お互いの身の上や一人旅をしている理由などを話した。太めの男が話を盛り上げるのがうまく、青年が失恋したと言うと大げさにも眼に涙を浮かべた。わざとらしさはなく、素直に共感したり関心したりしており、太った男はいい人物なのだなと青年には思えた。眼鏡の男も好青年であった。翻訳の仕事に集中するために宿に来たといい、手書きのメモがぎっしり書かれた英語の専門書を見せてくれた。養蜂に関する本らしく、眼鏡の男はわかりやすい言葉で蜂蜜の作り方を説明してくれ、蜂の複雑な修正については紙とペンで簡単なイラストを描いて教えてくれた。
刺身の盛り合わせを食べ終え、これから鍋が始めるというタイミングで大広間に別の一人客が姿を見せた。二十代半ば、三人の男達よりも少しだけ年上の女性だった。温泉上がりらしく白い肌を薔薇色に上気させ、少し気だるそうに手でパタパタと顔をあおぐ様子はどこか官能的であった。三人の男達は箸を止め、顔をつきあわせる。
「また一人客ですね」
「ですね・・・・・・ここは声をかけるべきではにでしょうか。決して下心ではなく。旅の礼儀というか、二度あることは三度あるべきというか・・・・・・」
「僕は賛成です。皆さんと話すのは楽しい。僕は声をかけてもらってよかったと思っていますから」
「では、そういうことで。どなたかが声をかけますか?」
じゃんけんの結果、青年が女性を誘うことになった。青年は浴衣の裾を直し、一度咳払いをして喉の通りをよくしてから立ち上がり、座卓に向かおうとしていた女性に声をかけた。
「突然すみません。私はそこのテーブルの者です。あの、私たち三人ともついさっき知り合ったばかりです。三人とも一人旅中なんです。そのもし良かったら私たちとご一緒してくれませんか?」
「ナンパですか?」
女性は露骨に嫌な顔をする。その後ろから怖い顔をした年配の仲居が足音を立てずに近づいてきた。迷惑行為で宿からたたき出されるかもしれないと青年が焦っていると、女性は太った男と眼眼の男、それから青年を眼で一巡し、少し考えてからニコリと笑った。
「いいですわよ。これも何かのご縁ですわね」
女性の後ろで年配の仲居がぽかんと口を開け信じられないといった顔で下がっていった。
女性が太めの男の隣に座る。座卓の周りだけ突然春になったように青年は感じた。女性が少し高めの声で笑う度、三人の男の鼓膜をくすぐった。女性が注文した日本酒を飲むとき、その喉の動きに心臓が高鳴った。偶然手と手が触れあうと身体に電気が走った。
だがその女性が官能的だったわけではない。浴衣の前はしっかりと閉じられ、足はきれいな正座、背筋もピンと伸びている。茶道か何かの経験があるのかもしれない。その美しいたたずまいは、畳の部屋と相まって彼女こそ本当の和美人であると三人の男に思わせるほどだった。
「突然すみません。俺はあなたに惚れました。一目惚れです」
太めの男がビールを空にしてから女性に告白した。
「抜け駆けしないでください。僕だってこの女性に惹かれているんです」
眼鏡の男も負けじと自分の思いを告げる。
「突然困りましたわ」
女性は微笑しながら、あなたはどうなのといった眼を青年に向けた。青年はカラカラになった口の中をビールで湿らすと、勢いに任せてた。
「私も貴女が好きです!」
「あらあら・・・・・・」
女性はクスクスと可愛らしく笑った。それから紙ナプキンを三枚取り、眼鏡の青年からペンを借りると三人の男から見えないように文字を書いた。それを四つに畳んで、青年と太った男と眼鏡の男に一つずつ渡す。
「実は私も、あなたたち三人の中である人が気になってているのです。でも、今ここでそれを言ったら、せっかく仲良くなった皆さんの友情が崩れてしまうかもしれません。だから今お渡しした紙に三つの場所を書きました。食事が終わったら、夜の九時に私はその内の一ヶ所にいきます。その方が、私が気になっている方です」
「もう心に決められた方がいるのですね」
太った男が真剣な面持ちで言うと女性は小さく頷いた。
食事を終えた四人は無言で別れた。青年は女性から渡された紙を手に部屋に戻る。扉を閉めてから紙を開くと「○○神社」とあった。確かにこの旅館から歩いて二十分くらいの場所に観光地にもなっている○○神社があった。
青年は浴衣から普段着に着替えると八時三十分に宿を出た。早足であるいたので十五分前には到着し、鳥居の前でそわそわしながら女性を待った。しかし九時になっても女性は現れない。もしかして中にいるのかと鳥居をくぐり階段を上り境内に入ったが目当ての人はいなかった。
青年は落ちこんだが無理もないと思った。女性はきっと太った男の方に行ったのだろう。初対面の会話を盛り上げ、青年の話に共感してくれた彼ならあの女性にふさわしい、そう思えた。あるいは眼鏡の男かもしれない。ほんの二時間ほど話しただけだが彼の博識さには心底関心していた。あの豊富な知識に女性は好感を持ったのかもしれない。あの二人に比べたら、失恋して一人旅をしている自分がつまらなく思え、同時に選ばれなかったことに納得した。
青年はそれほど落ち込まない足取りで宿に戻った。途中、眼鏡の男と出くわした。お互いの顔を見合わせ、やっぱりと言い合う。
「彼なら仕方ないですね」
「悔しいですが、僕たちの負けですね」
二人は爽やかな敗北を噛みしめながら宿まで歩き、エントランスに入った。そこにがっくりと肩を落とした太った男がいた。彼は二人を見ると首を傾げた。
「なんで二人が一緒なんですか? 彼女はあなたたちのどちらかを選んだのではないのですか?」
「いやいや、私たちはあなたが選ばれたものとばかり思っていました」
「三人とも選ばれなかった? いや、もしかして僕たちの誰かが勘違いをしてすれ違ってしまったのかもしれませんね」
三人がエントランスで悩んでいると、年配の仲居がやってきた。
「あの女性ならお帰りになられましたよ。皆さんに申し訳ないと伝えてくださいとのことでした」
丁寧な言葉とは裏腹に、年配の仲居は三人の男に敵意を向けていた。
「あの女性は個人的な急用とおっしゃっていました。でも、本当は三人の男にストーカーされて不快だったのかもしれませんね」
年配の仲居はぶしつけな態度のまま受付の奥に引っ込んでいった。残された三人の男は何が起きているのか理解できないままそれぞれの部屋に戻った。女性が去った理由がわかったのは翌朝のことだった。
チェックアウトをしようと財布を取り出した時、青年は違和感に気がついた。財布がわずかに薄い。開いてみるとあるべき札が一枚も入っていなかった。鞄の中に落としたかと漁ってみたが見当たらない。そうしていると太った男と眼鏡の男がやってきてそれぞれ会計をしようとした。だが二人とも現金がごっそり無くなっていることに気がついた。三人の男は顔を見合わせる。
「つまり俺たちはあの女性に騙されたということか」
「迂闊でした。まさか旅館あらしだったとは。外に呼び出したのは確実に空室にするためだったんですね」
クレジットカードの類いは無事だったので三人とも宿代を払うことはできた。それから警察を呼んだり地元マスコミの取材を受けたりとしたが、結局彼女は見つからなかった。盗まれた金額も三人合わせて十万円程度、旅館側が平謝りで損害を補償してくれたことからすぐに武勇伝になった。
あれから毎年、三人の男は同じ日に同じ旅館に一人ずつ泊まりに行っている。あの泥棒女性を見つけることが目的ではあったが、それが十年も続くと三人は奇妙な友情が始まるきっかけとなったあの女性に感謝すらするようになっていた。