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「自分は誰かと抱き合うこともできないと思うと、なんだか情けなくてね。この年して童貞なんだ、暴露しちゃうと」
本当に、背中を向けていてよかったとしみじみ思った。きっと彼も、顔が見えないからこそ言えたのだろう。
「この年してって言っても、まだ若いじゃないですか」
「最近の子はみんな早熟なんだよ」
間室さんが、立ち上がるのがわかる。そして手袋を新しいのに取り替えて、あたしのもとへやってくる。
「……窓から眺めているほうが、ずっとよかったな」
あたしを抱きすくめながら、間室さんは言った。
「目の前にいるのに、触れないっていうのは、とても辛い」
彼が腕の力を強めるとともに、あたしも腕の中のタオルを強く握った。
「郁ちゃん、こっち向いて」
うながされて、あたしは肩ごしに、間室さんを振り返る。
とても近くに、彼の顔がある。サングラスごしの瞳と、あたしの瞳が、まっすぐに合う。どうしていいかわからずに硬直するあたしに、間室さんが、唇を寄せてきた。
「間室さ……」
その唇は、あたしの唇とも頬とも言えない、きわどいところに触れた。
やわらかい、けれどすこしささくれた唇。それがほんの数秒、あたしに触れる。彼の胸に触れたときとは違う、その熱い感触に、あたしは思わず、そのまま身をまかせてしまいそうになる。
「……ごめん」
けれど彼は、その寸前、あたしから離れた。
「ごめん、郁ちゃん。こんなつもりはなかったんだ」
瞳を泳がせ、狼狽を隠しきれぬまま、間室さんは一歩ずつ後ろに下がってゆく。おろおろと口元に指を寄せるそのしぐさで、あたしはそれが演技だとわかってしまった。
かすかに見え隠れする、唇。それが赤く腫れていることを、彼は隠そうとしている。
「あたしこそ、ごめんなさい……」
けれどあたしには、それをわざわざ指摘することができない。目頭が熱くなるのをこらえて、とっさ顔をそむけた。
「帰ります。もう、モデルがいなくても大丈夫ですよね。バイト代とかいらないので、完成したら、見せてください」
じゃあ。そう言う唇が震える。あたしは間室さんを見ることもできずに、目に付いた荷物だけを手に取り、アトリエから飛び出した。
素肌の上に、カーディガンを羽織る。ボタンを留める指が震えて、あたしは思わず、その場にうずくまってしまった。
涙に濡れる指先を、そっと頬に寄せる。間室さんの唇の感触が、まだ残っている。
あたしは間室さんに触れることができない。
キスはおろか、手をつなぐことですらできない。布ごしじゃ嫌だった。肌と肌で、彼に触れたかった。
けれど間室さんは、あたしが触れると傷ついてしまう。ほんのすこし唇が触れただけで、あんなに腫れあがってしまうのだから。
辛いのはあたしだけじゃない。なにより一番辛いのは彼だ。あたしの肌なんて、彼の辛いことの、ほんのわずかなことでしかない。
白いものすべてがだめ。食べるものも限られてしまう。なによりも、この広い空を、雲を、じかに見ることができない。自分の見たままの世界を満足に描くことすらできない。
「間室さん……」
あたしには、どうすることもできない。
○○○
あたしのもとに間室さんから手紙が来たのは、それから一月が過ぎたころだった。
どうしてあたしの住所を知っているのだろう。疑問に思うけど、それこそ紹介してくれた親戚に教えてもらったに違いない。
『絵を完成させるので、見にきてください』
短い文面の最後に、完成予定日。間室さんはそれしか書いていなかった。ごく普通の五十円葉書にこれを書いた彼の姿を思いながら、あたしはアトリエへと足を運んだ。
いつもの紫色のサングラスをかけて、手には黒い手袋をはめて、彼は手紙を書いたのだろう。そして今日会うときも、彼はまったく同じ格好をしているに違いない。
「間室さん、郁です……」
アトリエに入るとき、あたしは声をかけた。
「……うそ」
そしてそのまま、かたまってしまった。
間室さんはいつもどおり、こちらに背を向けて、絵を描いていた。