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「ごめんなさい……」
「郁ちゃんが謝ることじゃないよ」
シャツのボタンをとじて傷跡を隠す間室さんは、動揺のおさまらないあたしを見て、ばつが悪そうにうつむいた。
「僕のほうこそ、ごめんね。久しぶりに誰かに触ってもらえると思ったら、嬉しくって」
あたしがこんなにうろたえるとは思わなかったのだろう。しゅんと頭をたれて、間室さんは自分の手袋を脱ぐ。握ったり開いたりしながら、めったに開放されない手をいたわっているようだった。
「誰かに触るだけでも大変だからね、人肌が恋しかったんだ。ごめんね」
間室さんが、笑う。いつものははっと吐き出すような笑みに、あたしの手に残る、彼の冷たい肌がくすぶりだす。
「……郁ちゃん?」
気づけばあたしは、彼を抱きしめていた。
椅子に座ったままの彼の頭を、包み込むように胸に抱く。こうすればあたしは肌に触れないまま、彼に触れることができた。
間室さんが、おどろいて離れようとする。ありったけの力で、あたしはそれを阻止した。
彼の身体が冷たいのは、病のせいで、長く人に触れていないからかもしれない。じかに触れてはいけないのなら、こうして服を隔てればいい。少しでも、お互いの体温を感じられれば、そうしたら彼は寂しそうな顔をしないかもしれない。
サングラスの奥の、柔和な瞳。初めて会ったときから、そのあたたかさは消えることがないのに。その奥に潜む、寂しそうな泣き出しそうな感情もまた、消えることがなかった。
彼の冷たい肌が、どうしてこんなに悲しいのだろう。
間室さんはしばらく、困惑した様子であたしに抱かれていた。けれど次第に意図を察したのか、彼もまたあたしの腰に腕をまわし、そっと頬をすりよせてきた。
「……ありがとう、郁ちゃん」
ささやく唇と吐息が、パーカーごしにあたしに触れる。触れ合うところから、彼の鼓動が伝わり、彼の低い体温も伝わってくる。
すこしでも彼を暖めることができればと、あたしは彼の頭を、いっそう強く抱きしめた。
○○
「白いものがだめって言うけど、間室さんの歯は白いですよ?」
瞳を囲む白目だって、『白』と名がつくほど白い。彼の言うことをそのまま考えたら、彼の体を作る骨ですら、毒になってしまうのではないだろうか。
「なんかね、生まれついて持ったものは大丈夫みたいなんだよ。昔はそれですらだめだったみたいだけど、人間、成長するとたくましくなるもんだね」
あたしは決して間室さんを振り向かず、いつもどおり、空を見上げて話をしていた。
抱きしめた一件以来、あたしは間室さんに指一本触れていないし、彼もまた、そのことについて触れてこない。このあいだのことはなかったかのように、またいつもどおりの、画家とモデルに戻っていた。
けれどあたしは、正直、あのときのことを忘れられずにいる。布ごしに感じた彼の体温と、鼓動を思い出すたびに、真剣なまなざしで絵を描く彼の瞳に、自分の心が揺れ動くのを感じていた。
「もうすぐ、絵、完成するんですか?」
「郁ちゃんのおかげだよ、ありがとう」
間室画伯が、これほど早いペースで絵を描くのは珍しいらしい。彼がこうして毎日のようにキャンバスに向かうことはめったにないそうなのだ。
そもそもあたしがはじめて彼の絵に加わったとき、絵の大本はほとんど出来上がっていた。問題はモデルの女性で、その部分だけがいまいちはっきり描かれずにいたのだ。
「ねぇ、間室さん」
「んー?」
「やっぱり間室さんは、キスとかもできないんですか?」
背中を向けているからこそ、できる質問だった。あたしは、赤くなるのが顔だけであることを願う。間室さんが今、どんな表情をしているのかと思うだけで、タオルに顔をうずめたくなった。
「……したことないからわからないけど、どうだろう?」
ややあって、彼はそう答えた。
「彼女とか、いたりしなかったんですか?」
「子供のころから、外出もできなくてほとんど家にいたからね。家の窓から近所のお姉さんを見ているのが初恋だったかなぁ」
それももう、昔の話だけど。苦笑まじりに、間室さんが筆を置いた。休憩のようだけど、コーヒーをいれる気配はない。




