5
青い空、白い雲、窓から見える木、見上げる女性、そして、白いカーテン。けれど実際に部屋にあるカーテンは、夜空のように濃い藍色をしている……はずなのに。
カーテンは真っ白だった。レースのカーテンと二重にして、紐でまとめずに風でなびかせている。部屋に吹き込む風にふかれて、蝶が羽根を広げるように大きくたなびいていた。
いつもは手袋をしているはずなのに。筆を握る手はなにもつけていない。
「ああ、郁ちゃん、いらっしゃい」
ふりむくその顔に、サングラスはなかった。
「ごめんね、まだ完成してないんだ。よければ、またそこでモデルやってくれると嬉しいんだけど……」
隔てるものなく、まっすぐに、彼は黒い瞳であたしを見ていた。その指先には、雲を描くために、白い絵の具がついている。
「嫌だったら、いいよ。そこで見ててくれるといいな」
「嫌じゃないです。やります」
はっと我に返り、あたしはTシャツのすそに手をかけた。
「でも、間室さん、大丈夫なんですか。そんな……じかに白いもの見ちゃって」
「一日くらいなら大丈夫なんだよ。そのあと一週間はほとんど見えなくなるけどね。経験でわかってるんだ。だから絵の仕上げには、ちゃんと色を確認するために、サングラスをはずすんだよ」
指で描くのは、そのほうが今回の絵にあう雲になるから。間室さんはそう教えてくれる。ちらりと見た絵は、最後に見たときよりもさらに繊細に描きあげられていた。女性の後ろ姿が妙になまめかしい。彼の目に、あたしの背中はこう映っていたのだろうか。
「本当に、大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。大丈夫だから、大丈夫なうちに完成させて」
あたしが窓際に立ち、肩にかけたバスタオルを外すと、間室さんの視線がぴんとはりつめた。
今日は、談話もない。ただひたすら真剣に、彼は絵を描いていた。しんとした中、吹き込む風となびくカーテンの音が響く。
サングラスがないからか、久しぶりだからか、彼の視線に高鳴る心がいつもより激しい。
その音があまりに自分に響くものだから、あたしはそれが彼に聞こえやしないかとひやひやする。けれど耳をすませば、かすかにお互いの吐息がさえずるだけ。
時折、カーテンが頬を撫でる。それがくすぐったいのと、間室さんが心配なのとで、どうも落ち着かない。
「――あと、名前いれるだけだから、もういいよ。郁ちゃん、お疲れ様」
そう声をかけると、彼は筆を置き、長いため息をつきながら椅子にもたれかかった。
「間室さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫。大丈夫なうちに、こっちに来て」
手招きをする間室さんの目は、真っ赤に充血している。絵の具をふきとる手は、赤くただれ、まるで熱湯を浴びたかのようにあちこち水ぶくれができていた。
「冷やしたほうがいいんじゃないですか?」
「いいから、ここにいて」
よいしょと一声かけて、間室さんは立ちあがる。そしてあたしの正面に立ち、そっと、タオルの上から腕に触れた。
「一度こうなっちゃえば、ちょっとぐらい無理したって同じなんだ。だから今のうちに、郁ちゃんを見たいんだけど、いいかな?」
充血した目はさらに涙までたまっていて、あたしは嫌だと首をふりたくなる。けれど断ったところで彼はやめないだろうと思い、うなずく代わりにバスタオルを床に落とした。
「あたしが日焼けして、肌を黒くしたら、間室さんも触れるようになりますか?」
「そんな風に考えないでいいよ。郁ちゃんは今のままが一番素敵なんだから、変わろうなんて思わないで」
「でも……」
なお続けようとするあたしの唇を、間室さんが指でおさえた。
また怪我をすると思い、あたしは慌てて離れる。あのときのように赤くただれやしないかとおろおろしていたけど、彼の指にこれ以上の変化は現れなかった。
「唇は白くないから大丈夫みたいだ」
にこっと笑って、間室さんはあたしにひとつ、淡いキスをした。
すぐに離れたその唇にも、以前のような変化はない。自分でも触って確認して、彼は深く安堵の息を吐いた。
「たださ、どうせキスするなら、抱きしめたいっていうの、わかる?」
返事を待たずに、間室さんはあたしを腕の中に引き寄せた。
おどろいて離れようとするけど、彼はまた唇を重ねてくる。彼は服こそ着ているけど、手袋はしていない。あたしの背中に触れる手は、間違いなく、白に負けてしまう。