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「手ぐらいなら大丈夫。ちょっと僕の絵の具ついちゃうけど……ここまできたらもうどっちみち治る時間は一緒だからね」
「でも……」
「今だけ。今、このときだけ。こんなときじゃないと、僕は郁ちゃんに触れないんだ」
あたしの前髪をよけて、よく顔が見えるようにした手は、はりつめた皮膚が裂けて血がにじんでいた。瞳も瞳孔が広がりつつあり、涙にかすかな赤みが混じっている。それでもなお、彼はあたしを離そうとしなかった。
彼の顔が近づき、再び、口付けをする。
唇の間をすりぬけてくる熱い舌を感じて、あたしはまぶたを下ろし、彼に身体をゆだねることにした。
○○○○
「……唇は赤くても、そのまわりの肌はやっぱり白いんだよね」
椅子に腰掛け、ぐったりとした様子の彼は、真っ赤に腫らした唇でそう呟いた。
そんな間室さんに、あたしは水で濡らしたタオルを渡す。ありがとうと弱々しく返事をして、彼はまぶたを冷やし始めた。
「本当に……大丈夫なんですか?」
「心配しすぎだって。ちゃんとまた見えるようになるし、肌だってすぐに良くなるから」
完成した絵を見て、あたしは思わずため息が漏れる。ほとんどがあのサングラスごしだったというのに、本当に色彩豊かに描かれていた。この白い雲も、カーテンも、そしてあたしの背中も、身体が拒むはずの色を使って、とても美しく仕上がっていた。
「ああ……くそ」
うめき声を聞いて、あたしは大丈夫かと声をかける。そうじゃないと首を振った彼は、小さな声で「悔しいんだ」と呟いた。
間室さんは手を宙に泳がせて、あたしがどこにいるのか探している。だからあたしはそっと、肌に触れないよう彼の腕を握った。
「もうすこし長く触れると思ってたんだよ。でもだめだった……こりゃしばらく童貞のままだ」
あーあ、と大げさに息をついてみせる。
「知ってる? 男は三十まで童貞だと魔法使いになるんだよ」
とがらせた唇の痛々しさ。目が見えないことで、声が大きくなっている。あたしにすがりつく力がとても強くて、でも本人はそれをごまかすために明るく振舞っていた。
「ねぇ、間室さん……」
呼びかけられて、彼は話をやめた。
「あたし、これからもここに来てもいいですか?」
絵が完成した以上、モデルはもう用無しだ。そのことを今さらながら思い出したらしく、間室さんはいくぶん慌てた様子でうなずいた。
「もちろん。いてくれないと、困るよ」
「目が見えるようになるまで、一緒にいてもいいですか?」
「それはとても助かるよ!」
にわかに、彼の頬が色づく。凍えそうな肌が、次第に熱くなってゆくのがわかる。
「もうしばらく、童貞のままでいい?」
からかいを含んだあたしの言葉。
彼はそれに、にやりと笑った。
「郁ちゃんがいてくれるなら、喜んで」
END