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「僕はいつか、白いもののせいで死ぬんだと思うよ」
まるで他人事のように、あっけらかんと彼は言った。
「子供の頃から比べたら全然いいんだけどね。今でも白いご飯は食べられないし、シャンプーの泡もだめなんだ」
あたしは決して彼のほうを振り返らず、窓枠に体をあずけながら、手持ち無沙汰に胸元のタオルをいじって糸を引っ張り出していた。
「不思議と、色がついたものは大丈夫なんだよ。パンも、玄米とか、思いっきり焼いたものとか、そういうのなら平気」
「じゃあお赤飯なら大丈夫なんですか?」
「そう。おかしいよね」
ははっと笑う声は低いけれど澄んでいて、すんなりとあたしの耳に届いてくる。開け放った窓から吹き込む風。部屋に満ちている油のにおい。たえることのない彼の話し声と、とまることのない手の動き。
彼の視線はあたしのむきだしの背中に向けられ、ジーンズをはいた脚にはまったく興味を示さない。あたしは背中が丸まらないように気をつけながら、外を見つめ続けた。
今日もいい天気。まぶしい太陽に、澄んだ青空。それから、おいしそうな白い雲。
けれど彼は、その白さを受け入れることができない。
「……そろそろ、休憩にしようか」
彼のその言葉で、ようやくあたしは視線から解放された。
「ちょっと時間かけすぎちゃったね。郁ちゃん、身体痛くない?」
「大丈夫です。コーヒー、いれますか?」
僕がやるからいいよ、と彼が言う。その視線が妙に泳いでいるなと思ったら、あたしの胸を隠すバスタオルがずれて、見えそうになっているからだった。
「ごめんね、無理なお願いして。普通の服着てやってもいいんだけど……」
「いいんです。仕事ですから」
素肌の上にパーカーをはおり、あたしも彼に続いて手伝いをする。アトリエにはキッチンがないけれど、水道とポータブルのガスコンロぐらいは置いてある。やかんを火にかけて、ドリッパーにコーヒー豆を入れる彼に言われて、あたしは戸棚からクッキーを出した。
「白いものがだめって言うわりには、砂糖とかミルクもあるんですね」
「コーヒーに溶けると白くなくなるから大丈夫なんだ。さすがに、直視はできないけど」
絵の具がついた手袋を新しいものに変える彼は、常にサングラスをかけている。今日の色は紫で、それは上着のシャツの色と同じ、黒に近い深紫だ。
「間室さんは、やっぱり白い服もだめなんですよね?」
「そうだね、それこそ大変なことになる。……もし結婚式を挙げることになっても、白いタキシードは着れないなぁ」
長い前髪をかきあげ、サングラスの向こう側で、彼――間室さんは目を細めて笑った。
○
間室紡という名の画家を、あたしは今まで知らなかった。
絵画といったらピカソとゴッホの名前ぐらいしか出てこなくて、油絵を描くにはとても時間がかかることや、絵の具に独特のにおいがあることなど、まったくもって知らなかったのだ。このアルバイトしなかったら、あたしは一生、彼のことを知らなかっただろう。
「どうぞ。熱いから気をつけてね」
「ありがとうございます」
アトリエの隅にあるテーブルに、あたしと間室さんは向かい合って座った。
フリーターとしてその日暮らしをするあたしに、このアルバイトを紹介してくれた親戚は、医療関係の仕事をしていた。どうしてそんな人が油絵のモデルなんて紹介してくれるのだろうと思ったら、間室紡本人もまた、医療に関わっている人間だったからだ。
医者や看護師ではない。彼は患者だ。
とても珍しく、今まで見たことも聞いたこともないような、奇妙な体質をしていた。
『僕、白いものがだめなんです』
上から下まで、それこそ手の先まで黒で統一していた間室さんに初めて会ったとき、あたしは最悪にも白いワンピースを着ていた。親戚は間室さんに関することを一切教えてくれず、紹介したあとは関わることもほとんどない。あるといえば、偶然、彼の診察の日にあたしのバイトがぶつかるときだ。
間室紡という画家は、白いものを見ることも食べることも触れることもできない。白いものアレルギー……というよりも、白いものは彼にとって毒であり、刃であり、自分の体を傷つける最大の凶器なのである。
彼はその体質のため、ほとんど外出をせず、仕事という仕事もしていなかった。研究という名目で治療と生活援助を受け、油絵を描くことで日々をすごしているらしい。
「間室さんは……いつごろから白いものがだめだって気づいたんですか?」
「いつなんだろうね。物心つくときにはもう白いものは僕から遠ざけられていたから。でも生まれたときの写真は、ちゃんと白い産着に包まれてるんだよ」
ちなみに今日の下着は黒だけど。そう言って、彼はステンレスのカップに口をつけた。
間室さんのアトリエには、白いものがほとんどない。あるといえばキャンバスや絵の具だけ。棚などはほとんど木製で、小物は青や紫の寒色系。それは彼の住まいも同様だった。
「白いものがだめっていっても、気をつけさえすれば日常生活に支障はないからね。白いものにも色をつけちゃえば、食べられるし着られるし、触れるし。歯磨き粉も石鹸も、シーツの色だって、今はいろいろあるんだし」
けれど何より、彼が困るのは、本業であるはずの絵を描くときだとあたしは思う。