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きつねのはなし

作者: 優深

 蝉の鳴き声が遠くできこえる。

小さな稲荷神社の陰でうずくまって紅子は泣きそうなのをじっと堪えていた。

近所の男の子達がツリ目、キツネ目とからかってくる。

反論すればさらにからかわれ、恥ずかしさと悔しさといたたまれなくなってここに逃げてきた。

思い出すとじんわり目頭が熱くなって、ぽたりと手の甲に涙が落ちる。

ざぁっと風が吹いて、紅子の髪を撫でた。

「どうしたの?」

頭上から声がかかって顔を上げると、白い着物を着た知らない男の子が社殿の高欄から身を乗り出しこちらを見ている。年齢は紅子より少し上だろうか。

紅子は恥ずかしくなって、急いで涙を拭うが、なぜだか涙はどんどん溢れてくる。

ギュッと小さくうずくまってしゃくりをあげる。

そっと肩に着物が触れた。

男の子は足袋のまま紅子の隣にしゃがんで心配そうに見ている。

蝉の声が大きくなる。


 開け放った窓から、蝉の声が部屋の中に入ってくる。

随分懐かしい夢を見たものだと、紅子はベットの上で体を起こし額の汗を拭った。

小学一年か二年かくらいの頃の出来事だ。

 今は容姿をからかうような人間は周りに居ないし、友人達は切れ長でカッコイイじゃないと言ってくれるが、散々からかわれたコンプレックスのつり目を素直に受け入れられない。

姿見に映る寝起きの顔を見て、溜息をついた。

(お母さんもおばあちゃんもひいおばあちゃんもつり目だもんなぁ…遺伝子強すぎじゃない?)

紅子の母方の女性はほとんどつり目、良く言えば切れ長の目をしている。

仏間に飾ってある高祖母や大叔母の遺影もつり目だから、きっとその前からそうなのだろう。

 紅子は少しでもきつく見えないようにメイクをし、ゆるく巻いた髪をひとつに束ねて家を出た。

大学の授業も今週が終われば夏休みだ。こんな暑い最中に出かけなくても済む。

もわんと纏わりつく熱気と蝉の声が夏を主張していた。


 小さい頃はからかわれるのが嫌で、一人で神社の境内で遊んでいた。

夏の間だけ、あの男の子がたまに遊んでくれた。いつも着物を着ていた、ちょっと不思議な男の子。お祭りの時はからかう男の子達から守ってくれた。

結局お互いに名乗らず、どこの家の子か分からないままだ。きっと近所の家の親戚の子供が夏休みに遊びに来ていたのだろう。

 そんな事を考えながら、件の稲荷神社の前を通りがかる。

そんなに大きな神社ではない。おそらくコンクリートでできた鳥居と短い参道、慎ましい社殿と隣に立つ小さな社務所。敷地に植えられた木々は森というより並木という表現がしっくりくる。小さい頃には広く感じた神社の境内も大人になれば狭く感じるのだろう。

昔はもう少し鎮守の森が広かったそうだが、開発の波に押されて今は宅地に変わっている。

 境内に目をやると、一本だけある大きな楠の前に見慣れない神職姿の男が立っていた。

ここの宮司は白髪のおじいさんだったはずだ。

ゆっくりと紅子の方へ振り向く。

夏の光に照らされて、まるで後光が差したように輝いて見える。うるさく鳴いていたはずの蝉の声が一瞬消えて、風が木々を渡る音だけがさらさらと聞こえた。

若い男だった。

暑い中、汗ひとつかいていないような涼し気な顔でにっこり微笑む。

 微笑まれて目が合ったことに気付き、慌てて紅子は頭を下げた。

どれだけ見つめていたんだろう。なんだか気恥ずかしくなって、小走りにその場を離れる。

(あ、新しい宮司さんなのかな?今の宮司さんおじいちゃんだし…)

暑さの所為でなく、少し火照った頬を誤魔化すように考える。


なだらかな坂を下ってアンダーパスに差し掛かって、紅子の足並みが鈍る。

最近一番の気がかり。上に幹線道路がかかっているが、住宅地の端のアンダーパスに人気はない。

紅子の反対側の歩道の影がぼんやりと揺れている。日影ではないそれは、心なしか昨日より大きく濃くなっている気がした。

霊感が強い訳ではないのだが、たまにこういうモノが見えるのが厄介だ。

見えると分かると付いて来たり、襲って来たりする。

紅子はなるべく無関心を装いながら、息を止めて足早に通り過ぎる。

影は同じ場所で揺れているだけだ。

嫌なら他の道を行けばいいのだろうが、大学へと向かうバスに乗るには生憎この道を通るしかない。

振り向かず歩き続け、人通りの多い商店街に出る。

紅子はほっと胸を撫で下ろした。


「紅子さんは、たまに変なのに好かれるよね」

 数日後、大学のカフェテリアでそう声を掛けてきたのは三年の森中惇だ。

人懐っこい笑顔で、断りもなく紅子の前に座る。

「いただきまぁす」

間の抜けた声で手を合わせ、幸せそうに照り焼きハンバーグに箸を伸ばす。

紅子はうんざりした顔で森中を見て、アイスコーヒーのストローから口を外した。

「相変わらず、すごい隈ですね」

「まぁ、仕方ないよ」

へらへらしながら森中が返す。

 大学に入学してすぐ、ある件で知り合ったこの上級生は、自分が所属する民俗学ゼミに紅子をやたらと勧誘する。勧誘を断る為に、森中の隈がすごいからそんな大変なゼミは嫌だと言ったら「僕は狸だから」と返された。意味が分からず、呆気にとられる紅子にさらにこういった。

「岡山さんは狐でしょう?」

なんてデリカシーのない男だ!!と憤慨したが、そのへらへらした顔が何となく怒る気持ちを萎えさせる。目の下の濃い隈も情けなさを増長させた。

その後、隈ができやすい体質なのと両親共に小太りでどことなく狸を連想させて、発言の謎は解けたが。

「ところで変なのに好かれるって、どういうことですか?」

森中と例のゼミの准教授以上に変なのに好かれる記憶がない。

「うん。黒い靄みたいの。カフェの入口にいる」

「!?」

「振り向いちゃダメだよ。気付かれる」

どっと嫌な汗が出てきた。

今日すれ違った時もいつもの場所で揺れているだけだった筈だ。確かに前よりも濃くなっていたが、まさか付いて来られていたなんて思いもしなかった。

学校のような自由に出入りできる場所は、ただでさえそういうモノが集まりやすい。気配が紛れて気付かなかったのだ。

「前も小さいおじさんの付きまといにあったじゃない?気をつけなきゃだめだよ~」

「ストーカーみたいに言わないでください」

紅子は以前、500ml缶大のおじさんに付きまとわれた事があった。行く先々に現れる小さいおじさんはサイズが小さいだけで行為はストーカーそのものだった。

「そろそろ自分で何とかできるようにした方がいいんじゃない?」

「なんとかって…」

「簡単なお祓いとかお清めとか」

「森中さんが何とかしてくださいよ」

「僕は門外漢」

「じゃあ、鈴木先生は?」

民俗学の鈴木准教授は霊が見えるとか妖怪が見えるとか、生徒の間でもっぱらの噂だ。小さいおじさんも見えたから実際そうなのだろう。

「鈴木さんは存在が物理攻撃系だからなぁ」

「存在が物理攻撃ってどういうことですか。確かに派手な格好してますけど」

「でもまぁ、知恵は貸してくれると思うよ?」

ごくんとハンバーグを飲み込んで森中は言った。

 ゼミの研究室に行くために、森中が食べ終わるのを氷しかなくなったグラスの底をつつきながら待つ。

黒い靄はもぞもぞと動きながら、学生達を観察しているようだった。

他に興味が移ってくれたらいいんだけど…いや良くないか…悶々としながら目を閉じる。

何故だか今朝の夢を思い出して、少しほっとしたのも束の間。

 ぞわり。

突然悪寒が走って、紅子は身を縮めた。

「紅子さん!」

緊迫した森中の声に目を開ける。

「早く。こっち!入ってきた」

ぎょっとして思わず振り返ってしまった。黒い靄と目が合った気がした。実際靄に目はないが気配を気取られたようだ。

森中は身震いしてから、固まってしまった紅子の手を引き、靄と反対側の出口から走り出した。

ズッ…ズッ…と引きずるような音をたてて、靄が追ってきた。いつの間にか、細い不格好な腕が紅子を捕まえようと伸びてくる。

ゼミ室のある研究棟へ行くには、靄を追い越して反対側へと行かなければならない。

「中庭、突っ切ろう!」

1階まで駆け降り、渡り廊下から中庭に出る。

先程まで晴れていた空はどんよりと雲って薄暗く、遠くでゴロゴロと雷鳴が聞こえていた。

靄はズルズルと廊下を追いかけてくる。

二人は休まず走り続け、研究棟の階段を駆け上がった。

研究室のドアが見えた。

すぐそこまで迫った靄の手が伸び、紅子を捕まえようとする。

 バン!!

森中の腕が紅子を強く引き研究室の中に放り込む。

反動で紅子は床へ倒れ込み呻いた。

ドアを閉めると同時に何かが戸にぶつかる音とバチンッと弾かれる音、ギャッというしゃがれた叫び声が響いた。

森中は鍵をかけ、長い溜め息をはきながらドアに持たれてずり落ちる。

「助かったぁ~」

「痛ぁ…」

紅子が左肘を押さえて上体を起こす。

「ごめん。大丈夫?」

「大丈夫です。ありがとうございます…」

「とりあえず、この部屋にいれば大丈夫だと思う。結界になってるって言ってたし。ねぇ鈴木さん」

森中がパーテーションの奥に呼びかける。

「…」

返事がない。

二人は顔を見合わせ、立ち上がりパーテーションのむこうを覗いた。

机や棚に無造作に積まれた大量の資料と書類。一番奥のデスクにも手前のソファーにもこの部屋の主である鈴木准教授の姿は無かった。

「森中さんこれ…」

紅子が指差したパーテーション裏のホワイトボードには、月末までヒアリング調査と殴り書きがしてあった。

「朝なんにも言ってなかったのに…」

森中はがっくりと肩を落とす。鈴木准教授に知恵を借り、あわよくば退治してもらおうという当てが外れた。

二人はソファーに向かい合って座り黙りこんだ。

外からドアの前を何度も往き来するような音が聞こえる。

閃光とバリバリッと音が響いて二人は一瞬身を竦めた。突然、激しい雨が降りだす。どうやら、暫くここに居るしかないようだった。


 数時間後、雷鳴は遠ざかり雨が小降りになってきた。

「もうどっか行ったかな?」

森中はドアに耳をそばだてる。紅子も耳をすましてみたが、引きずるような音はしなくなっていた。

「なるべく暗くなる前に帰りたいけど…」

暗いアンダーパスを通るのはさすがに恐い。

「分かった。ちょっと外の様子見てくる」

森中も同意してドアノブに手をかけた。細く開けて外の様子を探る。

「送ってくから。戻ってくるまで、絶対にドア開けちゃダメだからね」

「分かった。気を付けて」

紅子は深く頷いて森中を見る。

森中は隙間からするんと外に出て、ドアを素早く閉めた。

 静かな部屋に時計の音と微かな雨音が響く。

胸がざわざわして落ち着かない。森中は大丈夫だろうか?

見えるけれど森中もああいうモノに対処できるわけではない。

ジリジリと不安だけが広がっていく。

どれくらい経ったろうか。ドアをノックする音にビクリと跳び跳ねる。時計を見ると5分しか経っていない。

コンコンとまたノックされる。

「はい…」

恐る恐る返事をする。

「森中さん…?」

「そう」

「もう何もいない?」

「何もいないよ」

「よかった…」

ほっと胸を撫で下ろす。

「早く出ておいでよ」

「今行く…」

ドアに触れようとして躊躇う。何か嫌な感じがする。

「雨、降ってる?」

「そんなに降ってないよ」

恐る恐る少しドアを開けるとそこには森中がひとり立っていた。

今度こそ安心して紅子はドアを開け部屋の外に出た。


 雨は傘をささなくてもいいくらいに上がっていた。

まだ微かに遠くの雷鳴が聞こえるが、雨がひどくなることは無さそうだ。

二人はバスを降り商店街を抜け、紅子の家へと向かう。

 しかし紅子は後悔していた。

森中の様子がおかしい。いつもならどうでもいい事をしゃべっているのに、やたらと口数が少ない。

それに足を少し引きずっている。

「足、どうしたんですか?」

「さっき、少し捻ったみたい」

受け答えは普通なのだが、なんだか居心地が悪い。

「もうここで大丈夫です」

「いや、送っていくよ」

何度目かのやり取りをするうちに、件のアンダーパスが見える所まで来た。

靄は見えないものの…嫌な気配がする。

「ここで何を見たの?」

立ち止まった紅子に後ろから声がかかる。

「ここで…?」

何を見たのか?

ここで見たもの。

黒い靄。

群がるカラス。

足を車に曳かれた大きな蛙。

かわいそうにと思った。

でも。

「その話、しましたっけ?」

「かわいそう」

「え?」

「おれ かわいそう」

振り向くと森中の顔が真っ黒い靄に変わっていた。顔の端から端まで裂けた大きな口。

「おれ かわいそう おまえやさしい 」

靄が激しく蠢いている。生物が腐った嫌な臭いがした。

(逃げなきゃ…)

じりっと後退る。

「おれ おまえといっしょがいい」

言うが早いか靄が無数の腕になり紅子目掛けて掴みかかろうとする。

紅子は身を翻し逃げ出した。いつの間にか辺りは真っ暗になって、自分がどこを走っているのか分からない。

それでも走った。靄の腕はどこまでも追いかけてくる。

「いっしょにいようよー」

声が遠くなのか近くなのかよく分からない。

息が上がって足がもつれる。それでも止まれば捕まる。

(誰か助けて…!)

叫ぼうにも息をするのが精一杯で、声が出ない。生臭さが気持ち悪い。腕の黒い陰が視界のはしを掠める。

(誰か…!)

真っ暗な道か野原か分からない空間を走っている。どこに進めばいいのか進んでいるのか分からない。

遠くにぼぅっと明かりが見えた。青白い光に紅子はハッとして向きを変えた。

(あそこに行けば助かる…!)

直感的にそう感じて、必死に灯りの方へ走る。

「いっしょにいようよー」

黒い腕が紅子の右手首に絡む。

焼けるように痛い。

「嫌!」

なんとか振り払って走る。

光の中に鳥居が見えた。稲荷神社だ!

そう思った瞬間、左足を引っ張られ転倒した。倒れたところを黒い無数の腕が襲いかかってくる。

ざっと鳥居の方から風が吹いて一瞬腕の動きが止まった。

靴を脱ぎ捨て、鳥居の向こうへ転がり込んだ。雨で濡れた参道の石畳のざらりとした感触。必死に起き上がり隠れる場所を探す。

なんとか拝殿の柱にすがり付き、賽銭箱と階段の影に身を屈めた。

震えと涙が止まらない。

(誰か…誰か助けて…)

靄は境内には入れないらしく鳥居の前を行ったり来たりしながら、こちらの様子を見ている。

賽銭箱の影にいるのは分かっているようだった。

「どうしました?」

頭上から声が掛かった。

恐る恐る振り向くと、今朝の神職の男が浜縁に立っていた。

「あ、あの…」

恐怖と震えで上手く声が出ない。

「変なのに、追いかけられて…」

はたと気づく。カエルの化け物に追いかけられたと言って誰が信じてくれるだろう。

思わず目を背ける。

「変なの?」

彼は鳥居の外に目を向けた。スッと目を細める。

冷たい視線に紅子は驚いて身を縮ませた。

「怖かったでしょう。大丈夫ですよ」

変質者に追いかけられたと思ったのだろう、彼はにっこりと微笑んで手を差し出した。引き付けられるように手を取った瞬間、全身が安堵するようなあたたかな気配に包まれる。

紅子を拝殿の中へ招き入れ格子戸を閉めた。

しん…と空気が変わった感じがする。

祭壇の後ろの几帳の奥にある部屋に通され、紅子は渡された濡れ手拭いで汚れた所を拭き取る。

靄に掴まれた腕と足は火傷のように赤く腫れていて、水で洗うとずきずきと痛んだ。彼は擦りむいた膝や掴まれた腕と足を丁寧に手当てをしてくれる。

「ありがとうございます」

お礼を言って彼を見つめた。朝と同じく涼し気な顔立ち。

「もう涙は止まりましたね」

そう言った彼の安堵した表情に、紅子は頬が熱くなるのを感じた。

「では靴を取ってまいりましょう」

立ち上がる彼の袖を、紅子は思わず引っ張った。

「でも外には…」

彼は向き直り、袖を掴んだままの紅子の手に右手を重ねる。

「大丈夫ですよ。あなたはここにいてください」

微笑んで部屋を出ていく。

ひとり残された部屋に静けさが広がる。紅子は急に心細くなり、誤魔化すように部屋を見まわした。

拝殿の奥がこんなに広いなんて知らなかった。

八畳くらいはあるだろうか。半分板間でもう半分には畳が敷いてある。几帳と文机以外は何もないが、不思議と落ち着く部屋だった。

ドーンと雷の落ちる音がして、驚いて振り向く。鳥居の方向だ。

まさか、あの靄が彼に危害を加えたのだろうか。

ぞっとして、部屋を出ようとした時、彼とぶつかった。

「ごめんなさい」

「いいえ、こちらこそ」

彼は左手に脱げた靴を持っていた。

「ありがとうございます!」

頭を下げて、恐る恐る彼を見上げる。また靄が化けているのかと思ったが、嫌な感じはしない。

「…雷凄かったですね」

「近くに落ちたみたいですね。驚きました」

「…大丈夫でしたか?…あの…」

「心配要りません。もう、あれは居ませんから」

驚いて口ごもる紅子の手に彼は何かを握らせた。

朱色の綺麗な御守りだった。手の中で小さな鈴がちりん、と鳴った。

「これを差し上げましょう。あなたを守ってくれますよ」

「でも…あ、お金…」

「お代は結構ですよ」

「でもそれじゃ申し訳ないです。こんなにしていただいたのに…」

紅子はうつ向いた。助けてもらって手当てまでしてもらったのに、御守りまでいたただいては、本当に申し訳ない。

「では,またお参りに来てください」

「え?」

「いつでも。気が向いた時でかまいません」

「はい…」

見つめられて、思わず頷く。

笑顔が少し寂しそうに見えて、どきりとした。

この人に会ったことがある気がする。


 その後、電話で駆け付けた母と何度もお礼を言って神社を出た。

あの靄の気配は確かに消えていて、雨上がりのしっとりした空気と澄んだ夜空が気持ちいい。

何となく離れがたく、紅子は何度も振り返る。

彼は鳥居の外で二人が乗った車を見送っていた。


 母は変質者に追いかけられたのではと警察に行こうと言ったがなんとか押しととどめた。

「それにしても、あんな若い禰宜さんが居たなんて知らなかったわ~」

「うん。そうだね」

あの彼は多分、あの時の男の子だ。そう今になって思う。

(そう言えば、森中さんどうしたのかな?)

スマホを見ると森中から何件も連絡が入っている。

紅子は自分は大丈夫な事、心配をかけたことを謝るとスマホを鞄に仕舞って窓の外を眺めた。

車は夜道を家に向かって進んで行った。


 翌日、紅子と母は改めて神社にお礼に行った。昨日と同じように、暑く蝉の声が溢れている。

しかし、対応した老夫人は困惑したようだった。

昨日は宮司夫妻は会合に出かけており、帰りは深夜だったというのだ。

神社には宮司以外に神職は居らず、拝殿には鍵がかっているため入れるはずがないという。それならば彼もまた不審者ということになる。

夫人は夫である宮司を呼んだ。

事の次第を話すと宮司も思案顔になる。

 なんとなく紅子にはこんな事になるのではないかと感じていた。

昼間改めて見る拝殿には昨日通された部屋があるようには見えなかった。

拝殿の後ろに渡り廊下で繋がった本殿はあるが、あそこまでの広さは無さそうだ。

「昨日、これを頂いたんです」

御守りを宮司に見せる。ちりんと鈴が鳴る。

「確かにうちの御守りですが…これは…」

御守りに触れようとした宮司は、何かを感じたのか指を引っ込める。

「もしかしたら、お稲荷様が助けてくださったのかも知れませんね」

紅子は深く頷いた。


 宮司と紅子と母の三人は拝殿に移動し、内宮でお礼のお祈りをする。

祝詞をあげる間、気配を感じて目を開ける。

室内だというのにふんわりと風が吹いて、紅子の髪を揺らした。

紅子は御守りをぎゅっと握りしめる。あたたかい気配が指先から伝わってくる。

鏡の後で彼が笑った気がした。





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