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習作  作者: 深草みどり
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彼女を見つめる

 彼女と出会ったのは十三の春だった。

 中学の入学式当日。身体よりも一回り大きくまだ生地の固さが残る制服を襟を直してから自分の教室に初めて入ると、そこに彼女の後頭部があった。男子と変わらない身長で、目線の斜め上に、頭の高い位置で結んだ髪が揺れていた。こちらの気配に気がついた彼女は勢いよく百八十度ターンをした。馬の尻尾のような髪の先端がわずかに触れた額がこそばゆかった。彼女は活発そうな笑顔を向けてきた。

「はじめまして」

そう彼女は言い、自分の名前を名乗った。僕はその透き通った瞳の深さに魅入られ、まともに受け答えが出来なかった。

「君、クラスメイトだよね? 名前は」

 酸欠の金魚のように口をパクパクさせながら、僕はなんとか自分の名前を絞り出した。彼女は笑顔で「よろしく」と言って、それから新しく入ってきた別の生徒に自己紹介を始めた。

 僕の恋の始まりだった。


 関係が進んだのは十六の夏だった。

 高校の生徒会室。クーラーが故障中のため窓を全開で、彼女は眼を閉じて扇風機の風を浴びていた。髪の長さは中学時代と変わらない。相変わらず頭の上の方で結んでいて、風に揺られ乱れた数本が中学時代よりも大人びた顔に張り付いていた。

「あんまり見ないでよ。なんか気になる」

 目をつぶったまま彼女が言った。

「見てないよ」

「見てるでしょ。視線を感じる」

「・・・・・・だめかな」

「別に、だめじゃない。いいにはいいけど」

 彼女は扇風機から離れると、眼を開き顔を僕の方に向ける。透き通った瞳が真っ直ぐ僕の視線を受け止めた。僕は一度眼をそむけ、窓の外の青空を見てからまた彼女を見た。お互い見つめ合っていると今度は彼女が視線を逸らした。

「なんか恥ずかしいんだけど」

 彼女の頬が赤いのは、きっと夏の暑さのせいだけではないはずだ。僕は勇気を出して、三年間秘めていた言葉を口にした。

 その日から僕は彼女の顔を見つめるのに許可を得る必要がなくなった。


 区切りがついたのは二十一の秋だった。

 空港の出発ロビー。大きなスーツケースをチェックインカウンターに預けた彼女が戻ってきた。いつも通り頭の上の方で結んだ髪が空港の明るい照明を受けて輝いている。長いフライトに備えるためかいつもよりもゆったりとした服を着ていた。

「十三時間だっけ?」

「飛行機だけでね。そこから電車に乗って、大学の寮に着くまで二時間かかる」

「じゃあ十六時間後に連絡くれよ」

「いいけど、必要?」

「安全に着いたって知りたい。別れたとはいえ元カノの安否は気になる」

「・・・・・・ありがとね」

「気をつけて」

「そっちも」

じっと彼女の目を見つめた。その透き通った瞳はどこまでも深く、先は見えなかった。

海外の大学に留学すると聞かされた時、驚きと共に納得してしまった。五年間の交際で、彼女の可能性が自分の手にとどまらないことを理解してしまっていたから。控えめに訪ねられた「一緒に行かない?」の問いは、儀礼的な言葉だ。ごく普通の大学生である僕と、海外の有名大学に留学できる彼女とでは住む世界が違う。それでも、彼女と過ごした日々は楽しかった。僕は恋を初め、恋し、恋を終えたのだ。

出国ゲートに進む彼女は最後に一度だけ振り返ってくれた。僕が手を振ると彼女は大きく右手を三回振って、人混みの中に消えた。

 僕の隣に女性が立った。彼女の妹だ。不機嫌さを隠そうともせず出発ゲートの方をにらみつけていた。

「アレ、薄情だと思わない?」

「いつも通りだと思うよ。むしろ、いつも通りにしてくれたんじゃないかな」

「そうやって物わかりのいい人をやってるからお姉ちゃんが離れていっちゃったんじゃないの?」

 僕は苦笑するしかなかった。

「まあいいわ。お母さんが帰る前に何か食べていこうって。車を出してもらったからお礼にごちそうしたいってさ。遠慮しないで高い物頼んでって」

「じゃあ寿司でお願いしようかな」

「いいわね」

 彼女の妹は寿司が好きだ。彼女が妹の話をよくしてくれたのでよく知っている。それから僕は彼女の妹とその母親と共に空港の寿司屋で旅行客向けの高めのお寿司を食べた。


 再会したのは二十八の冬だった。

 結婚式場の親族の控え室に現れた彼女は、長い髪を頭の上の方では結んでおらず、背中に流していた。ネイビーのドレスに身を包み、化粧やアクセサリーのためか日本人ではなく海外生まれのアジア人の女優のように見えた。ただその瞳だけは相変わらず底の見えない澄んだ湖のようだった。

「来てくれたんだ」

「かわいい妹の結婚式だもの。まあ、相手が相手だから少し迷ったけれど」

「その件については何というか」

「あの子を泣かせたら許さないから」

「幸せにするよ」

「頼んだぞ・・・・・・なに? 私の顔に何かついてるの?」

 そう言われて僕は彼女の顔をじっと見つめてしまっていたことに気がついた。すっかり忘れていた習慣だったけれど、僕は彼女の顔を見ることが好きで、癖とよべるくらいになっていたのだ。その癖が出てしまった。僕は慌てて目を背け式場の壁を見つめた。金糸を織り込んだ白い壁紙が明るい照明を受けて輝いている。僕はもう一度目線を動かし、彼女の瞳と向かい合った。わずかに立ったさざ波はどこかに消え、意外なほど心は穏やかだ。僕はこれから想い合っている女性と結婚する。その喜びの前には過去は思い出でしかない。

「いや、久しぶりに元気そうな顔を見れて嬉しかったんだ。今日は来てくれてありがとう」

「どういたしました。この度はおめでとうございます」

 そう言って彼女は深々と頭を下げた。長い髪がさらさらと肩の辺りを流れる。その後頭部に僕は心の中でもう一度感謝を告げた。

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