先輩なら映画館で後ろから座席を蹴ってくるやつに注意してくれますか?
「ねえ、聞いてます?」
学食で天ぷら蕎麦をすすっていると隣から声をかけられた。すすりながら横を見ると同じテニスサークルの後輩の木野だった。いつから隣にいたんだろう? 少し驚いた。
「ごめん聞いてなかった。ていうか、いつからそこにいたの?」
木野はきゅっと眉間に皺を寄せ唇を尖らせた。本人には申し訳ないが小さい女の子みたいで少しかわいい。
「さっきからいましたよ。私が『隣いいですか?』って聞いたら『いいよ』って言ってくれたの先輩じゃないですか」
思い出そうとしてみるが記憶がない。無意識だったのかもしれない。
「そんなことより先輩、私本当に嫌だったんですって」
「ごめん、何が?」
木野には悪いが何の話か全くわからない。そんなおれにはそう言うしかなかった。木野の眉間の皺がさらに深くなる。明るい性格で考えていることが顔に出やすい木野。なにかと絡んできてくれるこの子と付き合えたら……と思っているもののおれには告白する勇気がない。
「だから、先週映画に行ったんですよ。最近人気のアニメ映画なんですけど先輩観ました?」
木野が言った作品はとても有名な映画で、観ていないけれどタイトルはおれも知っていた。3年ごとに作品を出している有名なアニメスタジオの新作で、今大ヒットしているらしい。
「先週の土曜日に急に観に行きたくなったんで一人で行ってきたんです」
「一人で?」
「はい、一人で」
私、今何か変なこと言いました? と顔に出しながら首を傾げる彼女。一人で映画を観に行ったことがないおれには彼女の行動力が少し羨ましく思えた。おれには好きな子に告白する勇気も、一人で映画に行く勇気もない。「悪い、気にしないで」と言っておれは先を促す。
「お昼過ぎの回を観に行ったんですけどすごい人で、席はほとんど埋まってたんです」
「やっぱり人気なんだ」
「そーなんですよ! でも……」
木野の顔が急に暗くなる。
「何かあった? もしかして面白くなかった?」
「いえ、そういう訳じゃないんですが嫌なことがあったんです」
「嫌なこと?」
おれの頭の中でいろんな想像が生まれる。隣の席にいたやつに足を触られたとか言われたら冷静でいられなくなる気がする。もしそんなやつがいたらおれは絶対に許さない。
「映画が始まってすぐにトントントンって足を鳴らす音が後ろから聞こえたんです」
「足を鳴らす音?」
「そうなんですよ。そんなに大きな音じゃないんですが、つま先で床を鳴らしているような音がしてたんです」
「それは気になるな」
「でしょー!」
おれが同意すると木野がぐっとこちらに身を乗り出してきた。急に距離が近くなっておれは思わず顔を背けてしまった。やばいと思いなんとか誤魔化すために慌てて蕎麦をすする。そっと横目で様子を見てみると木野は特に気にしている感じもなく再び話し始めるところだった。
「最初は無視したらいいやって思ってたんです。でも気づいちゃうとやっぱり気になって嫌だなーって思って」
「まあ、そりゃ嫌だよな」
おれは蕎麦を食べ続けながら同意した。
「でも、うるさいですって注意する勇気がなくて。それに私が声を出したらそれも周りの人の迷惑になるしどうしようか悩んでいたんです」
たしかに注意する時に声を出して映画のセリフと被ってしまうと周りの人に迷惑に思われるかもしれない。対応が難しい話だなあと思いながらおれは蕎麦を完食した。
「悩んでいるうちに映画がどんどん進んで、たぶん中盤ぐらいになった時なんですけど今度は後ろから座席の背もたれを蹴られたんです」
「まじかよ、それはうざいな」
「そうなんですよ! いきなり背もたれがどんって揺れたんです。しかも一回だけじゃなくてその後も何回も蹴られたんです。私なんだか怖くなって映画に集中できなくて……」
俯く木野を見ておれは彼女を守ってあげたくなった。おれが側にいたらなにかできたかもしれない。
おれは自分がヘタレだと自覚している。しているけど動かなきゃいけない時ぐらいはわかる。そんなことを考えていると木野と目が合った。
「だから先輩。私と映画に行ってくれませんか?」
「は?」
冗談かと思った。でも、木野は真剣な顔でおれを見ている。なんとなく冗談じゃなさそうだと察する。
「私、映画ちゃんと観たいんです。でも一人で行ってまたあんな思いするのも嫌なんです」
「わかった。一緒に行こう。おれも観てみたいなと思ってたからさ」
好きな子に映画に誘われて断る男がいるだろうか? おれは悩むことなく行くことにした。映画にはあまり興味はなかったけれどそんなことはどうだっていい。
「本当ですか!」
木野の嬉しそうな顔を見ておれも嬉しくなった。でも、自分から誘えなかったことが情けなくて自分が少し嫌いになった。もっと頼りがいのある男になりたい。
「じゃあ、今週の日曜日なんてどうですか?」
「ああ、バイトは休みだから大丈夫」
「じゃあ日曜日のお昼から観に行きましょう!」
そんなこんなで木野と映画を観に行くことになった。行き先は駅前のショッピングモール。ショッピングモールの中にある映画館で映画を観て、カフェでケーキを食べて帰るというスケジュールまで決まった。
これはデートと言ってもいいんじゃないだろうか? 間違いない、言っていいはずだ。おれは心の中でガッツポーズをした。
「そう言えば気になることがあったんですよね」
突然木野が思い出したかのように話し出した。
「コロナ対策で映画館の座席が一個飛ばしって言うんですかね、どの座席も両サイドの席が使用禁止になってたんです」
「ああ、座れる席と座れない席が互い違いになってたんだろ?」
「そうそう! そうなんですよ」
伝わった伝わった! と嬉しそうに呟く彼女を見てかわいいなあと思ったけれどおれには話が見えなかった。
「映画が終わってから、どんなやつが後ろの席にいたのか見てやろうと思って見てみたんです。そしたら、私の真後ろの席は使用禁止になってて誰もいなかったんです」
「……え?」
「だから後ろに誰も座ってなかったんです。しかも私の斜め後ろの席に座っていたのはどっちも5歳ぐらいの子どもで私の席まで足は届かなさそうだったんです」
おれは木野の想定外の発言に思考が停止した。え、なにこれ、オカルト系なやつ? もしかしておれは試されてるのか?
「なんか怖いなーと思ったんですけど、先輩はどう思われます?」
やっぱりおれは試されてるのかもしれない。なんと答えるのがベストか分からず、悩んだ結果おれは
「子どものいたずらだったんじゃないか? もし日曜日に同じようなことがあったらおれがなんとかするよ」
という当たり障りのない返答しかできなかった。
「いたずら……そっか、そうですよね! じゃあ日曜日楽しみにしてますから。忘れないくださいよ」
「忘れないって」
木野のリアクションを見たところ不正解な返答ではなかったようだ。少しほっとする。
「そうだ、先輩、後で電話してもいいですか?」
「電話?」
「はい、ここじゃちょっと言いにくいことなんで電話したいんです」
「ああ、いいけど」
「ありがとうございます!」
おれはちょっと緊張した。ここじゃ言いにくいことって一体なんだろう。かなり気になる。
木野は嬉しそうに笑いながら「5分後ぐらいに電話しますねー」と言いながら席から立つと去っていった。木野が見えなくなってからおれは小さなため息をついた。なんだろう、幸せだけど少し疲れた気がする。
木野の最後の話が少し引っかかった。後ろの席に誰もいなかったって話だ。おれの返答はあれで正解だったのだろうか? 誰か正解を教えてくれ。あと、電話をかけてくるって言ってたけどなんの話だろう。5分がいつも以上に長く感じる。
情けないが今おれは完全に浮かれているのが自分でもわかる。浮かれつつ、でも最後の話にほんの少しもやもやしながら食べ終わった食器を食堂の返却口に運ぶ。食器を置き、木野からの電話を今か今かと待っていると前から木野がやってきた。
「先輩! いいところにいましたね」
「いいところ?」
「先輩、日曜日は暇です? 暇ですよね? さっきサークルのメンバーで日曜日にバーベキューしに行こうって話が出たんですよ。先輩もどうです?」
木野が嬉しそうに言った。おれは自分の目を疑った。この子は何を言っているんだ?
「え? いやいや、日曜日は映画に行こうってさっき言ってただろ?」
思わず焦りすぎてつい早口になってしまった。でもそんなことを気にしている場合じゃない。映画デートの話はどこにいったんだ?
「映画? 何の話ですかそれ。それにさっきって私今日初めて先輩に会いましたけど」
木野が怪訝そうな顔をする。嘘を言っているようには見えない。
「もしかして先輩、私と映画に行きたいんですか?」
「いや、そういう訳じゃない……訳でもないんだけど……さっき……」
どう説明をしたらいいのかわからずおれがあわあわとしていると木野が急に笑い出した。
「わかりました。いいですよ。今週の日曜日はみんなでバーベキューに行きましょう。で、映画は別の日にしましょう」
「え?」
おれは咄嗟に何も言えなくなった。それはそれで嬉しい展開だ。
「え? じゃないですよ。映画、行きましょう。私気になる作品があるんです。でも誘うならもっとスマートに誘ってほしかったな……」
少し顔を赤らめる木野。かわいい。かわいいけれどおれは混乱していた。何かがおかしい。いや、おかしすぎる。頭の中をいろんな考えが駆け巡る。
「あ、先輩、私友だちを待たせてるんで行きますね。バーベキューと映画の件また後で詰めましょ。メッセージ送ります。じゃっまた!」
木野はそう言って食堂の入り口に向かって歩いて行った。
よくわからないけれど今週の日曜日はバーベキューになった。そして映画も行けることになった。
でも、じゃあおれが蕎麦を食べていた時に話していたのは誰だ? あれも木野だったはずだ。おれは遠ざかる木野の背中をぼんやりと眺めた。
眺めていてふと気がついた。蕎麦を食べながら話した時と木野の服装が違う。着替えたのだろうか? 何のために? いや、そもそもそんなに早く着替えられるのか? 頭の中に次々と疑問が浮かぶ。
そんな時だ。ポケットの中でスマートフォンが震えた。振動はすぐに止まず電話だと気がついた。誰だろうと思いながらポケットに手を突っ込む。
「5分後ぐらいに電話しますねー」
蕎麦を食べていた時に話した木野の言葉が頭に蘇る。おれは少し緊張しながらスマートフォンの画面を見た。そして思わず目を見開いた。
画面には『非通知設定』の文字が表示されていた。