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歴史を取り戻す~先住民ネイティブ・アメリカンの闘い~

作者: 安江俊明

序説 アイデンティティと歴史を取り戻す運動


一九九二年から三年余り、勤務先のアメリカで暮らす機会があり、以前から関心を持っていたアメリカ先住民を訪ねる旅を重ねた。これはその体験記である。

アメリカ合衆国には、連邦政府が認定した先住民ネイティブ・アメリカン五百六十六部族が暮らしている。部族はそれぞれ国家ネーションを形成し、独自の法律の下、議会を運営している。中には部族構成員のパスポートを発行する国家もある。合衆国という国の中に約五百の先住民国家が存在するのである。

一九九四年のアメリカ合衆国人口統計によれば、ネイティブ・アメリカンの人口は、その数約百八十万人。総人口に占める割合はわずかに○・七%である。これに対して白人は全人口二億五千万人の四分の三にあたる一億八千八百万人を占めている。続く黒人の人口は二千九百万人。第三位のヒスパニック系がおよそ二千二百万人である。白人からすれば、ヒスパニック系も黒人も少数派となるが、ネイティブ・アメリカンはそれらと較べても格段の少数派である。

ところが、ネイティブ・アメリカンの人口は、それより十年前の一九八四年と比べて四十七万人、率にして実に三十五・四%も急増している。

他のエスニック・グループと異なり、外国からの移住による人口増がない彼らの人口が何故急増したのか。

これは一四九二年のコロンブスによる「新大陸到達」から五百周年を迎えた一九九二年以降、自らのアイデンティティの確立を目指して立ち上がった先住民が、自信を持ってネイティブ・アメリカンを名乗り始めた結果ではないかと見られている。

さらに、その十八年後の二○一二年アメリカ合衆国人口統計を紐解くと、ネイティブ・アメリカンの人口は、その数約二百五十一万人。但し、この数にはアラスカ州のイヌイットや他の人種との混血も含まれており、総人口に占める割合は、十八年前の統計と殆ど変わらない○・八%である。

これに対して白人は全人口約三億一千四百万人の四分の三にあたる二億三千二百万人を占めている。十八年前の黒人を抜いて第二位となったヒスパニックの人口は四千六百万人。第三位の黒人がおよそ四千二百万人である。


ネイティブ・アメリカンのルーツは比較人類学的な特徴や、最近のDNA鑑定の成果などにより、太平洋を挟んだ北東アジアに辿ることが出来る。

二○一三年(平成二十五年)十一月二十二日付のインターナショナル・ニューヨーク・タイムズによれば、二万四千年前の氷河期に東シベリア・バイカル湖近くに埋葬された三、四歳の男児のDNAを調べたところ、西ヨーロッパ人種のものと一致し、さらにネイティブ・アメリカンのものとも一致したことが判明したという。モンゴロイド(黄色人種)のネイティブ・アメリンは、北東アジアからアメリカ大陸に移動する前に、シベリアまで到達していたコーカソイド(白人種)と混血していた可能性があることになる。

北東アジアから北米大陸へのルートは大きく二つある。ひとつは氷河期に凍結したベーリング海峡を越え、アラスカから入るルート。もうひとつは船で太平洋を越え、北米大陸南端から入るルートである。

北米に定住したネイティブ・アメリカンはそれぞれの自然環境の中で幾世代にもわたり平穏な暮らしを維持して来たと想像される。

 それだけに彼らは自然環境の大切さを人一倍理解し、認識している。

「自然のことなら何でもわれわれに尋ねて下さい」と彼らは呼びかける。いわゆる「文明社会」の中で自然破壊が進行し、地球環境の行方が懸念されている今、彼らから学ぶことは多いのではなかろうか。


しかし、彼らにとって豊かな自然環境と共に暮らした平和な時代は去っていった。

一四九二年、コロンブスの「新大陸到達」に始まるヨーロッパ列強の侵入。さらには一八四八年のカリフォルニアでの砂金発見を端緒としたゴールド・ラッシュ。白人移民らが続々と流入し、彼らは長年住み慣れた大地を追われていった。

白人による搾取は眼を覆うばかりであった。大地を奪い、食糧を取り上げ、命を虫けらのように奪う。

彼らはアメリカ政府により、《リザベーション(居留地)》という辺境の荒れ地に追いやられた。そこには満足な就職や教育の機会もなく、極貧による肉体と精神の破壊が待っていた。彼らは自然と共に生きた大地での生活を根こそぎ失い、人間としての尊厳を奪われたのである。

彼らが、対峙する白人と一時休戦したのは一九四一年、日本軍のハワイ真珠湾奇襲が発端となった太平洋戦争の時代であった。

戦争の勃発により、先住民の鬱屈したエネルギーは白人との共通の敵日本に向けられた。彼らは初めて合衆国市民とみなされ、志願兵として居留地を離れて戦線に加わり、あるいは軍需工場で働いた。白人が先住民の秀でた生活能力や技能を見出したのは、皮肉なことに戦争という過酷な環境の中であった。 

しかし、その表面的な蜜月も、戦争終結と共に終わりを告げる。彼らが留守にしていた居留地は軍事演習の場と化し、日系人の収容所に姿を変えていたのである。

「戦勝の名誉」から疎外され、彼らは戦争前に比べ一層荒れ果てた居留地に再び追い込まれていった。

コロンブスから五百年たった一九九二年に至り、彼らは長年にわたる白人の差別を跳ね除け、自らのアイデンティティを確立しようと立ち上がった。

そして、誤ったインディアンという呼称を拒否し、自らをネイティブ・アメリカンと呼び始めたのである。アメリカ大陸の先住民という意味だ。奴隷制度により「新大陸」で酷使された黒人もこれに倣い、自らをアフロ(あるいはアフリカン)・アメリカンと呼び始めている。

ネイティブ・アメリカンは白人により抹殺されようとしていた自らの歴史を取り戻すため、活動を始めた。歴史を失えば、部族のアイデンティティが消え去るからである。それは部族の死を意味する。

さて、ネイティブ・アメリカンの部族を現在の居住地から非常に大まかに分けると、

①中西部に住むチェロキー、スー各部族。

②東部に住むイロコイ連合と呼ばれる諸部族とモヒーガン・ピコート系部族。

③南西部に暮らす最大の部族ナバホ。プエブロ系諸部族。それにアパッチなどに分類できよう。

 これらの部族を中心に、ネイティブ・アメリカンの歴史を振り返り、北米大陸に生きる彼らの軌跡を辿ってみることにしたい。

 

第一節 女性首長が語るチェロキー族の軌跡


アメリカ合衆国東部十三州に住む白人入植者のために土地を確保し、眼の上のたんこぶである先住民を法の名において荒野に追放しようという「インディアン強制移動法」が一八三○年成立した。その法が適用され、一八三八年チェロキー族がオクラホマの居留地に向けて死の行進を強いられたのである。

わたしはチェロキー族を訪ねて、一九九四年八月末、居留地にあったネーション(国家)の首都タレクワにいた。部族本部の入り口にはアルファベットのCWYに似た「チェロキー語」という意味のチェロキー文字が白くペイントされた褐色の石碑があり、森林に周りを取り囲まれた国家は静寂に包まれていた。その静けさに包まれていると、あの悲劇的な運命をたどった部族のゆかりの地に身を置いているとは、とても想像できない思いがして来る。

歩を進めると、チェロキーの文化と歴史を伝えるチェロキー国立博物館があった。博物館の周りには屋根を樹皮で葺いた丸太小屋が建てられ、造りは窓なしでドアは一箇所のみ、屋根の下に煙を抜く穴が二つ開いているというスタイルである。

これが典型的なチェロキーの住まいという説明だった。小屋の傍には、西部開拓史に登場するような馬車が置かれ、小屋の壁には馬具や工具がぶら下がっていた。

博物館を覗くと、黒光りした重厚な輪転機が眼に飛び込んできた。機械に新聞が掛かったまま展示されている。一八二八年二月にアメリカ先住民が創刊した史上初の新聞『チェロキー・フェニックス』である。先住民が持つ唯一の文字(チェロキー文字)で印刷され、記事は英語と併記の形になっている。

文字を創ったのはチェロキーのセコイアという人物で、一八二一年のことだった。

セコイアは銀細工師であり、白人との交流が多かったため、白人の「アルファベット」に強い関心を抱いたのが「文字創造」の動機となった。

八十五の音節文字で、使いやすく、覚え易かったため、七年後に新聞が創刊されるほどチェロキーの間で急速に普及した。余談ながら、アメリカ西部に自生する常緑針葉樹で、百メートルほどの樹高になるアメリカスギのセコイアは、彼の名前を採り命名されている。

チェロキーは周辺の先住民チカソー、クリーク、チョクトー、セミノールと五大部族連合を結成し、白人の文明を受け入れたことで、「文明化五部族」(Five Civilized Nations )と呼ばれたが、それでも白人との長い苦しい戦いが続くことになる。

一九六九年十一月、サンフランシスコ沖に浮かぶアル・カトラズ島が、先住民の若者らに占拠されるという事件が起きた。そこは昔連邦刑務所があった孤島で、シカゴギャングの大親分アル・カポネが収監されたことでも知られている。当時は厳しい監視体制と島を取り巻く速い潮流で、島からの脱走は不可能とされていた。

 若者の要求は、先住民に対する連邦政府の不当な差別と土地収奪に抗議し、その根本的な是正を迫るものであった。

当時は、アメリカがベトナム戦争の泥沼に陥り、厭戦気分が若い世代を中心に蔓延し、反戦運動が世界的な規模で展開されていた。先住民の武装組織アメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)が、北東部ミネソタ州で旗揚げした時代である。

 それまでワシントンと先住民の間で締結された諸協定には「使われていない連邦政府の土地は、全て先住民が利用できるように返還しなければならない」という条項が盛り込まれていた。

ところが、この条項はことごとく無視されていた。

アル・カトラズ島の占拠は政府に対し、返還されない土地は元々先住民のものであり、約束を履行して土地を返還するように要求したのである。

 意表をついた先住民の若者の行動は、マスメディアに取り上げられ、白人の中にも共鳴者が生まれた。騎兵隊による先住民シャイアン大虐殺を題材に、加害者としての白人を描いた映画『ソルジャー・ブルー』の主演女優キャンディス・バーゲンも、若者を支援するため、ひょいとナップサックを肩に掛けてアル・カトラズ島に渡ったのである。

 島を占拠する若者の中には、後に女性として初めて先住民チェロキーの首長になるウィルマ・マンキラー(Wilma Mankiller)がいた。マンキラーは英語で「人殺し」という意味になるが、チェロキーの言葉では位や肩書きを表す。

一九九五年三月二十八日、ウィルマはニューヨークにあるアメリカ自然史博物館での講演の冒頭で、自らの姓について話し、聴衆を沸かせた。

「ある時、ショルダー・バッグを持って飛行機に乗ろうとしたの。すると、空港職員が慌ててわたしに駆け寄り、制止されたことがあったの。理由を尋ねたら、バッグにプリントされていた「人殺し」が問題だと言うのよ。だって自分の正真正銘の名字だもの。仕方ないわよね。何度かそんなことがあって面倒だったわ」

 わたしも聴講した講演で、ウィルマはチェロキーの歴史と自らの体験を語った。以下は、その要旨である。

 

チェロキーの故郷は、北方のカナダからアメリカ南東部にかけて二千六百キロにわたり続くアパラチア山脈の南部にあります。聖山スモーキー・マウンテンの名はお聞きになったことがありますか。州で言えば、南・北カロライナ、アラバマ、それにバージニアなどに当たります。

一六二○年、白人移民がヨーロッパから帆船メイ・フラワー号に乗って、この大陸にやって来ました。彼らは、慣れない土地で食糧の確保さえままならない時期がありました。我々の祖先は彼らの窮状に配慮して、栽培したとうもろこしを友好の証として差し出したのです。

ところが、白人は苦難から彼らを救い上げたのは、眼前の先住民ではなく、自らが信仰する神、すなわちキリストであると理解したのです。白人の眼からは「食糧を神の代わりに手渡した異様な姿をした蛮人」の存在は消え去り、心では天を仰ぎ、生きる糧を与え給うキリストに対する感謝の念であふれた訳です。

 この時点で、既にその後の大きな認識のズレが生じていました。

 「インディアンはキリスト教徒ではない。従って人間として扱う必要はない」

 そう言い切って、白人は先住民に暴力をふるい、奴隷として酷使したり、殺害したりしたのです。

 運命の神は暴力に加え、病魔という災禍を先住民にもたらしました。ヨーロッパで蔓延していた伝染病を白人が持ち込んだのです。伝染病は免疫のない先住民の間にまたたく間に広がり、多くの命が奪われました。天然痘やペストといった恐ろしい伝染病だけではなく、ヨーロッパの人間なら簡単に治る麻疹はしかのような病気さえ、先住民にとっては致命的な病だったのです。それほど大西洋は、白人がやって来るまでは自然の大きな防波堤の役割を果たしていたのです。

 アメリカ独立戦争でチェロキー国家は、それまでの経緯からイギリス側に付きました。

しかし、チェロキーの村々はアメリカ独立派の攻撃にさらされていたため、独立派と平和協定を結ぶ必要に迫られたのです。協定でチェロキーは、サウス・カロライナなど国家の主要部を白人に割譲することになりました。これに反対したチェロキーは、国家から離脱し、独立派との敵対を続けました。

 イギリスとアメリカ独立派という白人同士の決戦に巻き込まれ、翻弄されていたチェロキー国家は、イギリスが敗退し、アメリカ合衆国が独立した後の一七八五年になって、アメリカと初めての条約を結びます。ホープウェル条約です。これにより、チェロキー国家は合衆国の保護下に置かれることになりました。

又、チェロキーが割譲した残り全ての土地については、別の条約が結ばれ、チェロキーの土地に対する権利が保証されました。

 ところが、その保証はいつの間にか無視され、アメリカ政府は色々と口実をつけては、チェロキーや他の先住民の土地を奪い取っていきました。

 その究極の形が「インディアン強制移動政策」です。その内容は、東部にある先住民国家を当時の合衆国版図の外に追い出し、かつミシシッピ川以西に強制的に移動させようというものでした。

 これを基に「インディアン強制移動法」を成立させたのが、第七代大統領アンドリュー・ジャクソンです。ほら、二十ドル札に肖像がありますね。あの大統領です。

 ジャクソンは一八一二年の第二次英米戦争でイギリスを破り、新大陸からイギリスを撤退させた人物で、アメリカにとっては国民的英雄です。ジャクソンのせいで先住民国家は頼みのイギリスを失い、アメリカが自らの意のままに先住民政策を推進できるようになってしまったのです。

強制移動法の狙いは、合衆国東部十三州に住む白人入植者のために土地を確保することにあり、そのために眼の上のたんこぶである先住民を法の名において、荒野に追放しようというものでした。

 族長ジョン・ロスら当時のチェロキーの指導者は、ジャクソンの後継者となった大統領マーチン・バン・ビューレンに直訴し、チェロキーが自主的にミシシッピ川以西に移動するのを認めるように要請しました。

大統領はこれを認め、一八三八年から翌年にかけて移動が開始されたのです。およそ千三百キロにも及ぶその移動は、後の時代に「涙のふみわけ道」(Trail of Tears) と呼ばれ、関係者の胸に深く刻み込まれることになります。

 ここで、その移動を監視するためにチェロキーに同行したアメリカ騎兵隊の白人兵が書き残した記録をご紹介したいと思います。彼の名はジョン・バーネットです。ジョンは少年時代をチェロキー国家があった聖山スモーキー・マウンテンで過ごしました。チェロキーと慣れ親しみ、愛着を感じていました。ジョンは成人して軍隊に入り、運命のいたずらでしょうか、チェロキーの強制移住に監視役として立ち会うことになったのです。

 

  こぬか雨で体が凍りつく十月の朝。

  私は、彼らがまるで家畜のようにぞんざいに、多数の荷馬車に詰め込まれて西に向かうのを見た。

  追放のふみわけ道には、死の臭いがつきまとっていた。

  夜には窮屈な荷馬車の中で、あるいは火の気のない土の上で体を横たえるだけ。凍る寒さにさらされ、肺炎で次々に亡くなっていった。

  族長の妻で、気高い心を持った婦人も、病で苦しむ子供にたった一枚しかない毛布を分け与え、自らは天に召された。眼が開けられないほど降り続くみぞれと雪嵐の中を、来る日も来る日も荷馬車に揺られ続けた果てに。

  ようやく、半年もの辛くて長い旅は終わったが、スモーキー・マウンテンの麓から、オクラホマの荒野まで、四千人余りの墓が静かに涙のふみわけ道に並んだ。

  チェロキーの人々をこれほどまでに苦しめた全ての原因は、他ならぬ白人の強欲である。


一八六一年、合衆国を真二つに引き裂く南北戦争が起こります。奴隷制に立脚した南部は、強大な北部に対抗するため、チェロキー国家に支援を求めました。族長ジョン・ロスは白人同士の殺し合いに巻き込まれまいと、必死に中立の道を歩もうとしますが、チェロキーの立場は微妙でした。

それは、恥ずかしながらチェロキー国家は奴隷制を認めており、しかも南部に位置していたからです。自らも奴隷を所有していたジョン・ロスは、結局南部と同盟を結んでしまいました。しかし、北部を支持する勢力もあり、チェロキーは再び分裂します。

足かけ五年にわたる戦争は、北部の勝利に終わりましたが、双方あわせて六十二万人余りの犠牲者を出しました。

北部中心のアメリカ政府は、南部を支持したとして、チェロキーなど五部族を罰するため、オクラホマの荒野の西半分を取り上げる協定を受け入れさせました。オクラホマの荒野、インディアン・テリトリーは、白人移民の大幅な増加に対応するため、先住民を集中的に強制移動させる場所に使われていました。故郷を追放されて、やっとたどり着いた地を再び取り上げるというのです。

チェロキーと共に荒野に追いやられた先住民にはクリーク、チョクトー、チカソーそれにセミノールの四部族がいますが、この時代の強制移住とは形を変えた移住政策が、一九五○年代半ばに先住民に押し付けられたことがあります。それは先住民を居留地から都市に移動させるアメリカの政策でした。

私が十一歳の頃、我が家もその政策でチェロキー第二の故郷オクラホマを離れ、サンフランシスコに移住しました。

実は、それが我が家の「涙のふみわけ道」の始まりだったのです。都市に移れば、いい仕事があり、子供は立派な教育を受けることができるというインディアン対策局の役人の言葉を信じた父親が決断したのです。

政府のとった方法は、強制移動の頃と比べますと、はるかに温和なものでしたが、巧みに先住民の固有の文化や伝統を破壊し、白人に同化させようとする手口に変わりはありませんでした。

私はオクラホマを離れたくなかったのです。母親も都市への移住に恐怖心さえ感じていました。でも、出発の日はやって来ました。私はこれで見納めだと思い、家族で住んだ家、まわりの木々の形、森から聞こえてくる鳥や動物の声など全てを記憶に留めて置こうとしました。ひとつでも故郷のことは忘れたくなかったのです。

サンフランシスコに到着しましたが、あいにく空きのアパートがなく、二週間ホテルに足止めになりました。ホテルとは言っても、裏町の古いホテルです。夜になると周辺はネオンの巷となり、けばけばしいドレスを着た売春婦が通りに立ち、男を誘っていました。

故郷では犬、コヨーテ、山猫、フクロウなどの声があたりに木霊こだましていました。全て自然の音色です。ところが、そこでは車の騒音など、耳慣れない音ばかりが飛び込んできます。パトカーや救急車のサイレンは最悪でした。今まで聞いたことさえなかったのです。

ある日、弟と階段のそばに立っていました。すると、そばに人々がやって来て、皆壁の前で立ち止まりました。何をしているのかと様子を窺っていると、突然壁が開き、立ち止まっていた人々が皆壁の中に入っていきました。すると、壁が閉じて人々の姿が消えてしまいました。驚いていると、今度は又壁が開き、別の人々がそこから出てきました。これがエレベーターというものでした。壁の中にあるボックスで、人間が上下に移動するなんて私たちには信じられないことでした。

インディアン対策局は、ようやくわが家の定住先を見つけました。父も近くの工場で仕事に就きました。でも、父ひとりの給料では都会での家族の生活はままならず、兄も一緒に働きました。

私は学校が嫌でした。先生が私の名前を呼ぶと、クラス全員が笑いました。マンキラーは、英語では「人殺し」(Mankiller)という意味になりますが、故郷では何も珍しい姓ではありません。でも、ここでは事情が違うのです。話し方や服装も、からかいの対象でした。それは私が他の生徒よりも貧しいからではなく、違う文化を背負っているからでした。

故郷を離れ、都市にやって来た他の部族の人々が私のまわりにもたくさんいました。精神的な疲労、健康状態の悪化などで皆悩んでいました。全てが故郷の地域社会や家族から切り離され、ストレスに囲まれた都会の生活に身を置いているのが原因だと、後になって知りました。

それでも、私たちが受けた試練は、一八三○年代にチェロキーの先達が遭遇した「涙のふみわけ道」に比べれば、全く大したことではありません。

私たちの場合は、雪嵐の中を何百マイルも歩かされることはありませんでしたから。それに移住はあくまでも自主的なもので、強制された訳ではなかったのです。

しかし、共通点はあります。都会でまとわりついた疎外感は、涙のふみわけ道を通り、ようやくたどり着いた荒野で先祖が感じたであろう疎外感と同じものだったでしょう。

都会でのあからさまな差別は辛いものでした。人種的な偏見を肌で感じたことがあります。ある日、婦人が私たち一家に近寄って来て、突然母を指差して言いました。

「あんたの子どもは、皆黒んぼの子どもだ」

そう吐き捨てるように言うと、今度は母のことを「黒んぼの愛人」と呼んだのです。それは父の肌の色が褐色だったからだけのことです。

いつもは穏やかな母が、凄まじい剣幕で抗議したため、婦人は飛び去るように逃げて行きました。

私たちに偏見を持っている人々は、この婦人のようにあからさまに言うことはなく、私たちのいない所で悪口を言うのです。こんな単純な差別だけではありません。

一八五○年代、すなわちゴールド・ラッシュ最盛期の頃のカリフォルニアでは、大挙して押し寄せた白人移民らが先住民の女性を強姦し、大半を死に至らしめたといいます。妾になるように強要された女性も何千人といました。誘拐されて奴隷に売られた先住民の子どもは、約四千人にのぼります。

先住民はまるで動物のように白人の狩の餌食にされました。

カリフォルニアでは一八七○年まで、先住民の頭皮や切り落とした首に奨励金を支払うという社会があったのです。民主主義を標榜し、自由で夢の地という看板を掲げたアメリカのカリフォルニアで、このような蛮行がつい最近までまかり通っていたことを忘れてはなりません。

 聖書には「全てのものには、最も輝く季節がある」というくだりがあります。私の一番好きな言葉です。アル・カトラズ島を同志と占拠して、先住民に対する差別や偏見と闘っていた若い日の私は、もういません。

しかし、これからも一先住民としての矜持きょうじを持ち、私なりの人生の旅を続けようと思います。

 ご清聴ありがとうございました。


第二節 モヒーガン族長、ウンカスとハロルド


ニューヨーク州南部のハイウェイを東に行くと、東隣のコネチカット州に入る。アメリカ独立最初の十三州のひとつである。ニューヨーク・マンハッタン島とイーストリバーで隔てられた島、ロングアイランドとの間には大西洋につながる海峡が広がっているが、コネチカット側から海峡に流れ込むのがテムズ川だ。何処かで聞いたと思ったら、何のことはない、イギリス・ロンドンを流れる川の名前だ。その河口にある町が、これまたニュー・ロンドンという。帆船メイ・フラワー号でやって来た移民が、新天地に夢を抱いて、新しいロンドンと名付けたのだ。

ニュー・ロンドンからテムズ川をさかのぼると、ウンカスビルという町に出た。この周辺に暮らすのが、先住民モヒーガンである。モヒーガンの語源は「海沿いに住む人」で、移民がテムズ川と名付けるずっと昔から、川が海峡に注ぐ自然の中で暮らして来たのだ。

町の名前となっている《ウンカス》は、モヒーガンの族長ウンカスのことで、その町がウンカスビルと呼ばれている。町のほぼ中心にある埋葬地を訪ねたら、木製の碑が立っていた。説明の文言を黙読した。


コネチカットの地に最初にモヒーガンが定着した時代には、別の先住民ピコートと同じ部族を形成していた。

一六三七年、ウンカスがピコートから独立分派し、モヒーガン初代の族長になった。

一六八二年ごろに亡くなる。


広大な狩猟の場を持ち、強い指導力を発揮したとされるウンカスは、白人移民に対しては寛大であったが、内なる敵がいた。まだモヒーガンがピコートと同じ部族を形成していた頃である。好敵手の名をサッサカスという。一六三一年、サッサカスは族長選挙でウンカスを破り、ピコートの族長となった。

その頃既にヨーロッパ列強は「新大陸」に進出を果たし、それぞれ先住民を味方に取り込もうとしていた。ウンカスはイギリス派で、サッサカスはオランダ派と目されていた。同じ部族は分裂状態となり、言わば列強の代理戦争を強いられていたのだ。その結果、若い戦士らが相次いで亡くなり、白人によりヨーロッパから持ち込まれた天然痘が蔓延して、ピコートの人口は半減するという事態に追い込まれていた。

サッサカスはなおも白人の代理戦争を続けようとしたが、ウンカスが待ったをかけた。

「サッサカスに、トリックスター(悪魔)がとりついているぞ。彼は自分のしていることがわからない」

そう叫ぶと、ウンカスは従者を引き連れて、後の野営地となったヤンティック・フォールという滝の方面へ移動し、ピコートと絶縁した。モヒーガン族の誕生である。

モヒーガンの象徴は《狼》で、「狼族のゴッドファーザー」となったウンカスは族長として、ピコートと対峙する。

ウンカスが手を下すまでもなく、ピコートは間もなく白人貿易商を殺害する事件を起こし、それが発端となり白人移民と衝突して弱体化していった。

ピコートの村が移民の襲撃を受けて五百人以上の部族が虐殺された際、サッサカスは捕らえられ、イギリス側についたイロコイ連合の先住民モホークに処刑されてしまう。投降したピコートは奴隷としてカリブ海方面の島に売り飛ばされたという。辛うじて逃げ延びたピコートは周辺部族の中に身を隠し、同化されていく。

こうして、一時期強大な力を発揮した先住民ピコートの国家は事実上滅んだとされる。

ウンカスは最後の決戦を控えていた。相手は宿敵ナラガンセットの族長ミアントノモである。ニューイングランドを戦場とした先住民の代理戦争で、ミアントノモはウンカスと同じくイギリス側であったが、両者の根深い対立は続いていた。

決戦の日は一六四三年に訪れる。その現場に足を運んだ。

ウンカスビルからテムズ川をさらに遡ると、ノーウィッチという町に出た。郊外にある岩場からしぶきをあげて流れ落ちる滝がある。滝の上から滝壺をのぞき込むと、足がすくんだ。ヤンティック・フォールという名前で、地元ではインディアン・リープと呼ばれている。「インディアンが飛び込んだ滝」という意味だ。

 滝の周辺はモヒーガンの野営地であった。

 当時ウンカスは初代族長として、対立する先住民ナラガンセットの掃討作戦を敢行していた。野営地近くまで接近していたナラガンセットの戦士らは、ウンカス率いるモヒーガンに土地勘のない野営地の中にある滝へと誘い込まれていった。

滝の岩場に追い込まれたナラガンセットは、降伏を恥として、次々に滝が流れ落ちる岩の裂け目に身を投げて、滝壷に転落し絶命したという。これが滝の傍らにある立て札に書かれた行政による一般的なインディアン・リープの説明である。

 ところが、同じインディアン・リープでもモヒーガンの族長ウォーキング・フォックス(歩く狐)のは少々違った。話はこうだ。


モヒーガンの聖地に大きな岩がある。岩の周りは、族長ウンカスが部族と共に祈りを捧げた聖なる場所だ。

北方のナラガンセットはかりごとをめぐらし、そこでウンカスを捕らえようとした。

そして、ある日の早朝、敵は礼拝中のウンカスを取り囲んだ。少数の手勢を引き連れたウンカスは、敵に一撃を加え、ひるんだ隙に迷わずヤンティック・フォールの方角へ逃れた。事態を知ったモヒーガンの戦士はウンカスの救出に急行した。

ウンカスはわが庭のように隅々まで知り尽くした野営地の滝をめざしてまっしぐら。敵は慣れない土地に右往左往の有様だった。

滝に着いたウンカスは滝を飛び越えて、中腹の祭壇のある岩場に着地した。

やっとの思いで滝に着いた敵は、ウンカスの真似をして岩場に飛び乗ろうとしたが果たせず、滝の底へ転落して死んだ。


両方の話とも、敵が滝に飛び込んで絶命したことに違いはないが、歩く狐の話では、「インディアン(敵)が飛び込んだ滝」に、「インディアン(族長ウンカス)が飛び越えた滝」という新たな意味が加わっている。インディアン・リープは、ここで二重の意味を持つことになる。

先住民ナラガンセットの悲劇の舞台となったヤンティック・フォールは、滝のすぐ近くにあるコネチカット州の記念碑によれば、ノーウィッチの産業発展を支えてきた。一六○○年代には既に滝の水力を利用した製粉用の水車が開発され、一九○○年代初頭に至る製糸業、綿業、釘製造という地元産業の基礎が築かれた。

滝は今も静かに流れ落ち続けているが、滝川にかかる廃線の鉄道橋は赤く錆付き、線路には雑草が生い茂っていた。

(夏草や兵どもが夢の跡) 

アメリカで芭蕉の句がふと浮かんだ瞬間だった。

結局イギリスの片棒を担がされたモヒーガンとナラガンセット両部族は、イギリスが黙認する中で激突し、ついにウンカスはミアントノモを討った。

宿敵が相次いで去った後も、ウンカスは宗主国イギリスや周辺部族との間のトラブルに悩まされ、族長として苦悩の日々を送ったという。ちなみにウンカスという名の語源は「円周を描きながらくるくると回る狐」である。

文字通り、運命という円周に翻弄された生涯だった。

モヒーガンの更なる源流を、族長のウォーキング・フォックス(歩く狐)が語る。


「大きなカヌー」(帆船)に乗り、父なる天空の下に広がる母なる大地に白人がたどり着いたのは、ごく最近の記憶だ。

それよりもはるかに遠い記憶の中に、モヒーガンの先祖ピコートが見える。わが先祖は今のニューヨーク・マンハッタン島のハドソン川流域から、はるばるこの地にやって来た。ハドソンを去るにあたり、わが先祖は地元の全ての物を奪い取るという残酷なことをした。それ故に被害をこうむった人々からピクウィン(破壊者)と呼ばれ、さげすまれることになったのだ。それを聞いた白人が、族名としてのピコートを定着させた。ピコートは、もともと破壊者という意味なのだ。

我々モヒーガンは偉大なる族長ウンカスの時代にピコートとたもとを分かち、不名誉な族名を捨てたが、先祖の犯した罪は消えることはない。先祖にも悪人がいたことを創造主の前で素直に認めたい。


 モヒーガンの先祖ピコートが住んでいたハドソン川の流域には、先住民モヒカンが暮らしていた。頭部の真中にだけ毛髪を残す独特の「モヒカン刈」で有名な部族である。

映画『最後のモヒカン』(The Last of the Mohicans)の原作者は、作家フェニモア・クーパーだが、映画の主役は、あのウンカスであった。

 それでは、モヒーガン(Mohegans)とモヒカン(Mohicans)は同じ部族のことなのだろうか。同じ地域に住み、言語体系も同じで、しかも部族の名が酷似している。

 次に登場するモヒーガンのメディシン・ウーマン、グラディス・タンタクイジョンさんは全く違う部族と主張する。

原作者のクーパーが両者を混同し、取り違えたのだという。モヒーガンはピコートと決別して、ウンカスを中心に新しい部族を誕生させた。言わば、その時点から《狼族・モヒーガン》の歴史は始まったのだ。

どうも、グラディスはその点を強調したいらしい。要は部族の将来的視野に立てば、いつの時点で部族のアイデンティティが確立されたとするのかが最も重要なことであり、それ以前のことは全て切り離すのが賢明と考えるのであろう。特に「破壊者」としてのルーツは伏せておきたいのが人情だろう。

 アメリカ先住民のルーツを辿れば、北東アジアから氷河期に出来たベーリング海の陸橋であるベーリンジアを経てアメリカにやって来たことは明白である。

にもかかわらず、創世神話で天空から男女神が大海亀の上に降臨し、その海亀が北米大陸になったと語り継ぎ、北東アジアの出自が隠されてしまっているケースが散見される。彼らにとっては、北米の地がふるさとであり、その時点からのアイデンティティが肝要なのだろう。


*メディシン・ウーマンの姉とサバイバル技術の弟


ウンカスから引き継がれたモヒーガン族の伝統の灯を守り続ける人に出会った。グラディス・タンタクイジョンさんである。

グラディスは一九九二年、九十三歳の時に部族公式のメディシン・ウーマンになったが、幼い頃からそのポジションに就くための準備をして来たという。

一九○四年、まだ五歳の頃、尊敬して「お婆さまたち」と呼んでいた女性たちから、故郷に自生する薬草ハーブの守り神とされる「森に住む妖精」と交流する手法を学んだという。

一九一九年、二十歳の頃からペンシルバニア大学で七年間人類学を学んだ。その後、北東の森林地帯に暮す多くの先住民部族を回り、先住民が教育を受ける機会を得るための情報を提供し、ピコート、ナスカピ、パサマコディー等の部族と暮し、人類学的研究を行った。

一九三七年には連邦政府のインディアン対策局が、彼女を中西部北方に住むヤンクトン・スー族のソーシャルワーカーとして雇用した。続く一九四○年には新設された「インディアン芸術工芸委員会」で、初代の先住民芸術スペシャリストに就任する。 

そして、一九四六年モヒーガン族の「タンタクイジョン・インディアン・ミュージアム」の学芸員となるため帰郷した。

それ以降、部族協議会や先住民のリーダーとして活躍し、大学などから数多くの賞を得ている。

お会いした時に、すでに九十五歳という高齢であったが、肩書きが表すようなエリートぶった素振りはさらさらなく、銀髪で眼はきりりとして澄み、鼻筋に意志の強さこそあるものの、細身に白いドレスを粋に着こなし、ほほ笑みを絶やさない年配女性という感じであった。

姓の「タンタクイジョン」は、モヒーガンの言葉で「韋駄天いだてん」という意味だと教えてくれたが、わたしはそんなに早足じゃありませんと、ほほ笑んだ。

彼女は真に韋駄天の大活躍をしながら、人生を走り抜いて来たことになる。

就任二年となったメディシン・ウーマンとしての彼女の役割は、部族の精神と肉体を癒すための超自然的な能力を持ち、部族全体の将来をビジョン(透視力)で見定め、導くことにあるという。

グラディスは、今は亡きハロルドという弟さんの話をしてくれた。胴の曲がったクルックトというモヒーガン独特のナイフや斧を使うのが得意で、カヌーや家屋を器用に作ったという。

ハロルドは成人して九年間沿岸警備隊員として働いていたが、ちょうどその頃勃発したのが、第二次世界大戦だった。

勇猛な戦士として韋駄天のように大地や森林を走り回った先祖伝来の血が騒いだのか、それともアメリカという国家に忠誠心を抱いたのか、ハロルドは兵役を志願する。

赴任先は原始林が行く手を阻むニューギニア戦線であった。襲いかかる蚊に悩まされながら、ジャングルの沼地で敵国日本の兵隊と闘う日々が延々と続く。その明け暮れの中で、ハロルドの部隊は、本隊からはぐれてしまった。孤立無援で食糧も底をついた時、ハロルドは同じ部隊の白人兵とともに、ジャングル奥地にある沼地に分け入った。

沼の水面をじっと見つめ続けるハロルドを、いぶかしげに眺めていた白人兵だったが、次の瞬間驚いた。水面が泡だった途端、ハロルドの両腕が狙いを定めた鷲のように素早く動き、何かを捕らえた。見ると緑色の大蛙だった。

大蛙はあっという間に首をはねられた。何度か同じことが繰り返され、首なし蛙が部隊の兵隊の数だけ沼地の叢に並んでいた。太い足は食糧に、首は葉に巻かれて翌日の魚釣りの餌となった。残りは全て掘られた穴に埋められた。

 沼地でキャンプの設営を指導したのもハロルドであった。部隊はひたすら援軍の到着を待つ。味方の飛行機が何度も上空を通過して行った。降り注ぐスコールをキャンプで凌ぎ、ハロルドが調達する魚や蛙で飢えを凌ぐ毎日。生き延びるにはそれしかない。あきらめかけた頃、ようやく彼らは発見され、全員無事救助された。

 ハロルドは白人兵から「チーフ」と呼ばれていた。それは、先住民の族長という意味だ。ジャングルという修羅場に不慣れな白人兵らが、いつの間にか尊敬の意味をこめて、彼をそう呼ぶようになっていた。彼らの命を救ったのは、ハロルドが幼い頃から培って来たサバイバルの技術だった。

 戦後ウンカスビルに帰還したハロルドは、部族会議でモヒーガンの族長に推挙される。優れた木彫の腕を持ち、バスケット作りにも長けていた伯父マターガの後継者としての族長就任であった。

 ミュージアムの壁に族長ハロルド・タンタクイジョンの肖像画が掛けてあった。羽毛をあしらい、ひときわ大きな鳥の羽飾りが印象的な頭部。一点を凝視する澄んだ瞳。何事も聞き届けようとする耳。貝細工が際立つ首飾り。裾の長い衣を羽織った右手には、特大の羽が握られている。部族を導く偉大なスピリット(精霊)の使いとされる猛禽の羽であろうか。左肩からは、大輪の花をあしらった文様鮮やかなショールが垂れている。

 一九八四年四月に亡くなった族長ハロルドの晴れ姿である。その勇姿に、モヒーガン初代族長ウンカスの姿が重なって見えた。

 全米各地に住むモヒーガンは総数で四百人ほどだが「毎年夏には里帰りして、歴代族長の墓がある埋葬地に同胞と集うのが楽しみです」とグラディスがほほ笑んだ。


第三節 蘇った先住民の「歴史を取り戻すパワー」


「先住民ピコートが、カジノ収益を新たなゲームに投資。投資先は政界」

 一九九四年夏のニューヨークタイムズ紙一面に掲載された特集記事の見出しである。

 白人移民との抗争や白人が持ち込んだ天然痘の蔓延で人口が激減したピコートは、長い沈黙を破り、不死鳥のように蘇ったのだ。

 ピコートの居留地はコネチカット州フォックス・ウッズ(狐の森)にあり、わたしは早速取材に出かけた。森林地帯の一角にモダンな建物群が並んでいる。

居留地内には巨大なカジノ・リゾートがあり、大勢の白人観光客らがゲームに興じていた。

五つのカジノにその数五千八百というスロット・マシーン。テーブル数三百五十に千四百以上の部屋。二十四のレストラン。スペシャリティ・ショップが十七にゴルフコースと、その施設の巨大さには圧倒される。

合衆国のカジノと言えば、西はラスベガス。東はニューヨーク・マンハッタン島の西にあるジャージィ・シティというのが、これまでの常識であった。

ところが、コネチカットの片田舎にあるピコートの経営するカジノが、一九九五年、全米で最も収益率の高いカジノとして、一躍トップに踊り出たのだ。九四年の推定収益は約九億ドル(当時の円換算で約七二○億円)に達している。

政界への投資は、先住民政策に熱心な議員に対するロビー活動を支援する目的があるが、カジノが生み出す莫大なマネーは、居留地内に先住民歴史資料館を建設する費用に充てられる。

「失われつつある自らの歴史を取り戻し、アイデンティティを確立する」というのが最大の眼目だ。

 九千年以上も遡る部族の狩猟キャンプの跡や部族国家が繁栄した時代の砦跡などの発掘調査が進んでおり、考古学資料の編纂が急ピッチで行われていた。

一九九八年八月十一日にオープンした地上三階、地下二階の博物館と研究センターは、建設費など総コストが約一億九千万ドル(約百五十五億円)で、民族学と古代学のコレクションと映画、ビデオ等によるアーカイブ資料を駆使して、ピコートの生活、文化、自然史を紹介している。

また研究センターはアメリカとカナダに居住するネイティブ・アメリカンの歴史と文化を研究する学者のみならず、一般の利用も受け付ける開かれたセンターというのが売り文句で、年間のビジターは三十万人を数え、全米でも指折りの施設である。

一方、子弟の教育にもとりわけ熱心で、幼稚園から大学まで、教育費はすべて部族が賄う。

 子弟の通う居留地の外にある学園が、九○年代初頭、経営が悪化した。校長が居留地を訪れ、学園に対する寄付を呼びかけたところ、ピコートの部族協議会は即座に寄付を決定した。協議会はその見返りとして、子弟の親が学園の運営委員に就任することを認めさせた。さらに、白人の子弟が圧倒的に多い学園の必修科目として、「アメリカ先住民の歴史」を取り入れさせた。

 ところが、事はそううまくは運ばない。白人の保護者が校長の独断を非難し、糾弾の矛先はピコートに向けられる。

「先住民がギャンブルで儲けたカネの寄付を学園が受けるとは何たることだ。神聖な教育を冒涜する行為だ」

「ピコートの連中はギャンブルのカネで土地を片端から買収して、われわれ白人の住む地域を植民地化しようとしている。彼らは帝国主義者だ」

 過激な白人の主張に、居留地では緊張が走った。

「白人は我々の努力を認めない。何が植民地化だ。帝国主義だ。お前ら白人こそが、我々の聖なる大地を踏みにじって来たのに、よくそんな事が言えるものだ。寄付は中止すべきだ」

「折角、白人社会との交流が始まろうとしている。白人全てがそんなことを言っているのではない。極一部の人間だけだ。大局を見ようではないか」

 結局、校長が粘り強く両者を説き伏せて、新しい取り組みが曲がりなりにも始まった。

 フォックス・ウッズの森は、ピコートから袂を分かったモヒーガンが暮しているウンカスビルから真東に約十キロ離れたところに広がっている。

 居留地の主な建物の入り口には、マシャンタケット・ピコートの国章が掲げられていた。

「マシャンタケット」は繁茂する樹林という意味で、樹林に奥深く分け入り、狩猟生活をしていたピコートの歴史を象徴している。国章には、小高い黒い丘の上に、枝を張った黒い大樹が青空を背にくっきりと浮かび、樹の下では白狐がたたずんでいる。大樹に寄り添う《白狐》はピコートの象徴であり、過去の凄惨な歴史を決して忘れない、という意味が込められているという。

黒い丘のところに族長のシンボルが白抜きされている。代表的な族長ロビン・カサシナモンのものだ。一六三七年の白人移民らによるピコート大虐殺後に族長となった人物である。

 その虐殺から三六○年余りの星霜が流れた今、不死鳥のように蘇った部族が《自らの歴史》を取り戻して、居留地の周りに広がる地域社会とどのような未来を築いていくのか。それはピコートのみならず、多数派である白人の課題でもある。

 ところで、ピコートをはじめ、アメリカ先住民が歴史を取り戻す手段となったカジノ経営の総収益は一九九五年に五十四億ドル(四千三百二十億円)だったのが、二○一二年には二百七十九億ドル(二兆二千三百二十億円)と記録的な伸びを示している。

各部族は歴史を保存する資料館や学校の建設、それに奨学金など、部族の将来に収益を投資する一方で、部族構成員に対しても定期的に利益分配を行うまでになっている。

二○一四年一月現在、全米二十八州にある四百二十以上のギャンブル施設を経営する約二百四十の部族が利益分配を実施しているという。 


第四節 スー族の軌跡


*英雄シッティング・ブルとクレージー・ホース


 アメリカ中西部北方にあるサウス・ダコタ州の町・ラピッドシティは、盆地状の斜面に樹木が点在する静かな町だった。

わたしは、そこからスー族の住むパインリッジ・リザベーション(居留地)を目指した。車を居留地入口にある交差点近くのスーパーマーケットの駐車場に停めて、先ほど通過した教会のところまで戻った。

教会の敷地内にクロス(十字架)の墓が並んでいた。サウス・ダコタからベトナム戦争に出兵したスー族の戦没者を埋葬している。傍らには記念碑が立ち、戦没者のフルネームと星条旗それにスー国家の旗が彫り込まれていた。

折しも、その日は五月二十八日。アメリカのメモリアル・デー(戦没者追悼記念日)の週末であったが、自分たちには関係がない連邦政府の定めた記念日というせいなのか、墓地を訪れるスー族の姿はなかった。

 わたしは戦没者の冥福を祈った後で、居留地に足を踏み入れた。

スーパーの前でスー族の中年女性と出会ったら、いきなりお金をせびられた。観光客なら懐に旅行資金をたんまり持っているとでも思ったのだろうか。

曰く「今朝羊を売った。大事な羊を手放すくらいお金に困っている。タバコ代めぐんでくれ!」と。

余りに唐突で横柄な態度に不快感を隠し切れず、断ったら、「国に帰れ!」と怒鳴られてしまった。金をくれない奴に用はないということなのであろう。何とか気を持ち直して歩き始めた。

パインリッジ・リザベーションは全米で最貧困の居留地といわれる。部族民の何と八十%が失業しており、住宅事情も劣悪で、その三分の一以上で水道・電気が通っていない。  四十歳以上の部族民のうち半数は糖尿病を患い、アルコール依存症を抱えている。

ブラック・ヒルズ(黒い丘)というスー族の聖地に向かった。洞窟あり、森林あり、平原ありと、ワイルドな大自然が広がっている。

 西隣はワイオミング州で、デビルズ・タワー(悪魔の塔)と呼ばれる岩山がそびえている。一九七七年、スティーブン・スピルバーグ監督の映画『未知との遭遇』で、宇宙船が舞い降りるロケ地として有名になった所だ。

デビルズ・タワー周辺は、今や年間四十万人もの人々がバスや車でやって来る一大観光地になっている。

もうひとつの観光の目玉は、ブラック・ヒルズの花崗岩の岩肌に刻まれた四人の合衆国大統領の巨大な顔である。

初代のジョージ・ワシントン、アメリカ独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソン。それにセオドア・ルーズベルトとエイブラハム・リンカーン。

広大なアメリカには、巨大なものがふさわしいと考えたガッツォン・ボーグラムという白人男性が、ブラック・ヒルズにあるマウント・ラシュモアの山肌を削り、途方もない時間をかけて彫り上げたものだ。中でもボーグラムにとってルーズベルトは、パナマ運河の建設を推進した大統領として英雄なのだそうだ。

 彼にとって大統領が英雄なら、スー族の英雄は、シッティング・ブルとクレージー・ホースである。彼らはスー族の名声を生み出した誇り高い英雄として、今も尊敬されている。

ブラック・ヒルズ周辺の平原には昔シャイアン、アラパホ、カイオワ、クロウといった部族が住んでいた。バファローを求めて移動していた狩猟部族である。そのため、ティピーというテントに似た移動用の住居で暮らしていた。

近くに住む部族同士は、それぞれ独自の言語を持っており、お互いの意志疎通が困難なため、スーはシャイアンを「わからぬ言葉を話す人」と呼んだ。それで彼らは言語に代り、共通の「手話」で意志疎通を図っていた。

彼らが肉のみならず毛皮、内臓あるいは角や骨も、全ての部分を生活に利用していたバッファローを、毛皮だけを得る目的のためだけに乱獲したのも白人であった。乱獲は三年間で八百万頭にも及び、バファローはほぼ死滅したとされる。

彼らは生活の基礎を完全に失い、遠く離れたオクラホマ州の居留地に強制移動させられた。狩猟部族が「住み慣れた聖地」という存在の根から、むりやり引っこ抜かれて、狭い居留地に閉じ込められたら、果たして何が出来ようか。彼らは生命力を抜き取られてしまったのだ。

シャイアンとアラパホに対するサンド・クリークの虐殺は触れたくもないほどの残虐性を有していた。

それは一八六四年十一月二十九日、コロラド南東部サンド・クリークに沿った野営地で起きた。

日頃から「インディアンを殺すことは正しく名誉あることだ」という暴言を吐いていたジョン・チヴィントン大佐率いる第一コロラド騎兵隊が、非武装で白旗を掲げているアラパホとシャイアンに対して無差別銃撃を加えたのである。先住民側の戦士たちはバファロー狩に出かけており、野営地には女性と子どもが殆どで、男性は老いたチーフなどわずかしか居なかった。シャイアンとの混血で白人のロバート・ベントは無理やり騎兵隊に案内役として同行させられていた。後の証言で、ベントは次のように語っている。

「女性は自らと子どもを隠すため、必死になって土手の土を爪で引っ掻いて穴を掘っていた。軍隊が近づき、女性らは無抵抗であることを示すために、穴から姿を現した途端に銃撃され、殺害されていった。チヴィントンは狂ったように、『殺せ! どいつもこいつも頭の皮を剥げ! 大きいのも小さいのもだ! シラミの幼虫はシラミになるからな!』と無差別虐殺を命じた。命令通り、殺害された先住民は全て頭の皮を剥がれ、女性は腹を切り裂かれて胎児を引き出されたり、性器をえぐり取られたりしていた。殺害されたインディアンは総数四百人から五百人に上った」

 事後、一時は「先住民討伐」の栄光に包まれたチヴィントンであったが、真相が明らかになるにつれ、猛烈な批判が起こった。当時の米陸軍法務部長は次のように語っている。

「これは卑怯かつ冷酷な虐殺であり、加害者には拭い去れない汚名を着せ、アメリカ人一人一人の顔に恥辱と憤激を塗りつけるものである」

 この大虐殺は女優キャンディス・バーゲン主演の映画『ソルジャー・ブルー』を生み、映画は一九七○年に公開された。白人が先住民の側に立つというこれまでにない描き方をしており、これ以降、先住民を単に悪役として描くことはなくなったと言われている。

白人が次にターゲットにしたのはスー族の聖地ブラック・ヒルズであった。そこに金鉱があることを、誰もが知っていたのである。

その二十年前の一八四八年には、カリフォルニアで金が発見され、ゴールド・ラッシュで三十万人が国内外からカリフォルニアに押し寄せていた。

スーの聖地では一八六八年に協定が結ばれ、白人はブラック・ヒルズに立ち入り禁止となる。

一八七四年には、前年にシッティング・ブルそれにクレージー・ホースと初戦を交えた米軍第七騎兵隊のジョージ・カスターがブラック・ヒルズに立ち入った。目的は勿論金塊である。そして、ダコタで金が発見される。

「ついに輝く財宝発見!」ニュースは瞬く間に白人の間に広まった。

一八七五年、立ち入り禁止の協定を破り、白人の採鉱業者がブラック・ヒルズに立ち入ったため、レッド・クラウドら族長クラスが警告を発した。連邦政府はブラック・ヒルズを六百万ドルで買い取ろうと計画したが、通訳が桁を間違えるトラブルがあり、交渉は決裂してしまう。

 時の米国大統領グラントは「インディアンは全て居留地に移動させろ」と命令を発した。騎兵隊と先住民が激突する日が近づいていた。

一八七六年六月。スー族の一派、ハンクパパの族長シッティング・ブルは、カナダと国境を接した現在のモンタナ州にある山頂に立っていた。

そして、おもむろに聖なる儀式に用いるパイプに火をつけて、祈りの言葉をつぶやきながら、偉大なる精霊ワカン・タンカに向かい、懸命に祈り始める。ワカン・タンカは東西南北など六つの方角のうち、天空を守る精霊である。

「偉大なる精霊よ。どうかビジョン(啓示)を見る透視の力を与えたまえ。そうすれば、お返しにわが身の血潮を捧げよう」

険しい山脈のすそ野には、スー族の盟友であるシャイアン族のテント村が、川沿い数キロにわたり広がっていた。騎兵隊は一万人あまりのスーとシャイアンを、遠く離れた居留地に移動させようとたくらんでいる。

シッティング・ブルは部族民に対し、日頃から警告を発していた。

「我々の存在は、白人が群がり住む大湖に取り囲まれた小島になろうとしている。白人はその小島さえ、湖から放り出そうとしているのだ。許してはならない」

祈りを捧げているうちに、シッティング・ブルの心の眼がビジョンをとらえた。

(青い軍服を着た騎兵隊が、蟻のように隊列を組んで行進して来るのが見える。我々のテント村に向かっている)

祈りを終えたシッティング・ブルは山を下り、サン・ダンスを踊って戦いの準備をするように指示した。

 部族の乙女らはポプラの一種ハヒロハコヤナギの木を切り倒し、キャンプに持ち帰った。そして、枝を取り去り、幹に色彩を施して、敵のシンボルを作り上げた。木がサン・ダ

ンスの広場中央に立てられた。

若者らが木の前に身を横たえる。魔術を司るメディシン・マンが傍らに進み出て、若者の胸や背中にナイフで切り込みを作っていった。そして、血がにじむ切り込みに革紐を通し、その先端の一方を敵のシンボルである木に縛りつけた。

若者らはやおら立ち上がり、サン・ダンスを開始した。踊りで身をよじる度に革紐が肉

に食い込んでいく。苦痛に耐えながら踊り続けると、ついには切り込みが裂けてしまった。

今度はシッティング・ブルが進み出た。手と足は真っ赤に塗られ、両肩には空を象徴す

る青い縞模様が描かれている。彼は大地に腰をおろし、弟のジャンピング・ブルがシッティング・ブルの両腕にナイフを立て、ワカン・タンカに捧げる血を採った。次にキリを使   

って、右腕から皮膚を削り取った。それが百回繰り返され、シッティング・ブルの右腕は甲から肩にかけてずたずたになった。それでも彼は眼の色ひとつ変えなかった。

シッティング・ブルは、全身全霊をスピリットの世界に集中させていた。両腕から流れ

落ちる血が大地に染み込んで行く。流血は真紅の絨毯と化し、精霊への贈り物になった。

 太陽を見つめ、祈祷しながら立ち上がったシッティング・ブルは、サン・ダンスを踊り

始めた。飲み食いは一切せず、太陽が沈み夜になっても踊り続ける。とうとう翌日の昼に

なり、ぶっ倒れた彼はビジョンを見た。

(青い軍服を着た兵隊が、イナゴのようにスー族のキャンプに降り落ちている。兵隊は敗

北感に打ちひしがれ、深くうなだれている。軍帽が落下していく)

 その時、ワカン・タンカの声がした。

(兵隊らは聞く耳を持たぬ。耳のないイナゴのようなものだ。そんな奴らは貴殿にくれて

やる)

失神状態から醒めたシッティング・ブルは、部族が大勝利を収める運命にあることを告

げた。

(兵隊らはキャンプの真ん中に落ち、虫けらのように粉砕されるであろう」

同時に彼は、ワカン・タンカがビジョンの中で述べた警告を部族に伝えた。

「敵兵らは偉大なる精霊からの贈り物だ。殺してもよいが、銃や馬は決して奪ってはならぬ。白人の富に眼がくらんだら、我々の国が呪われることになる。それが精霊の教えだ。わかったな」

それから十日ほど後の夜明けだった。スー・シャイアン連合軍は、川の上流に野営する騎兵隊を発見した。

隊を率いるのは、アパッチ族の闘士ジェロニモの掃討作戦で有名な将軍クルックであった。朝もやの中で野営地は静まりかえっていた。連合軍は物音を押さえながら、丘を下り野営地に入っていった。

突然、騎兵隊と行動を共にしていたショショーニ族の見張りが、野営地の中を馬で駆け回り、危険を知らせた。それとほぼ同時に、連合軍は大音声を上げながら、丘を一気に駆け下り、野営地になだれ込んで行った。攻防は昼まで続いた。

総大将シッティング・ブルの代わりに連合軍の先頭に立っていたのは、スーの一派オグララの族長クレージー・ホースとシャイアンの族長ツー・ムーンズ、それにカムズ・イン・サイトであった。

カムズ・イン・サイトはシャイアン戦士として勇猛に闘ったが、騎兵隊の最前列で馬が撃たれ、落馬する。あっという間にカムズ・イン・サイトを救い上げ、騎兵隊の砲火の前を馬で走り去った女戦士がいた。カムズ・イン・サイトの妹であった。シャイアンはこの戦闘を「妹が兄を救った戦い」と呼んで語り継いでいる。

戦闘はスー・シャイアン連合軍の勝利に終わった。「灰色の狼」とアパッチ族に怖れられた策士クルックは、退却して行った。

連合軍はキャンプのあるグリージー・グラス川沿いに戻り、勝利のダンスを挙行した。

しかし、シッティング・ブルはどこか腑に落ちなかった。

(ビジョンが予言した勝利とは何処か違う。変だ。ビジョンでは敵兵が傷ついたイナゴのように、我がスー族のキャンプの真ん中に降り落ちてきた。しかし、クルックの兵隊は自分らの野営地で敗れたのだ。もっと大きな別の戦いが控えているに違いない。その戦いで我らが勝利するというのがワカン・タンカの声だ)

それから七日が過ぎ去った。騎兵隊の大部隊がスーのキャンプに接近していた。ジョージ・カスターに率いられた米軍最強の第七騎兵隊である。攻め入る騎兵隊に反撃を加えた戦士の中に、十三歳の少年ブラック・エルクがいた。後のオグララ・スーの聖者が当時の模様を振り返る。

 

キャンプの背後から大きな砂けむりが上がり、その中から馬に乗った騎兵隊の兵士が続々と現れた。皆背が高く、がっしりとしていた。兵隊は銃を撃ちながら、すぐそばまで迫っていた。

攻撃に加わっている兄さんが「戻れ!」と叫んだが、ボクは兄さんのそばを離れなかった。

振り返ると、女の人や子どもがグリージー・グラス川の浅瀬を渡り、川向こうに必死で

逃げていた。ボクは大人の戦士と一緒に木に登り、太い枝にはいつくばって応戦した。

スーの大攻撃を受けて、騎兵隊は支離滅裂に撃ちながら逃げ惑っていた。兵士がひとり、

馬を失って呆然としていた。

 スーの戦士がボクの傍らに馬を近付けて叫んだ。

「坊や! 馬を降りて兵隊の頭皮を剥いでしまえ!」

兵士は凄い目でボクを睨みつけていた。ボクは額めがけて弾を撃ち込み、思い切ってナイフで兵士の頭皮を剥いだ。そばにはボクを見届けていたスーの戦士のたくましい身体があった。出陣の時に体に塗る色が汗に光り、砂が腕や胸に纏わりついて、所々から血が滲んでいる。ボクが馬に乗り、姿勢を正したのを見た戦士は、馬にまたがり、砂けむりの中に姿を消していった。

シッティング・ブルは谷間に留まり、戦況を見守っていた。カスターの兵隊は丘の断崖へと追い詰められている。

再びブラック・エルクが語る。


大きな砂けむりが丘を覆っていた。その中を戦士が出たり、入ったりしている。銃声が轟き渡る。鞍だけの馬が何頭も砂けむりの中をうろついている。カスターの騎兵隊は全滅状態になった。シッティング・ブルが全身全霊で獲得したビジョンは実現されたのであった。


米軍最強の騎兵隊を破ったスーの戦士らは、史上初めての大勝利に酔い、ワカン・タンカの警告を忘れて、戦死した兵士の銃や弾薬を奪った。女性も兵士にとどめをさしながら、時計、指輪、現金などを奪っていった。ワカン・タンカはスーの国家に呪いをかけた。その後スーは二度と勝利を収めることはなかったのである。

シッティング・ブルと並ぶもうひとりの英雄クレージー・ホース。

名前は「荒々しい馬」という他に「聖なる、神秘的な、霊感を受けた馬」という意味があると伝えられる。生まれた時、一頭の荒馬がキャンプを駆け抜けたことがあったらしいが、稲妻とともに現れた霊的な馬のビジョンに由来する名前だという。

容貌には著しい特徴があったらしい。なにしろ写真が一枚もないので何とも言えないが、肌は白く、髪は茶色の巻き毛だった。白人の養子と間違えられたこともあったという。

一八七六年の戦闘で、スーの大部族ラコタとシャイアンの連合軍を率いて、クルック将軍の騎兵隊を迎え撃った。戦闘の砂けむりの中から叫び声がした。

「クレージー・ホースがやって来るぞ!」

 敵にとっては恐怖の叫び。味方にとっては百人力のしるしだ。クレージー・ホースはその真只中で、勝利を意味する大音声を上げた。

《ホカ・ヘイ!》

 それに呼応して連合軍が一斉に叫ぶ。

《ホカ・ヘイ! ホカ・ヘイ!》

その叫びは共鳴し、大風が吹きぬけるように轟々と音を立てながら、騎兵隊を恐怖の渦に巻き込んでいった。

白人が「リトル・ビッグホーン川」と呼ぶグリージー・グラス川の戦闘で、茶色い巻き毛のクレージー・ホースは、長い金髪の猛将カスター率いる第七騎兵隊と激突する。カスター以下二百六十一人が敗れ去ったのは、奇しくもアメリカ合衆国独立百周年の年であった。

クレージー・ホースも、後に白人のだまし討ちに合い、命を落とすことになる。


*「先住民の英雄」になりそこねたケビン・コスナー


スーが一躍脚光を浴びたのは、俳優ケビン・コスナーが監督・主演した映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の大ヒットだった。実話をもとにしたこの映画は、コスナー扮する南北戦争に疲れた南軍兵士が、ラコタ・スーと共に暮らすうちに、人間同士のきずなを築き上げていくという話である。

ラコタという言葉は「自然と調和して生きる」という意味で、サウス・ダコタの「ダコタ」の語源となっている。

 コスナーはこの映画をきっかけに、テレビネットワークでも『五百の国家』というタイトルで、全米の先住民国家を紹介した。先住民の国家は合衆国の中にあり、「国の中の国」で、独自の法律と議会を持ち、パスポートまで発行する国家もある。

 ある日、新聞にケビン・コスナーがサウス・ダコタのデッドウッドという町に、巨大なカジノ・リゾートを建設しようとしているという記事が出ていた。しかも、建設用地の一部は、スーが所有権を主張している聖地だった。

居留地に住むスーのアーティストがコメントしていた。

「映画ダンス・ウィズ・ウルブズを観て、コスナーという男はいい奴だと思い込んでいた。しかし、これでは聖地ブラック・ヒルズで黄金が発見された途端に群をなして押し寄せ、スーの聖地を踏みにじった昔の白人らとちっとも変わらないじゃないか」

 ダンス・ウィズ・ウルブズはスーとの人間交流を築き上げた白人に対してスーが捧げた先住民の名前だ。「狼とダンスする人」という意味だが、新聞はそれをもじって「コスナー、今度は悪魔とダンスする?」という見出しがつけられていた。

 コスナーが兄弟で経営するサルーンがあるというデッドウッドに足を伸ばした。

 ラピッドシティから北西約六十キロにある町に入ると、時空を越えて西部開拓時代に入り込んだような錯覚に襲われた。その昔近郊で金が発見されると、ゴールド・ラッシュに沸き、野望を抱く人間が全米から集まり、無法地帯と化した。ブラック・ヒルズの森林も踏みにじられて合衆国の国有林にされ、スーは今もその返還を求めている。


*大虐殺の地ウンデッド・ニーを訪ねて


中西部北方に住むスー族は、南・北ダコタ州に名前が残る「ダコタ族」および「ラコタ族」それに「ナコタ族」という三大部族の連合体である。スー族の支族であるミネコンジュー族が騎兵隊に虐殺されたのが、ウンデッド・ニー ( Wounded Knee)の丘稜地だ。

丘を登って行くと、スーの少年たちがドリームキャッチャーを売っていた。ひとりの少年が英語の説明書をくれたが、それにはレッドマン(赤い人は先住民のこと)の四つの徳として、賢明さ、寛大さ、勇気それに不屈の精神と書かれていた。持ち備えていれば、どれも素晴らしい徳である。この少年たちもドリームキャッチャーを売ることが、将来何かの徳を得るのにつながればいいのにと思った。

丘の頂上には虐殺されたスーの墓があった。

一八九○年十二月二十九日、大虐殺の日は大雪だった。白い雪の上に子どもや女性を含むスーの夥しい血が流れた。墓はフェンスに囲まれ、傍らに教会がある。「聖心カトリック教会」と書かれた表札が、掲げられている。

 墓地には騎兵隊のホッチキス銃で穴だらけにされて殺されたスーの名前が記されていた。

 族長だったビッグ・フット。スポッテッド・サンダー。チェイス・イン・ウィンター。レッド・ホーン。ハイ・フォーク。ブラック・コヨーテ・・・・・・。

 数えたら四十三人の名前があった。墓碑銘から名前を書けるだけ写し取った。

殺害されたスー族はわずか数分の間に二百九十人にのぼり、騎兵隊の兵士も味方の無差別銃撃で三十三人が亡くなった。

何故こんな大惨事が起こってしまったのか。

虐殺の前年の元日は日食であった。大地が闇で覆われ、連邦政府の強制移住策で飢餓状態にあった先住民は「世界の終末が来た」と恐れおののいた。

この状況の中で、西部ネバダ州に居住する部族の預言者ウォボカが、教祖となって始めたのが「ゴースト・ダンス(幽霊踊り)教」である。

信奉者たちは「幽霊シャツ」と呼ばれる聖なる衣服をまとい、死者の霊の歌を唄いながら、男女が手を繋ぎ、くるくると円を描いて回る。

シャツは白人の銃弾を跳ね返し、大草原が白人のやって来る前の状態に戻って、先祖とも再会が叶うというウォボカのビジョン(啓示)は、先住民により熱狂的に支持され、瞬く間に広がっていった。

「幽霊シャツ」に関心を持ったスー族の呪術師キッキング・ベアーとショート・ブルは、非暴力を信念としていたウォボカを訪ねたが、二人には非暴力がうまく伝わらず、ダンスに戦闘的な色彩が加わってしまう。

スーはゴースト・ダンスに熱狂し始め、白人に対する憤りが激しく渦巻くようになった。

一方、白人はスーに怖れをなすようになり、新聞の論調も「野蛮なインディアンが原始的な蛮行を行っている」と警告を発し始めた。緊張が高まる中、ラコタ・スーは熱にうなされたように踊り続けた。

 ウォボカは白人とスーの仲裁に入ろうとしたが、連邦政府はこれを無視した。

「インディアンの狂態の責任は、ラコタ・スーのメディシン・マン、シッティング・ブルにある」白人の非難はスー族のリーダー的存在だったシッティング・ブルに向けられた。

 しかしながら、シッティング・ブルは実際にはゴースト・ダンスに全く関心を示さず、導入には極めて慎重だったのである。

シッティング・ブル逮捕のため、部族警察が遣わされた。

一八九○年十二月十五日、逮捕をめぐり、反対派との間で撃ち合いが起こり、シッティング・ブル殺害という悲劇がスーを襲った。

この事件をきっかけに、連邦政府はスーに徹底的な弾圧を加え、二週間後にウンデッド・ニーの大虐殺が起こったのである。

ゴースト・ダンスの生みの親ウォボカにとっては、先住民の同胞に救いの手を差し伸べたつもりが、その同胞を苦痛のどん底に追いやってしまうという彼にとっての悲劇が訪れてしまった。


スーの少年たちが墓のそばにある、崩れた建物の礎に腰をかけていた。観光客目当ての売り子も開店休業の状態で、時間潰しをしているのだろう。

そこへ、茶色のテンガロンハットを被った白人のおじさんが丘を登って来た。眼鏡をかけ、大きな文字の入った朱色のスタジアムジャンパーを着ている。

 おじさんは少年たちを見つけると、真っ直ぐに近付いて来た。

「君らはここがどんな場所か知っているだろ?」

 おじさんはテンガロンハットを脱いで、英語で尋ねた。白髪が風に揺れていた。

 少年たちは突然現れたおじさんが話しかけたのでびっくりした様子だった。

「ここは君らの大先輩が大勢殺されたところだ。アメリカの騎兵隊にね。この丘の下には、君らスー族のテント村が広がっていた。今はくさむらになっているがね。平和に暮らしていた君らの先輩を、騎兵隊の奴らがマシンガンのようなもので皆殺しにしてしまった。その時亡くなった人々の墓がここにある」

 おじさんは墓地の中に入り、刻まれた墓石銘を岩のような大きな手でなぞりながら、少年たちの方を振り返った。

「君らはこの人々のことをしっかりと心に刻んでおけよ。そして、これからは二度とこんなことが起こらないように、心に刻んだことを後の世代に伝えていくのだ。わかったかね」

 おじさんが微笑んだので、少年たちはほっとした様子だった。

 おじさんはウンデッド・ニーの近くに住むドイツ人だった。白人移民がゴールド・ラッシュで西部にやって来た頃、おじさんの先祖もこの近くに移り住んだという。その辺りには白人でも特にドイツ人入植者が多かった。

イギリスやオランダ、フランス、スペインのように、新大陸に国家ぐるみで進出して来たヨーロッパ勢力とは違うパターンで、辺境の地に住みついたのだろう。

「ここがお好きなんですね」

 おじさんに声をかけた。

「勿論ですよ!」

 元気な声が辺りの空気を震わせた。

 わたしは周りの景色をもう一度見渡した。賭博場の大きな白いテントが荒野の風景の中にぽつんと見える。草原に朽ち果てたジープが一台、静かに時の流れを受け入れている。 墓地から声がして来るような気がした。スーの将来を担う少年たちに向けて。

「同胞の息子らよ。われわれの声をしっかりと受け止めてくれたか。心に刻み付けてくれたか。われわれのことを兄弟姉妹に、将来の妻に、そして子どもらに伝えておくれ」

 地元では大虐殺を心に刻むため、毎年命日に合わせて、スー族の未成年者を含む有志の一団が、ミネコンジュー族が強制移住でたどった順路を騎馬で再体験する雪中行進が行われている。

   

*黒人と共闘したブラック・インディアンズ


ラピッドシティの書店で一冊の本が眼に止まった。

「ブラック・インディアンズ」というタイトルの本だった。

ページを開くとモノクロの写真があった。髪を胸のあたりまで垂らし、長袖の皮の上下服を着込んで丸い胸飾りをつけた無表情な男性が、椅子に腰掛けている。その隣には皮の貫頭衣をまとった女性が立っていた。夫婦なのだろうか。服装はどこから見ても先住民のものだが、顔が黒光りしている。どうも黒人との混血のようだ。ブラック・インディアンズとあるから、先住民であろうが、普通先住民は「赤い皮膚を持った人間」と呼ばれている。一体何者なのか。

 不思議そうに写真を眺めていると、店主らしい人間が近づいて来た。店主はわたしが手に持っている本を見て、頷いた。

「それはセミノールの夫婦ですよ。南東部フロリダの湖沼地帯に住んでいる先住民です」

「先住民なのに肌が黒いですね。どうしてですか」

 不思議そうにわたしが尋ねた。

「南部の黒人のことはご存知ですよね。アフリカから奴隷として連れて来られた人々です。綿花栽培に従事させられ、家畜のようにこき使われました。ムチをふるう悪魔のような主人から逃げることだけを考えていたんです。とうとうそのチャンスがやって来て、集団で逃げ出し、同じ頃フロリダに逃げて来たセミノールと出会い、一緒に暮らし始めました」

「セミノールも白人から迫害されていたのでしょうね」

「そのとおりです」

「と、いうことは先住民と黒人が白人に対抗して共闘したことになりますね」

「イエス。ブラック・インディアンの存在は、共通の敵白人に対抗した黒人と先住民の混血の象徴です」

 わたしはもう一度写真に眼をやった。ケビン・コスナーが出演したテレビ番組『五百の国家』を思い出した。滅亡した先住民もいるが、今でも合衆国には五百もの部族が暮らしている。アメリカという同じ大地にいるが、文化や習慣、歴史はそれぞれ違い、まるでモザイクのようだ。暮し向きもタブーも違う。

例えば最大の部族ナバホには、蛙のタブーがある。蛙など水辺の生き物を食べると、ひどい病気にかかると言い伝えている。でも東部の川沿いに住む部族は、魚を採って暮らして来たし、蛙のタブーはない。

勿論共通点もある。ナバホとチェロキーは悪霊を呼ぶ鳥として、フクロウを嫌う。「夜はフクロウの鳴くところには行くな」とか、「昼間はフクロウを見るな」というタブーを守っているそうだ。フクロウについては他の部族も概ね同じタブーがあると、最近何かの本で読んだ。五百部族という多様性があれば、ブラック・インディアンの存在も頷けるような気がしてくる。

 店主は話を続けた。

「ブラック・インディアンは白人の歴史から抹殺されようとしています。その存在が白人の負の歴史を物語るからです。黒人奴隷も同じことです。だから、黒人の歴史を抹殺しようとしたんです。歴史を奪われた人間は、その存在が見えなくなるからです。黒人の立場からそのからくりを暴こうとしたのがマルコムXでした。マルコムの「X」は、白人が必死になって消そうとした黒人のルーツや歴史を表わしています。マルコムはそれを逆手にとって、『ルーツを消された存在』という意味をこめてマルコムXと名乗ったのです」

「マルコムは黒人のイスラーム組織の活動家ですね。ニューヨークのハーレムで演説中に暗殺されたんでしたね」

「そうです。彼は白人をホワイト・デビル(白い悪魔)と呼び、黒人を差別する白人勢力と徹底的に闘いました。でも、亡くなる少し前に、イスラームの聖地メッカの巡礼に参加しました。モスク(神殿)を訪れた時、彼は驚いたんです。白人やアジアの巡礼者一行がマルコムと同じ神を礼拝している姿を見たのです。神の前では肌の色も何もない。黒人も白人も、それ以外の人間も全て平等なのだということを悟ったといいます。それから彼は人生観が変わりました。皮肉にもそれが暗殺の引き金になったとも言われています」

「この本を書いた人は、ブラック・インディアンの存在を歴史に留めようとしたんでしょうね。白人が消そうとしている存在を」

「その通りです。だからわれわれスーも他の先住民も、白人が消そうとしている歴史を後世に伝えるため、資料を集めて保存し、アイデンティティを守ろうとしているのですよ」

 スー族の店主は同族の運営する歴史資料館のボランティアをしているそうだ。

彼に案内されて資料館を見て回った。小さいが、そこには昔の写真や解説書、生活用具、装飾品、工芸品などが多数展示されていた。

「歴史と言っても、全てがこれらの展示物のようにモノではないですから。サン・ダンスなど部族の伝統的な儀式は形で残すことはできません。儀式は心から心へと伝えるしかないからです。それが伝統というものです。タブーなどにも昔から伝えられた知恵が詰まっていますから、ただ迷信だといって捨て去るわけにはいきません。人の内面にかかわる事柄は、やはり心や精神で次の世代に伝えなければならないわけです。それが教育の役目でしょう」

 取り戻された歴史、保存すべき歴史を将来にわたって継承していこうとする先住民の心意気が伝わって来た。

わたしの目はいつの間にか、広場で繰り広げられているダンスに注がれていた。カラフルな衣裳を身にまとった地元の先住民と、家族でパウワウ(白人と先住民の交流会)にやって来た人々が一緒の輪になって踊っていた。その姿を見ていると、白人との悲惨な歴史ばかりにこだわっている訳にはいかないと思う。眼を覆いたくなる過去を忘れ去ることは許されないが。

「人間が歴史を失えば、その存在が見えなくなる」という店主の言葉が耳に残っていた。


*ホテル「アレックス・ジョンソン」

 

 ラピッドシティに歴史的なホテルがあると聞き、取材に出掛けた。ホテルは町の中心部にあり、屋上に看板があった。Hotel Alex Johnson (ホテル・アレックス・ジョンソン)。  

先住民のコミュニティに、白人の名前のホテルがある。何故だろう。

玄関ロビーに入ると、タイルの壁の色が眼に飛び込んできた。北側が白、東が赤、南は黄色で、西は黒と四色に分かれている。

「随分重厚なホテルですね」

 レセプションに居たホテルマンに声を掛けた。

「創業当時そのままなんですよ」

「創業はいつですか?」

「一九二八年です。大恐慌の直前ですかね」

 わたしはホテルの中を見て回ることにした。壁の色や天井から吊るされているシャンデリアなどがとても身近な感じがしたからだ。

 ホテルマンに尋ねた。

「壁の色が違っておもしろいですね。何か意味があるんですか」

「これはスーの配色なんです。ラコタ・スーの人々は四つの聖なるパワーを持っています。そのパワーの源は四つの方角にあるそうです」

「東西南北ということですね」

「そうです。北壁の白は全てを清める白い雪の象徴で、北の空から降って来ます。東の赤は、『明けの明星』を表わしています。明星は、太陽が昇る東からラコタ・スーに夜明けの知恵を与えるのです。黄色は南から吹く暖かい風。スーの大地に恵みを運んで来る有り難い風のことですね。そして黒壁は雷神のシンボルです。雷は西の空から大地に轟き渡り、スーに苦難に打ち勝つパワーを与えるといいます」

「白は清めのパワー。赤は知恵のパワー。黄色が風の恵み。それに黒は苦難に打ち勝つパワーですか。ところで、このホテルの創業者は白人ですよね」

「そうです。アレックス・ジョンソンというドイツ系アメリカ人です。シカゴ・ノースウェスト鉄道の幹部だった人で、ホテルの創業者にもなりました。一八八二年三月、最初の開拓民として家族と一緒に東部のペンシルバニア州ミーズビルからこの地にやって来ました。ある時、地元の政財界がロビー活動の一環として、当時のカルビン・クーリッジ大統領を夏休みにブラック・ヒルズで接待しようということになり、ジョンソンの出番が回って来ました」

ホテルマンは笑顔で続けた。

「彼は大統領一行や随行取材メディアを、シカゴとラピッドシティの間を往復移動させる陣頭指揮をとったんです。その功績で、その後鉄道会社がラピッドシティにホテル建設をするにあたり、ホテルと食堂車の担当だったチャールズ・ポルトという人物が、ホテルにアレックス・ジョンソンの名前をつけるように進言したのです。創業者になったジョンソンは、元々先住民にとても関心があったので、ホテルには何か先住民の大切なものを織り込もうと考えたのです」

「このホテルのことをもっと教えてもらえませんか」

「いいですよ。今はお客さんもいないですから」

ホテルの前の一角に案内された。

「ここがホテル建設の時、最初に土が掘られた場所です。マウント・ラシュモアに合衆国大統領の顔彫りが始まった頃のことで、聖地ブラック・ヒルズの一角が最初のダイナマイトで爆破されました」

ガッツォン・ボーグラムのことを思い出していた。ラコタ・スーの聖地の岩肌を削り、四人の大統領の顔を刻んだ人物のことを。

同じ時代に、アレックス・ジョンソンはラコタ・スーの遺産を引き継ごうと、ホテル建設を開始した。二人の白人男性のあり方は対照的だ。聖地を汚したボーグラムと、聖地に創造的精神を発揮したジョンソン。

思いに耽っていると、ホテルマンが説明をしてくれた。

「外観をよくご覧下さい。イギリス様式とドイツの代表的な建築方法を合わせて造られています。扁平尖頭アーチが特徴的なイギリス・テューダー様式と煉瓦造りを合わせた外観になっています。建物の上の方を見て下さい。白壁に縦、横、斜めに組まれたチョコレート色のはりが見えますね。あれはドイツ特有の壁です。三角屋根の部屋がいくつか突き出ているでしょう?」 

「なるほどね」

「先ほどご覧になった内部は、地元ラコタ・スーの世界と、同じく先住民であるナバホの装飾が施されています。すなわち先住民族の精神世界です。そして外観はヨーロッパ精神ですから、ホテルはふたつの精神がブレンドされて成り立っているというわけですね。世界中からやって来るゲストが、異なるふたつの精神文化の融合の中でくつろげるようにというのが創業者の願いでした。

再びホテルの中に戻り、見渡すとロビーにある暖炉の上にジョンソンの肖像画が掛けられていた。スーの部族衣裳をまとっている。

一九三三年、ジョンソンは当時のスーの族長アイアン・ホースと名誉兄弟の杯を交わし、族長レッド・スターという名を授けられたという。

暖炉の上にアメリカン・バファローの頭部にそっくりな岩が置かれてあった。ホテルマンが「バファロー」という言葉の説明をしてくれた。

「アメリカのバファローは、バイソン(野牛)なので、水牛とは種類が違います。フランス人探検家がこの地にやってきた時、バイソンを目の当りにして『バフ』と呼んだ。フランス語で牛という意味です。後にフランスと対抗したイギリス人が、先着のフランス人の発音を聞いて『バファロー』と呼び始めたらしいです」

「スーという名前はどこから来たのですか」

「昔スーと敵対したチッペアという部族がいました。スーのことを彼らの言葉で『ナドウェ・イスウィグ(ちっぽけな蛇)』と呼んだんです。白人がその言葉『イスウィグ』を縮めて『スウ』と呼んだのが『スー』の始まりらしいです」

 わたしは改めて、スー族長レッド・スターなるアレックス・ジョンソンの雄姿を眺めた。


第五節 最大部族ナバホ


妻と二人でアメリカ南西部に広がる景勝の地、モニュメント・バレーの旅に出たことがあった。プエブロ先住民居住地の西にひろがるアリゾナ州と北隣のユタ州には、北米最大の先住民ナバホの居留地が砂漠に囲まれて広がっている。

 アリゾナからユタ州に少し入ったところに広がるモニュメント・バレーの一角には、十九世紀以来貴重な交易品であった精巧な絵柄のナバホ織の実演場があった。

見上げると抜けるように青い空が広がり、赤土で固められた丸い「ホーガン」という独特の家屋の中で、ナバホのお婆さんが機織に精を出していた。黒いTシャツに白い長袖の上着を身に付けて、青地に白い花模様のスカートという装いである。

妻は羊の原毛を洗い、草木で染めて紡いだ糸で織の作品を制作している。その目でお婆さんが深いしわのある手でスピンドルを回し、糸に強いよりをかけているのを熱心に見つめていた。天井を見上げると、つむがれた羊毛が様々な色彩に染め上げられてぶら下がっている。

隣の機には織りかけの敷物が掛けられ、地平線を象徴する横縞模様が顔をのぞかせ始めていた。

客人には色々なものを見てもらおうということなのか、お婆さん、今度は縦機たてばたを使って敷物を織り始めた。

ホーガンの内側の壁には敷物や壁掛けの完成品が幾つもぶら下がっている。

「大胆な連続模様ね。色彩がとても鮮やかだわ」

 妻はうっとりした表情で壁掛けを見つめていた。

「ブロードウェイで『蛛女くもおんなのキス』(Kiss of the Spider Woman)っていうミュージカルを見たでしょ。蜘蛛女はナバホの神話に出てきて、ナバホに織物を伝えるのよ」

「蜘蛛が吐き出す糸のイメージが、織物を紡ぐことにつながるのかな」

「そういうことらしいわ」

「それじゃ、このお婆さんは、さしずめ現代のスパイダー・ウーマンといったところだね」

 わたしは織り続けているお婆さんに目をやった。

彼女が暮らすモニュメント・バレーには、赤褐色の隆起したビュート(丘)やテーブル状のメサ(台地)が点在し、ユニークな形状をした奇岩がそそり立っている。入り口にはカイエンタというナバホの町があり、そこからさらに奥に入ると、グールディング・ロッジというモーター・インがあった。

モニュメント・バレーでロケが行われたハリウッド映画の大作『駅馬車』の俳優やスタッフが撮影の拠点としたところで、ジョン・ウェインらの常宿だったという。

 わたしたちはそのモーター・インで泊まり、夜明けを迎えた。

ひんやりとした空気に包まれたテラスに出ると、ビュートとメサが彼方の地平線上にほぼ等間隔で並んでいた。それまで漆黒の闇に隠れていた丘と台地は、地平線に朝陽の光が徐々に増すにつれて、崖に刻まれた深いしわをあらわにしていった。

そして、全体が白く光り始めた。時を忘れてその幻想的な風景に心を奪われてしまった。

太陽が高く昇った頃、ナバホのガイドの案内でランドクルーザーに乗り、モニュメント・バレーを巡った。

そり立った砂岩の丘の麓で車を降り、陽が当たらない窪み状の空間に入ると、ひんやりとした空気が頬をなでた。

「ナバホはこの空間を「風の耳」(Ear of the Wind)と呼ぶんだ」

ガイドが説明してくれた。

風の耳から上に眼を転じると、洞窟状になった天井に丸い穴がぽっかりと開き、青空が見えた。その穴は「太陽の眼」(Eye of the Sun)という。

あたりの砂山には、小動物の足跡が点々と走っていた。

「まだ真新しいな。砂ネズミの一種かな?」

「本当ね」

 砂山を歩いてみた。

「白人はモニュメント・バレーのことを州立公園などと呼ぶが、冗談じゃない。ここは大昔からナバホの聖なる大地なんだ」

 ガイドが砂山から降りて来たわたしに誇らしげに言った。

(このガイドは観光客を案内する度に、一言それを言いたいのだろう)

 そう思い、ガイドの赤銅色の顔を見て微笑んだ。 

起伏の激しい砂地を走っていると、車輪を砂地にとられ、立ち往生している車に出くわした。白人のグループだった。

ガイドはその車の方にハンドルを切った。助け舟を出すのかと見ていたら、彼は白人のそばをエンジンふかして、これ見よがしに素通りしてしまった。

(ここはナバホの庭さ。お前ら白人の運転では歯が立つものか。ざまあ見ろ)

と、でも言わんばかりの態度だった。わたしたちは思わず顔を見合わせた。

 ガイドと出発地のカイエンタで別れ、車でアリゾナ州にあるナバホ国家の首都ウィンドウ・ロックへ向かった。合衆国という国の中に先住民の国がある。

途中、昔のトレーディング・ポスト(交易所)に立ち寄った。今では土産物店に変身している。周辺には牧場が広がり、馬やロバが静かに草を食んでいた。

「時を忘れるわ。こんなのんびりとしたところにいると」

 妻は辺りを見渡しながら、伸びをした。

「ホーガンの中でお婆さんが織っていたような敷物や壁掛けが、昔ここで交易品として並んでいたんだろうね」

「きっとそうだわ。賑わったことでしょうね」

 しばらく行ってメキシカン・ハットというところで車を降りた。古いガソリン・スタンドと数軒の店が並んでいるだけの小さな街だった。先住民ギフトを売る店に入った。

妻が壁掛けを見ていると、ナバホのお婆さんが入って来て、白人の経営者に壁掛けを見せていた。こちらのスパイダー・ウーマンは自作を売りにやって来たらしい。

「こんな荒い仕立てではだめだ。とっとと帰りな」

 主人は眉間みけんに皺を寄せて、怒鳴った。お婆さんはしょんぼりして店を出て行った。

「厳しいもんだな」

「ねえ、売れなかった壁掛けを見せてもらいましょうよ」

わたしらは後を追った。お婆さんは喜んで壁掛けを見せてくれた。

「おいくらなの? これ」

「二百ドル(約二万一千円)」

「なかなかいいと思わない? 少し連続模様がゆがんだところがあるけど、わたし気に入ったわ」

 妻は小切手を切ろうとしたが、お婆さんは首を振った。

「きっとこの辺りには銀行がないんだ。小切手がキャッシュに換えられないんだろう」

「なるほど。じゃあ現金で支払いましょう」

 妻が現金を渡すと、お婆さんは小躍りして喜びを表わした。

「これで孫たちへのプレゼントが買えます。ありがとう」

「そう。よかったわ。お婆さん、お元気で」

 われわれは車に乗り込んだ。

メキシカン・ウォーターという町を抜けると、フォー・コーナーズに出た。

ユタ、アリゾナ、それにニューメキシコ、コロラドという四州のコーナー(境)が合衆国で唯一接している所だ。

《四州はここに神のもと、自由の名において出会う》

と、碑文に書かれていた。

「標語が好きな国だね」わたしは碑文を見ながら微笑んだ。

あたりは平原が広がるだけで、時折砂漠を渡る強い風に四州の旗がたなびき、旗のポールの金属音が響き渡っていた。

ウィンドウ・ロックの中心地には、首都の名前になった「窓の岩」(Window Rock)という岩山があった。岩壁には丸い大きな穴が開き、穴を通して青空がのぞいている。大平原を吹き渡ってくる風が通り抜ける窓なのだろう。

町に入ると、コイン・ランドリーが繁盛していた。大勢のナバホの女性が洗濯物を持って、順番を待っていた。ナバホは移動用のトレーラー・ハウスに住む人も多く、コイン・ランドリーが便利だという。

居留地では酒類は一切禁止だった。アルコールは白人が「新大陸」に持ち込んだものとされ、差別や貧困などのストレスから酒におぼれ、健康を害したり、暴力をふるったりする先住民が増えて、居留地で大きな問題となったためだった。

ついそのことを失念して、立ち寄った店でビールを買い求めようとした。店の主人は、すかさず切り返した。

「アルコールが飲みたいのなら、隣のニューメキシコ州まで行っとくれ。ギャラップという町にバーがあるよ」

 呆れ顔の主人を残し、店を出た。

「グールディング・ロッジでビールを飲んだけど、そう言えば、あれはノン・アルコールだったな」

 あきらめ顔で妻に微笑んだ。

「ナバホを見習って、この際お酒を辞めたらどうなの?」

 妻は笑いながらわたしをからかった。


*ナバホ大移動を内包する創生神話


 ナバホの創世神話には、ひとつの世界から別世界への移動、旅の試練、冒険の数々が登場するが、これらは一体何を示唆しているのであろうか。

すぐに思い浮かぶのは、先住民ナバホの長年にわたる移動の歴史だ。ナバホの言語は、アサパスカ語の系統に属するとされている。アサパスカは北西カナダにある湖の名前で、この系統の言語を話す先住民は、現在北極圏に住んでいる。フパという部族もそのひとつで、極北とアメリカ南西部を結ぶ線上に分散して住んでいる。

ナバホの祖先はまず北東アジアから、氷河期に凍結して出来たベーリング海に架かる橋状のベーリンジア(通路)を渡り切った。そして極北で大氷河に阻まれて長期間留まった後、間氷期になって氷河の狭間に出現した「無氷回廊」を抜けて進み、アメリカ南西部に達したと推定されている。

 いずれにしても、南西部への移住はナバホにとって生活上の劇的な変化をもたらしたに違いない。それは北東アジアから極北にかけての狩猟生活から、砂漠の乾燥地帯での定住生活への大転換である。

 ナバホの生活は激変したが、その言語は純粋に保たれた。

二○○二年に封切られた映画『ウィンド・トーカーズ』には、第二次世界大戦で米軍の機密連絡に使われた暗号としてのナバホ語が登場するが、純粋に保たれた極北の古代言語が《解読不能な言語》として軍用に使われたというのも皮肉なめぐり合わせである。『ウィンド・トーカーズ』のモデルになった「ナバホ・コード・トーカーズ」については、この後詳述する。

ナバホがアメリカ南西部に定住してはるか後、南北アメリカ先住民の運命を大きく変える時代が始まった。

一四九二年、ヨーロッパの大国スペインの意向を受けて、イタリアの探検家クリストファー・コロンブス率いる船団が、本来の目的地であった中国航路を大きく離れ、「新大陸」に漂着する。この後、ヨーロッパから探検家や貿易商、移民らが続々と「新大陸」に夢を求めてやって来た。

 スペインはプエブロ先住民にと同様、ナバホに対してもカトリックの布教を試みた。ナバホは宣教のための集会をうまくすり抜けては、遠くへ出かけてしまう。 

 宗教ミッションと共に、スペインは南西部の砂漠地帯に芋や小麦の栽培法を持ち込んだ。羊や馬も然りである。ナバホは羊の飼育に力を注ぎ始めた。羊毛はナバホの手で紡がれて糸になり、機で織られて敷物や壁飾りとして交易品となった。

創世神話に登場する蜘蛛女は、腹部の突起から糸を分泌して巣を張る蜘蛛の連想から、幾何学的な文様で有名なナバホ織を授ける存在として神話に織り込まれている。


*米軍暗号部隊その過去と現在


わたしたちはナバホ・ネーションの首都ウィンドウ・ロックの北西に広がっている大渓谷に分け入り、ゆるやかに開けた斜面を頂上まで登り、台地の上を歩いてみた。上から峡谷を覗き込むと、足がすくんで来る。巨大な岩柱が谷底から屹立している。キャニオン・ドウ・シェリと呼ばれるその峡谷は、一八六三年、騎兵隊がナバホを襲い、服従させるという部族屈辱の舞台となった所だ。

峡谷には外敵の侵入を防ぐため、高所の岩壁をくり抜いたナバホの住居跡が残り、そそり立つ壁には、笛を吹く人物やトカゲ、蛇行するラトル・スネーク(ガラガラ蛇)などのペトログリフ(岩絵)が描かれていた。

一九七四年、ナバホ居留地の通りを日本人カメラマンが歩いていた。名前はカワノ・ケンジ。キャニオン・ドウ・シェリ峡谷の風景に魅せられ、写真を撮り続けるうちにナバホ居留地に住みつき、既に二年が過ぎていた。

通りがかりの車からケンジに声をかけたナバホがいた。声の主はカール・ゴーマンと言った。

「何処に行くんだ。乗せてやろうか」

 ケンジは大きなカメラバッグを抱え、カールの車に乗った。

この出会いをきっかけに、二人は親しくなった。第二次大戦ではお互いの国は敵同士だったが、今は友人の間柄というのが共通の認識となり、親密さが増していった。

「ケンジ。我々先住民は、第一次大戦以降アメリカが関わった戦争には全て出征したのさ。第二次大戦、朝鮮戦争、それにベトナム戦争にもね」

「それは知らなかったな。だって、ワシントンにあるベトナム・メモリアルの兵士像は白人、黒人それにヒスパニックだけだもの。先住民の兵士の姿は無かったからね」

「我々は少数派さ。下手をすれば、すぐに忘れ去られてしまう。しかし、ナバホは暗号部隊として第二次大戦に参加し、連合軍を勝利に導いた。それだけは絶対に忘れてもらっては困る」

カールは「ナバホ・コード・トーカーズ」(Navajo Code Talkers)と呼ばれる米軍暗号部隊の生き残りであった。

太平洋戦争の初期、米軍は敵国日本に次々と軍事機密の暗号を破られ、苦戦を強いられていた。作戦に大きな支障を来たしていた米軍は、「絶対に解読が不可能な暗号の開発」を目指し、ナバホ語に白羽の矢を当てた。初めは二十九人のナバホが暗号担当として採用され、最終的には四百人ものナバホが南太平洋の最前線に送り込まれた。

一方、ケンジの父親は太平洋戦争当時、日本軍神風特攻隊の指導教官として、南太平洋の前線に赴任していた。

ケンジ自身は、ベトナム戦争のため横田基地に駐留する米軍の黒人兵と親しくなり、横田基地に対する反戦デモを肌で感じていた世代である。

いつの頃からか、戦勝記念日に当時の軍服を纏い、勲章をぶら下げてパレードするナバホ・コード・トーカーズの写真を撮影するようになった。

彼はコード・トーカーズが組織する協会の公式写真家に指名され、間もなく名誉会員に推挙される。

ケンジの心は揺れた。たとえ戦時中とはいえ、父親の敵だった米軍暗号部隊の協会から名誉を授かることについてである。

結局はカールとの友好関係を優先させた。そして、撮り続けたポートレートをまとめて写真集を出版した。写真集には戦線の修羅場から生還したナバホ、戦死したナバホの場合はその家族の肖像が収められている。

キャプションには姓名、軍での所属部隊、転戦地、それに各人のコメントが記されていた。その一部を紹介しよう。


●トーマス・ベゲイ。第五海兵隊。ハワイ、グアム、ティニアン、サイパン、イオウジマ(硫黄島)と転戦。

 

私は戦闘の最前線で、味方の部隊と交信を続けた。迫撃砲や大砲の弾が辺り一面で炸裂し、無性に恐ろしかった。

イオウジマの砂は、灰のように細かい。歩けたものじゃない。砂に逆らいながら重い無線機などを運んだ。修羅場をくぐったが、幸いなんとか生き延びられた。

偉大なるスピリットが守ってくれたのであろう。

両親は昔気質のナバホの人間だった。私が戦地に赴く前に着ていた衣服を儀式に使い、無事の帰還を祈り続けてくれた。


●ロイ・ノタ。第三陸海共同作戦隊。オキナワ、グアム、ブーゲンビルを転戦。


オキナワであやうく味方の米兵に撃ち殺されそうになった。洞窟から出て来た時、日本兵と間違われそうになったのだ。ナバホの顔は、米兵からすれば、アジア系に見える。一緒に洞窟に入った仲間の米兵が、タイミングよく出て来てくれたので事情がわかり、命拾いした。


●サミュエル・サンドバル。第一海兵隊。ガダルカナル、ブーゲンビル、グアム、パルア諸島、エネウェタク環礁、オキナワ。

 

 ナバホの主食は羊と山羊の肉だ。オキナワで野生化した山羊が走り回っているのに出くわした。部隊のうちナバホの暗号班が集まり、山羊を捕らえて屠殺し、その肉を部隊にふるまう宴を開いた。ナバホ以外の連中は、眼を白黒させていた。

 

ナバホの面目躍如たるエピソードだが、最前線で出会った生物にまつわる話を残した暗号部隊員も多い。

日本軍の攻撃にさらされて緊迫する夜の砂浜で、交代で仮眠をとっていたところ、砂ガニに首を撫でられ、恐怖のあまり絶叫した体験。藪の中で何かがうごめき、思わず日本兵だと直感して銃を乱射したら、正体は野豚だったという話。

暗号部隊員ハリー・ベローネ・シニアはイオウジマで戦死した。妻が夫の遺影を抱いて、ポートレートに収まっている。


夫が戦地に行ってしまった後、ナバホ織の敷物を織って家族の生活を懸命に支えて来ました。

夫はとうとう戻って来ませんでしたが、大変思いやりのある人でした。夫の微笑む顔が今でも思い浮かびます。


二○○一年七月二十六日。存命する五人のナバホ・コード・トーカーズが、ワシントンにある連邦議会議事堂に招かれ、アメリカの最高位勲章のひとつである「議会金メダル」を授与された。存在自体を極秘扱いとされ、顕彰されることもなかったナバホ・コード・トーカーズは、ようやく表舞台でその功績を認められたのである。


第六節 アパッチ族の英雄・ジェロニモ

 

アメリカ中西部オクラホマ州。オクラホマは先住民の言葉で「赤い肌の人々」という意味を持つ。先住民自身を指しているのだ。

州都オクラホマ・シティから南西に向かうと、フォート・シルという米軍の駐屯地がある。かつては先住民鎮圧に出動した騎兵隊の拠点であった。

駐屯地の入り口には「野戦用大砲発祥の地」という碑があった。それならば、フォート・シルの辺りは騎兵隊が開拓した土地だったかと言えば、否である。駐屯地の中にある碑文には、かつてこの地に先住民ウィチタの村落があり、その統制のため一八六九年に駐屯地が建設されたとあった。

ウィチタはオクラホマの北にあるカンザスの地にいた先住民で、黄金を求めてアメリカ南西部にやって来たスペインの探検家コロナドが最初に出会ったとされる。

駐屯地建設当時の騎兵隊と先住民の関係を示す資料が駐屯地に展示されていた。


一八三四年、リーベンワース将軍率いる竜騎兵が、オクラホマ東部にあるフォート・ギブソン駐屯地を出発した。目的は南西部に暮らす先住民との接触である。一行は先住民オサージに捕らえられた別の先住民の解放と、駐屯地で開く先住民との和平会議の下準備をする使命を帯びていた。将軍が途中で亡くなったため、竜騎兵はヘンリー・ダッジ大佐の指揮下に入り、フォート・シル近郊で先住民コマンチと出会う。そして、デビルズ・キャニオン(悪魔の峡谷)でウィチタと接触した。


オサージはカンザス、ミズーリ、イリノイという中西部に居住し、先住民スーの一派である。アパッチと並んで日本でも比較的知られているコマンチは当時カンザスにいたが、今はその大半がオクラホマの居留地で暮らしている。

フォート・シル駐屯地の一角に、先住民アパッチのセメタリー(墓地)があった。その中にひときわ大きな墓石がある。幾多の丸石で表面を覆われ、頂に大鷲が胸を張り、羽を広げて屹立きつりつしている。ジェロニモの墓だ。  

わたしは妻と近くの町のスーパーで、あらかじめ買っておいたバスケット入りの花束をジェロニモの墓前に供え、手を合わせた。   

その周囲にはジェロニモの親族や腹心の墓があり、その更に周辺には騎兵隊側について同胞との交渉に当たったスカウトや、騎兵隊員であったアパッチの墓が並んでいた。

駐屯地には合わせて三百人以上のアパッチが、その本拠地であったアリゾナやニューメキシコから遠く離れ、眠っている。その大半は騎兵隊との闘いに敗れ、捕虜となった挙句の客死であった。ジェロニモもそのひとりだ。

しかし、ジェロニモの場合は同じ捕虜と言っても、他のアパッチとは事情が大きく異なっていた。彼は、最終的に捕虜の身となったが、最後の最後まで屈せず、騎兵隊やメキシコ兵と闘い続けたのである。

ジェロニモを激しく駆り立てたのは一体何だったのであろうか。その直接の動機となったと思われる事件が、若き日の彼に降りかかる。

それは南西部の領有をめぐり、新興勢力のアメリカとメキシコが激突し、アメリカに軍配が上がったメキシコ戦争の戦後処理の渦中で起こった。

当時、メキシコ・ソノラ州の東隣にあるチファファ州では、アパッチとの和平を進めようという動きがあった。州当局は彼らを町での交易に招待し、食糧の配給を行った。交易品はアパッチが毛皮、獣皮などを持ち込み、布、ナイフ、装飾品などと交換していた。時にアパッチはメキシコ人開拓者の拠点を襲い、略奪した馬やロバを別のメキシコ人に交易品として売ることがあったが、州当局は見て見ぬふりをしたのである。

ソノラ州の最前線でメキシコ軍の指揮に当たっていたカラスコ将軍は次のように語った。

「一八五○年頃だったか、私は軍を率いて管理区域を無視してソノラからチファファに入り、交易中のアパッチと出くわした。私は戦闘を命じ、アパッチ約二十五人を殺害し、捕らえた約六十人の婦女と子供を捕虜として連行した。チファファの軍司令官は、私の越権行為に激怒して中央政府に訴えたが、政府は私を支持してくれた」

この戦闘で殺されたアパッチの中にジェロニモの妻と子どもが含まれていたのである。

ジェロニモの当時の心境が伝えられている。

「家族の悲報に接し、呆然としたが、族長の命令で故郷アリゾナへと退却した。数日後にやっとキャンプにたどり着いた。そこには子供の遊び道具が残されていたが、我が家のテントと共に焼いた。二度と戻らぬ幸せな日々を思い出させるものは全て焼き尽くした。それ以降静かな生活は消し飛んだ。メキシコ騎兵への復讐を誓い、復讐の炎は我が心に燃え盛った」

メキシコへの憎悪は終生続くこととなる。ジェロニモはこの体験を通して、ある不思議な感覚を得るようになる。それは宇宙の生命力とでもいうものであり、自らを突き動かすパワーとなった。

ある日ひとりで出掛け、家族を思い出して涙を流している彼に、何処からか呼びかける声があった。

「ゴヤクラ! ゴヤクラ!」

その声はアパッチにとり重要な数字である四を踏まえて、四度彼の幼名を呼んだ。その声は次のように聞こえるのだった。


いかなる弾丸もお前を殺すことはできない。われはメキシコ人の銃から全ての弾丸を抜き去るであろう。銃には粉が残るだけだ。われはお前の行方を定め、誘導するであろう。


ジェロニモはその後の戦いで何度も傷ついたが、致命傷を負うことは無かった。声の予言は当たっていたのだ。

アパッチの反撃が始まる。目的地は敵将カラスコがいるソノラだ。メキシコの騎兵隊と歩兵が先手を打って攻めて来た。迎撃の指揮をとったのはジェロニモである。戦士を三日月形に配置して徐々に包囲網を広げ、メキシコ軍を取り囲み、攻撃した。

アパッチにも多くの死者が出たが、二時間に及ぶ戦闘が終わった時、アパッチはメキシコ兵の死体が散乱する戦場を完全に掌握していた。

この戦闘で他のアパッチは満足して戦場を去ろうとしたが、ジェロニモは例外であった。彼は引き揚げようとする戦士を説得し、更なる襲撃へと向かった。

夏が来ると、ジェロニモは再びメキシコに襲撃をかけた。食糧を積んだ幌馬車を襲い、戦利品を持ち帰ろうとした時、メキシコ兵の鉄砲が一斉に火を噴いた。ジェロニモは横腹と眼の近くをかすめた弾丸で負傷した。

それから間もなく、今度はメキシコ軍がアリゾナにあるアパッチのキャンプを襲った。交易のため戦士が出払っている隙を突かれた恰好であった。ジェロニモは傷を癒すためキャンプに残っていた。メキシコ軍の発砲で、婦女子多数と戦士数人が殺害された。不意を突かれたため、ジェロニモは防御する余裕も無く、傷で周りが膨れ上がった眼に弓矢を構え、メキシコ兵ひとりを倒すのが精一杯であった。

メキシコ兵は住居を焼き払い、子馬や武器、食糧を持ち去った。この戦闘での犠牲者に、ジェロニモの第二の妻と子ども二人がいた。彼は再び妻子をメキシコ兵に殺されたのである。

復讐の鬼と化したジェロニモは、メキシコ軍を取り囲み、殲滅する計画を立てる。戦闘の結果メキシコ兵十人が死亡し、残りは退散して行った。後を三十人のアパッチ戦士がメキシコ領内まで追って行った。

このように、メキシコ兵との戦いは、その後もアリゾナとメキシコを舞台に繰り返された。族長・マンガスが虐殺された後も、ジェロニモは一度も族長の地位にはつかず、少数の勇猛な戦士を率いるリーダーとして、宿敵メキシコと闘い続けたのである。


第七節 分裂の危機にさらされた六部族連合


 地平線に向かって真っ直ぐに伸びる一本のハイウェイ。正面にどす黒い帯が突然眼に飛び込んで来た。帯は道路上に湾曲した軌跡を描いている。

「何だろう」

前方に目を凝らすと、白い腹のようなものを放り出した大きな塊が転がっている。大鹿の死骸だ。どす黒い帯は血の跡だった。ハイウェイに飛び出して、車にはね飛ばされたらしい。ハンドルを切ってけ、通り抜けた。

 しばらく行くと、ニューヨーク州西部の町、サラマンカの標識が見えた。

真冬のりんとした木々の間から、陽光がハイウェイに差し込んでいる。ランプウェイから町に入っていった。人気はなく、コロニアルスタイルの家並みが続く。

 野ざらしになった赤いボディの蒸気機関車が眼に止まった。

「セネカ・ネーションにようこそ」という文字がボディに光っていた。先住民セネカが暮らす町である。

 蒸気機関車の傍らに図書館らしい建物があった。セネカ・ネーション・ライブラリーとある。チャイムを押すと、白人女性が現れた。地元商工会議所の職員パメラ・レイピーさんだった。

「折角来られたのに残念ね。今日はベテランズ・デー(退役軍人の日)の祝日で図書館も、お隣の美術館もお休みよ」

 レイピーさんは気軽にサラマンカの町を案内してくれた。

「この町は合衆国の中で、唯ひとつ先住民のリザベーション(居留地)の中にあるの。市民はセネカの国家から土地を借りて家を建て、賃貸料を支払っているのよ」

 セネカは一五七○年頃、周辺五部族と「イロコイ連合」という組織を結成したことで知られる。イロコイ (Iroquois) は先住民のことばでガラガラ蛇のことで、六部族はそれぞれ国家を結成し、その連合体が「イロコイ連合」だ。

その伝統的な住まいは「ロング・ハウス」と呼ばれ、鷲や狼の名前を持つクラン(氏族)毎に、フットボール球技場よりも「広くて長い家屋」に住み分けていた。東西に入り口を持つ、樹皮で覆われた楕円形の家だ。

ニューヨーク州西部にあって、昔は東西にひろがる大地に暮らしていた六部族は、今はひっそりと肩を寄せ合うようにそれぞれの地域で日々を送っている。

大地をロング・ハウスの広い床に見立てて、東西を鳥瞰すれば、太陽が沈む西の入り口を守る門番役がセネカで、太陽が昇る東の門を守るのがモホークである。その真中に、西から順にカユガ、オノンダガ、オネイダが暮らす。後に連合に参加したタスカローラはロング・ハウスの南方に住む。

 レイピーさんが言う。

「居留地では仕事の場が少ないの。だから、居留地にカジノを建てて、その収益で消滅寸前の先住民の歴史を保存する資料館を作ろうという意見が、セネカの族長から出たのよ。何故なら、セネカと同じイロコイの部族、オネイダがそうしているから。でもね、ここは静かな町で、教育環境もいいわ。カジノなんか作れば、環境が悪くなるでしょ。ここから西に行けば、カナダとの国境が近い。そこにあるナイアガラの大観光地ならカジノも似合うかも知れないけど、ここはダメ。結局カジノ建設の話は議会が否決し、つぶれちゃったわ」

 町には国家直営のスモーク・ショップ(煙草屋)とガソリン・スタンドがある。セネカ・ネーションは周りのニューヨーク州から「独立」しており、煙草とガソリンに対する高い州税は免除されていた。そのため市価の半値以下で買えるため、わざわざ遠くからでも居留地に金を落す住民が少なくない。周りの白人業者も黙っていない。そのうちに燻り続けていた不満が爆発した。

「先住民の居留地は余りにも優遇され過ぎだ。これは死活問題だ」

白人らは当局にねじ込んだ。

 州政府も強硬な白人業者の要求に態度を変え、居留地内も課税対象にする決定を下したのである。

 居留地内のスモーク・ショップには、その決定を報じる地元紙の記事が張られ、先住民が課税反対の狼煙のろしを上げていた。

 町の大通りに「セネカ」という名前の劇場があった。

《ボブ・ルチア・ビッグバンド来演。金曜夜八時、当劇場にて》

地方興行の発信基地である劇場の前を通り、歩道上を見ると夥しい数の煙草の吸殻が落ちていた。幕間に観客が外で吸ったのであろう。課税後は、吸殻の数も多少は減るのであろうか。


*イロコイのルーツとモホーク族


北米大陸東部のカナダからアメリカ合衆国南東部まで、全長約二千六百キロにわたってアパラチア山脈が連なっている。最高二千メートルを越える山が聳える山脈から枝分かれした無数の峡谷が百キロの幅で走り、平原に向って川が流れ出している。

イロコイ先住民は、そのうちニューヨーク州北部の山岳地帯およびその周辺の平原に住んだ人々のことである。人間の指のように細長い十一のフィンガーレイクスが南北に並ぶ周辺地域でとうもろこしを栽培し、主食としていた。

イロコイのルーツは一体何処に辿れるのだろうか。

はるか一万数千年前に、北東アジアから凍結したベーリング海峡を渡り、北米大陸に到達したモンゴロイドという説が有力だ。

アメリカ先住民の幼児にはモンゴロイドの特徴である蒙古班モンゴリアン・スポットがあることもその根拠のひとつとなろう。幼児期のみに見られる尻や腕の青いアザである。

凍結したベーリング海を越えた彼らは、アラスカあたりで何度も氷河に道を阻まれ、長期にわたって足留めを食ったが、その後訪れた間氷期に氷河の間に出来た「無氷回廊」を通り抜けて、アメリカ北東部の森林地帯に到達し、定住したものと見られる。

運命共同体としてのイロコイ連合は、「新大陸」と呼ばれた大地の東部に住んでいたため、一六二○年にメイ・フラワー号でヨーロッパ大陸から大西洋を渡ってやって来た白人移民らと最初に接触することとなる。

初期に出会った白人の中には、ニューヨークがまだニューアムステルダムと呼ばれた頃、マンハッタンを拠点として商売をしていたオランダの毛皮商人がいた。彼らはマンハッタンの西側沿いを流れるハドソン川の水運を利用して北上し、イロコイがもたらす毛皮を手に入れて、本国で売りさばいた。

 その後ヨーロッパ各国から新天地を目指す白人移民が増加の一途をたどり、イロコイ六部族の運命は大きな変容を遂げることになった。

 アメリカの独立戦争が展開された十八世紀後半になると、オネイダとタスカローラがジョージ・ワシントン率いるアメリカ独立軍側についた。

一方セネカ、カユガ、オノンダガ、モホークの四部族はイギリスを支持したため、イロコイ連合は分裂の危機にさらされた。四部族は戦火を逃れ、カナダへと移動したが、その後あくまでもイギリスを支援するモホークを除き、アメリカに戻って独立軍側に立って戦った。

分裂の危機から連合を守り抜いたのは、ちょうど地理的に六部族の真ん中に位置したオノンダガと言われている。オノンダガは仲介役として、その後も一目置かれる存在となった。

オランダ毛皮商人の基地となったマンハッタン島にも先住民が居た。島の名前に部族名を残したマナハッタ族である。

彼らは突然船で現れたオランダ人に対し、わずか二十四ドル相当の装飾品と引き換えに島を売ってしまう。土地を所有するという概念が希薄であったのであろう。島を売却したという意識も薄かったのかもしれない。

とにかくオランダ人は島を独占支配する立場となったのである。それが新天地アメリカにおける新しいアムステルダムすなわちニューアムステルダムの起源である。オランダは新しい拠点を築き、毛皮貿易で富を得ていく。

そのオランダからマンハッタンの拠点を奪い取ったのはイギリスであった。一六六四年、イギリスは国王の弟ヨーク公の名前をとり、拠点をニューヨークと改名した。

それから三百年余りたった二○○一年九月十一日、そのニューヨークで史上稀に見る大事件が起きた。テロ攻撃によるワールド・トレード・センターの崩壊である。マンハッタンが世界に誇った大摩天楼の一角が一瞬のうちに消滅したのだ。

その昔、マンハッタンで天をも凌駕りょうがしようという超高層ビルの建設がはじまった頃、眼がくらむような高所の工事現場で建設労働者として抜群の活躍をしたのが、イロコイ連合のモホーク族だった。険しいアパラチア山脈の森林地帯で暮らしたモホークの天才的な登攀とうはん能力が、大摩天楼の建設に、一役も二役も買ったのであった。

一七七六年、アメリカ合衆国が独立した頃、イロコイの中で唯一イギリスを支持したモホークは、合衆国とカナダの国境を流れるセント・ローレンス川をはさむ地域に定住していた。カナダ側にはモントリオール市がある。豊富な水量を誇り、美しく悠然と流れるセント・ローレンス川一帯は、農業や漁業に最適の地であった。

ところが、第二次大戦後になると、工業化に伴う川の汚染が進み、環境破壊が始まった。自然の楽園が一変し、カナダと合衆国で最も汚染された地域に転落してしまった。モホークの再三の抗議にも拘らず、その後も環境破壊が進行していった。

一九九○年、業を煮やしたモホークは立ち上がり、武装闘争を展開したため、カナダ・アメリカ両政府の軍事介入を招く事態となった。

マスメディアは死者まで出したその紛争を「モホーク版南北戦争」と名付け、騒ぎ立てた。

しかし、その対立をもたらした真犯人は、長年にわたり少数派モホークの居住環境を侵し続けて来た多数派の白人だという事実を伝えるメディアは殆どなかった。

非常手段に訴えた彼らの行動は、結局武力によって鎮圧されたのである。人間として暮らす環境を、国境地帯定住後再び白人に踏みにじられたモホークの怨念は深く、その後も政府権力との対峙が続いている。

それを裏付けるかのように、現在の居住地のひとつ、モントリオール市の銀行の壁に、黒のスプレーで大書されたスローガンを見つけた。

(モホークは絶対に負けない。必ず闘いに勝利する!)


*オネイダ族~ギャンブルで歴史を取り戻す~


 南端にワトキンス・グレンという小さな町があるセネカ湖は、フィンガーレイクスの中でも一番深くて面積が広い湖で、町を走り抜けるハイウェイが丘を上り詰めた時にその姿を現わす。ハッとするほどに透明度が高く、湖に向かう斜面を利用して、ワイン作りが盛んだ。試飲ができるワイナリーに立ち寄ると、クルマで乗りつけた客がダース単位でワインを買い込む姿が見られた。人間の指のように細長く南北に伸びる湖に沿って、北端の町ジニーバに向かうと、牧場の冬支度が始まっていた。

 湖を渡って来る風が裸樹の枝を揺さぶるジニーバの町を過ぎると、ニューヨーク州を東西に貫く大幹線、ニューヨーク・ステート・スルーウェイに入る。大動脈は隣のマサチューセッツ州まで続いている。

先住民オネイダが暮らす国家は、大幹線から分岐した道路を下ったところにあった。

国家の中心に真新しい木造の文化センターがある。駐車場の奥にはビンゴ・ハウスが設けられ、公開中という看板が掛けてあった。中を覗くと、大勢のオネイダや観光客がゲームに熱中している。その売り上げで文化センターが建てられたという。  

何故文化センターなのかと問うと、白人に奪われた歴史を取り戻し、部族の伝統を子孫に引き継いでいくためだという。

カジノやビンゴという賭場の運営は、そのままでは失われていく部族の歴史とアイデンティティを子孫に確実に手渡すための手段だというのだ。彼らはその資金をもとに、子弟の教育に力を注いでいる。

 賭場がある国家の周辺を眺めると、白人家庭が多い。オネイダは地域の少数派であり、多数派の白人から見れば、ギャンブルで得た資金を教育に投資するという考え方は素直に受け入れられない。白人は大いに批判的だ。

 しかし、与えられた居留地内にはさしたる産業もなく、雇用の確保もままならない現状では、先住民にとって賭博が生み出す資金は他に代えがたい存在である。

 文化センターの中には美術館やギフト・ショップと並び、子どもたちの学習室があった。壁には日常使う英語の単語と部族の言語であるオネイダ語との対照表が掲げてあった。

鶏肉は、チキン(英語)=キトキト(オネイダ語)

とうもろこしのスープは、コーン・スープ(英語)=オラーナ(オネイダ語)等々。

失われつつある部族固有の言語を守り、必死で子どもたちに継承しようとしている意気込みを感じた。

 室内には、オネイダの伝統的民族衣装や獣皮の靴、羽飾り、儀式に用いるシンボルをあしらったワッペンなど、部族の遺産が丁寧に木製ケースに収められていた。

 模造紙に書かれているオネイダ語の文章に眼がとまった。

(オスカナハ・ツイ・スワタ・ティヘ)

果たしてこの音の連続は、何を意味するのか。英語訳を見た。

(われわれ(オネイダ)は内なる声で話す)

「内なる声」とは一体何のことなのか。

英語の音節を基礎に独自の文字を編み出した先住民チェロキーを除けば、アメリカ先住民は文字を持たなかった。文字が発明される前の段階では、話ことばがコミュニケーションの中心だった。

それを「外なる声」とすれば、「内なる声」とは、音声を伴わない意思や感情の伝達方法である。ことば以外の身振りや眼の動き、顔の表情、手や足による合図、体の部分を指し示すといった非言語コミュニケーションのことだ。

 翻って、文字を持たなかったアメリカ先住民が、文字で物事の内容を定める「契約書」を理解しなかったことは容易に頷けるところである。ヨーロッパから押し寄せた移民ら白人勢力は、アメリカ先住民から土地を奪うため、契約書を悪用した。白人にとり都合の良い内容を文字で書き込んだ契約書を見せられても、先住民には理解不能である。

その代わりに、先住民は「内なる声」と話ことばで意思を伝えようとし、契約書を差し出す白人の話ことばを信じようとした。

先住民にとって、「内なる声」と話ことばは、白人にとっての文字による契約と同等の重い意味があったのである。

しかし、白人にとっては「口約束」など論外であり、先住民が「文字さえ読めぬ蛮人」なのは好都合とばかりに、文字による契約を押し付けたのである。

白人に土地を差し出し、共に分かち合おうとする先住民の友好の意志を示した「内なる声」を理解しないまま、通訳を介した話ことばを無視して、白人は先住民が先祖から引き継いだ聖なる土地を「契約書」を楯に、次々に騙し取っていったのだった。


*北米大陸になった海亀と交流会パウワウ


ニューヨーク州ハウズ・ケーブにあるイロコイ・インディアン・ミュージアムを訪れた。彼らの創世神話や生活における男女の役割を知るためである。男女の分担はこう説明されていた。


 男の世界は森の中。狩猟が終われば交易へ。

 女の世界は村の中。栽培するのは豆、かぼちゃ。

 もひとつ大事なとうもろこし。

 族長決めるの、忘れるな。


 女性の役割のひとつに族長の任命がある。族長は男性が圧倒的に多いが、それを選ぶのは基本的に女性なのだ。

 男性は結婚すると妻の住むロング・ハウスに移り住む。男が持つ武器や衣服などを除き、ロング・ハウスも含めてイロコイ社会の全ての物は女性の所有である。典型的な母系社会だ。

イロコイの創世神話には男神と女神が登場する。


男神と女神が天空から一緒に、海を泳ぐ大海亀の背中に舞い降りた。

 すると、大海亀は、あっという間に大陸になった。


 イロコイをはじめ、アメリカ先住民は北米大陸を海亀のタートル・アイランドと呼ぶ。部族の創世神話には、しばしば海亀が登場する。自由に大海を泳ぎ回る海亀の姿は、新しい世界をもたらした使者として神話に織り込まれている。

ミュージアムの広場で、先住民と地域住民とのパウワウ(交流会)が開かれていた。海亀に扮したイロコイの青年が、太鼓と朗誦に合わせてダンスを踊っている。海亀に成りきろうとする気迫が窺える。

先住民にとってダンスは交流のためのエンターテインメントという側面も勿論あるが、はるかに精神的な意味合いが濃い。

ダンスのステップや動作、身にまとう衣裳や装飾の一つ一つが彼らの精神的な伝統や創世神話の内容と密接につながっているのだ。ダンスは彼らの内なるスピリットを表出させる媒介の役割を果たすという意味で、部族社会の儀式として重要な位置を占めている。

次のような先住民のアニミズム的な世界観もダンスに織り込まれている。


人も石も樹も、全てが創造主から賜ったもの。食糧とするために仕方なく殺す動物の身体は隅々まで使い切る。それが、共生する動物に対する思いやりだ。肉は食用に、毛皮は寒さを防ぐ服や家屋の覆いとなる。つのにはとうもろこしのスピリットを象徴する儀式用のオブジェを彫る。胃袋は鍋に、膀胱は水筒に使うのだ。


創造主に語りかけるイロコイの長老の言葉に耳を傾けてみよう。


 創造主よ。どうか、か弱い私に力をお貸し下さい。

私の手があなたの創造されたものに触れて、感謝し、敬うことができますように。

私の眼がどうか夕陽の美しさを感じられますように。

 そして、耳があなたの御声を聞き取れますように。

 木々の葉の一枚、一枚に、また一個、一個の石に秘められている教訓がわかりますように。

私の精神があなたの御前に出ても恥ずかしくないものかどうか、どうぞお教え下さい。


 パウワウは元来狩猟や戦争の前に、創造主の加護を求めて発せられた言葉や踊りの儀式のことであったが、今では先住民が地域に住む白人や他の先住民と交流する場のことを指している。部族によっては、ヒーリング(癒し)の役割を果たすメディシン・マンを指す場合もある。

 パウワウの会場をのぞいてみよう。

中央にある広場では儀式としてのダンスが舞われ、その周辺には色々な出店が軒を連ねている。革や布の衣類、モカシン(鹿皮)の靴、馬上の先住民やバイソン(アメリカン・バファロー)などが描かれたベルトのバックル、儀式用道具類、絵画、クラフト、アクセサリー、壷類、食料品等々。丹念に見ていくと、品々から先住民の世界観が垣間見えて来る。

 例えば、最近では日本のアメリカ先住民ショップでもよく見かけるようになったドリームキャッチャーは、「夢をからめとる」用具だ。

円形の枠に蜘蛛の巣状に張り巡らされた仕掛けがあり、枠からは羽飾りが垂れている。この用具は寝室の窓辺に置かれ、眠っている間に見る夢はすべて蜘蛛の巣にからめとられる。良い夢は蜘蛛の巣の中心にある穴に入る道を知っているので、そこから入り、羽飾りに留まる。

悪い夢は蜘蛛の巣に引っかかったまま、翌朝の太陽の光に焼かれ、消滅する。羽飾りに留まった良い夢だけが、羽飾りが指し示す母なる大地に還元されて蘇り、再び見ることが出来るという。

 大きいものが三百ドル(約三万二千円)ほどで売られていたバイソンの頭蓋骨は、アメリカの著名な女流画家ジョージア・オキーフお気に入りの絵のモチーフである。

彼女は晩年南西部のニューメキシコ州に住んだが、ある日二階のアトリエで花を生けていた。ドアのベルが鳴ったので、一本の花を手に持ったまま一階へと下りていった。ドアを開けるため、その花を何処に置こうかと辺りを見渡した時、壁に掛けられたバイソンの頭蓋骨が眼にとまった。オキーフはためらわず、空洞になったバイソンの眼穴に花を差して、ドアを開けたのである。

 それ以来、オキーフの絵にバイソンの頭蓋骨の眼穴に生けられた花が登場するようになった。散策中に砂漠で拾ってきたバイソンの頭蓋骨と、それまで彼女の主要なモチーフであった花が結びついた瞬間であった。

 とうもろこしのハスク(外皮)は売り物ではないが、人形作りの材料となる。ハスクを器用に折り曲げて糸で結び、首や腕、胴体が先住民の手で作り上げられていく。コーン・ハスク・ドールと呼ばれる人形作りを学ぶのは白人の子供だった。

教室から野外に出ると、広場で歌とダンスが始まっていた。

イーグル(鷲)やレイブン(大烏)の装束を身に付けた踊り手が、鳥の所作を繰り返しながら鳥に同化していく。自然という共同体の中で、人間と鳥が溶け合っている。別の踊り手は蝶になり、動物になる。先住民の宇宙観がダンスという行為を通して表現されているのだ。


第八節 プエブロ先住民の蜂起


プエブロ先住民の村落は、アメリカ中西部ニューメキシコ州と西隣のアリゾナ州にかけて、大河リオ・グランデ沿いに十九村ある。一五二○年にメキシコからこの地域に最初に足を踏み入れたスペイン人がやって来るまでは、現在のニューメキシコ州だけでも百を越える村落があったという。

プエブロは、スペイン語で「村落」という意味だ。リオ・グランデは「大河」の意味だが、北のコロラド州に源を発し、ニューメキシコ州を貫流してアメリカとメキシコの国境を越え、メキシコ湾に注いでいる。

 リオ・グランデの流域には、有史以前から先住民が暮らしていた。彼らは大河の豊富な水を利用し、周辺の移動部族とは異なり、定住して農耕を営んだ。家屋は熱波の砂漠地帯でも、夏は涼しく冬暖かい煉瓦造りで、赤褐色ないしは桃色をしており、アドビーと呼ばれる。

プエブロ先住民の祖先は「アナサジ」と呼ばれた。現在ユタ州とアリゾナ州にまたがって暮らす先住民ナバホの言葉で「古代の人々」という意味だ。

ユタ、アリゾナ、それにニューメキシコ、コロラドの四州が境を接するフォー・コーナーズはアナサジの居住区域の中心だった所で、伝統儀式の場である「キバ」の跡が集中して発見されている。

 キバは先住民ホピの言葉で「部屋」という意味で、村落単位にひとつ、あるいは複数あった。地下に設けられ、地上から梯子で降りる構造である。儀式は男性の担当で、女性はキバに入ることはない。

 スペインは、アナサジの伝統を引き継いだプエブロ先住民の村にカトリック使節団を送り込み、布教を行った。

先住民らは一応彼らの布教活動を受け入れはしたものの、伝統的な儀式を捨てようとはしなかった。スペインの使節はキバの使用を制限しようとしたが、徹底しなかったのである。

中でも先住民サント・ドミンゴは、スペインの布教攻勢に立ち向かった。村でのカトリック文献の配布を拒否し、説教も受け入れなかった。キリストは「白人のための神」かも知れないが、サント・ドミンゴをはじめプエブロ先住民にとっては、自然の恵みを与えたまう創造主が既に存在したのだ。

 プエブロ先住民は、一五三○年代から本格的にスペイン勢力と遭遇することとなった。それから百年の間に、カトリック教団の出先が村々に設けられ、スペインによる支配が進んでいった。先住民はキバを密かに守りながら、侵略者と対峙する。


*異文化が溶け合う町サンタフェ


 ニューメキシコ州中部の町、アルバカーキから州都サンタフェに向かって北東に一本の道が伸びる。青緑色のターコイス(トルコ石)を産するターコイス・トレイルだ。

 太陽が西の空に傾く頃、砦のようにそそり立つメサ(テーブル状の台地)が夕陽に赤く染まっている。フリーウェイには行き交う車もない。周囲にはサボテン類の植物群が赤褐色の砂漠にしっかりと根を張っている。まるで異星にでも迷い込んだような錯覚にとらわれる。

 太陽はその年の最後の輝きを放ち、地平線に沈んだ。ハイウェイの彼方に、徐々に光が見え始めた。サンタフェの町が近い。街道沿いのレストランから、音楽や人のざわめきが流れて来る。

 サンタフェの町に入った。スペイン統治時代のカトリック聖堂の直ぐ前が中央広場になっており、先住民プエブロの文化がスペインとアングロ・サクソンの文化と溶け合った南西部独特の雰囲気を醸し出している。中央広場にはターコイス・トレイルと同じく、サンタフェに通じているいにしえの街道サンタフェ・トレイルの起点を示す記念碑があった。

周りには置き灯篭がともり、新年を迎える雰囲気が漂う。広場沿いに軒を連ねる店は閉店しているが、ショーウィンドウには照明が入り、クラフト製品が並ぶ。赤褐色の本体に、白抜きに黒鳥のイメージを描いた大壷。青い大粒のトルコ石を銀細工にちりばめたネックレス。部族アーティストが作った太鼓。

 太鼓と言えば、翌日新年早々、先住民サント・ドミンゴの村落で、コーン・ダンスが行われるという。

コーン・ダンスはとうもろこしの豊作を創造主に感謝する踊りである。

 一九九四年秋、コネチカットの州都ハートフォードにある体育館で開かれた北米先住民のパウワウ(地域住民と先住民の交流集会)で、コーン・ダンスを見たことがあった。

参加した各部族の出身地を見れば、サスケチャワンやオンタリオなどカナダの州、アメリカ国内のノースダコタ、ニューヨーク、カリフォルニアと様々で、館内は異様な熱気に包まれていた。カラフルな色彩の羽飾りで頭や胴体を覆い、腹の底を突き抜けるような太鼓のリズムに合わせて踊りまくる先住民が醸し出す熱気である。

 その時はグリーンコーン・ダンスという、最初の若いとうもろこしが収穫される時期に合わせて行われるダンスが披露されていた。

 スクワッシュ(ウリ)、それに豆と並んで、「三姉妹」と呼ばれるとうもろこしは、先住民とは切り離すことが出来ない三つの代表的な作物のひとつである。先住民は次のように伝えている。

 「とうもろこしは神的な起源を持っている。何故なら肥沃な大地を創造した神々から、見返りを求めない純粋贈与された食糧だから」。

 とうもろこしの最も古い野生種の化石は、メキシコシティの地層から発見された。八万年前のものと推定されている。しかし、人間が栽培を始めたのは意外と新しく、四千七百年から四千五百年前という。

 先住民の食糧として揺るぎのない地位を得たとうもろこしは、ずっと後になって先住民の聖地にやって来た白人移民の救世主ともなった。白人の中には先住民の手ほどきで栽培法を学ぶ者もいたが、見知らぬ土地での生存に欠かせないとうもろこしを先住民から略奪したり、抗争の結果焼き払ったりしたケースもあった。神をも恐れぬ所業である。

 

*サント・ドミンゴ豊作感謝のダンス


明けて元日。コーン・ダンスを見ようと、サント・ドミンゴの村落を訪ねた。すると、部族の男性が車を制止した。「これから村で葬儀があるんだ。ダンスを見に来たのなら、後二時間してからおいで」

 正月早々葬式か、と思ったが、三箇日を新年の特別の日として祝う日本の感覚でモノを言っても始まらない。

 サント・ドミンゴの村落から車で約二十分のところに、先住民コシチの村があった。村の入り口に大きな看板が立っている。

(村落の中では、カメラによる撮影、ビデオの録画、録音は禁じられています。村は生活の場であり、村内に立ち入る際にはその点を忘れずに行動して下さい)

 村落の広場に車を止め、歩く。白人の観光客らしいグループが居た。葬儀で待ちぼうけを食わされて、同じようにコシチの村にやって来たらしい。

広場の正面に、屋根に十字架が立つ教会のような建物があった。建物は塀に囲まれ、敷地の両側には白い十字架が地面にいくつも埋められている。土に還ったコシチが眠っているのであろう。

辺りの家屋はバラック状で貧しさがあらわであったが、各戸の外に置かれてある生活用具類はきちんとしまわれている感があった。

観光客と同じ方向に歩いていたら、一軒の家屋の戸が突然開き、中年男性が大きな声で叫んだ。言葉がわからず、一同困惑していると、戸が乱暴に閉められて、男性は中に引っ込んでしまった。「見世物じゃないぞ。とっとと帰れ!」と、言ったのかも知れない。われわれの前をコシチの少年少女が通りかかったが、われわれに一瞥いちべつを投げようともしなかった。

 二時間が過ぎて、サント・ドミンゴの村に入る。家々から人の気配がし、生活臭が漂ってくる。祭典の広場までは直ぐだった。

「アーアーヤー、ドンドコドン、アーアーアー、デュンデュンデュン」

 太鼓に合わせて、歌声が元日の澄み切った空の下に響き渡る。

「ダンダンダン、ダンダン」

 数十人のサント・ドミンゴが、部族衣装を身にまとい、踊っている。男性のダンサーは、太陽が輝く空を象徴する青いバンダナを頭に巻き、バンダナからは鷲の羽根が垂れている。雨を呼ぶ雲のシンボルだという。とうもろこしの成長を促すための雨乞いと豊作を祈願するのだ。足にはモカシン(鹿皮)の靴を履き、大地を跳ねる。腕を見ると、バンドにもみの木のような常緑樹の小枝がはさんである。腰には跳ね回る度に鳴る小さな楽器と装飾品をぶら下げ、背中にはアライグマの毛皮が垂れ下がっている。

 女性は黒と青のコントラストが鮮やかな衣装を身に付け、女性が二人ずつひとりの男性とトリオを組んで踊る。囃し方のリズムに合わせて、踊りの輪が広場一杯に広がっていく。

「ダンダンダン、アーアーヤーヤー」

 ひとりの観光客が他の観客に紛れて写真を撮った。目撃したサント・ドミンゴがすかさず叫んだ。

「写真は禁止と言っただろう!」

 カメラが取り上げられ、フィルムが没収された。その観光客はバツが悪そうに、後ろに引っ込んでしまった。

 サント・ドミンゴは古くからターコイス(トルコ石)の採掘に取り組み、ネックレスなどを作って、他部族との交易品としてきた。スペインは銀や銅、それに錫などをサント・ドミンゴにもたらした。器用な彼らは、目新しい金属を青いターコイスと組み合わせて、独特の宝飾品を作り上げた。

 陶器も彼らの得意分野だ。昔サンタフェの政庁があった広場では、村から出張して露店を開くサント・ドミンゴの姿がある。全米各地の都市では、彼らのクラフト作品を展示・即売する専門ショップが生まれている。


*「走る先住民」蜂起す!


一六八○年の晩春、最北のプエブロに暮らす先住民タオスのもとに、各プエブロの代表が密かに集まった。南西部に居座る侵略者スペインの支配を覆す策を練るためであった。

 伝令がモカシン(鹿皮)に絵文字で記され、走者に渡された。当時七十余りあった村落に向けて、駅伝走が開始された。

蜂起の日はとうもろこしが熟す八月の新月の夜。伝令は約四百キロも離れたホピの村にも届けられた。

ある走者がスペイン兵士に捕らえられ、処刑された。決起計画の一部が漏洩する。蜂起の日が変更された。再び伝令が走る。  

各プエブロには、蜂起の日までの日数を示す結び目があり、その結び目が毎日ひとつずつ解かれていった。結び目によるカウントダウンである。

今度は蜂起の日が訪れた。一斉決起により、カトリック教会が襲撃され、二十人余りの聖職者が殺害された。火が放たれ、教会の文献が焼かれた。スペイン人ら三百八十人に上る犠牲者が出た。スペイン側の拠点があったサンタフェプラザは壊滅し、その跡地に新しいキバが築かれる。

キバの建設はスペインに対する先住民の完全な勝利を意味する象徴的な出来事であった。

 

*タオス・プエブロにて


先住民タオスの村に向かった。村落に近づくにつれて次第に標高が増していく。リオ・グランデに沿い、道は曲がりくねって続いて行く。この辺の川幅は狭く、急流で水面が泡立っている感じだが、綺麗な群青色をしているのが印象的だった。周囲に連山が聳えた谷合に村落が見え始めていた。車の数が増えている。タオス・プエブロ内の歴史的建造物が一九九二年、世界文化遺産に登録されてから、観光客が格段に増加した。

世界遺産は、赤褐色のアドビー煉瓦で造られた階層建築で、一○○○年頃から一四五○年頃の間に建設されたという。これまで千年以上も住居として使用され、一階沿いでは工芸品が販売されている。

連山が見渡せる場所に立つと、山際に白雲がかかっていた。山奥にはブルー・レイクという聖なる湖がある。水晶のように澄み切った豊富な水を蓄えており、タオス住民の飲料水や灌漑用水に使われているそうだ。

露店で販売されている壺などの陶器類は、雲母が多量に含まれている粘土で製作され、初めは生活用具だったが、創意工夫が重ねられて、次第に芸術的な工芸品を生み出すようになったと、先住民アーティストは話していた。

 露店で先住民を相手に、女性観光客が値切ってもらおうと挑んでいた。

「このリングすてきだわ。おいくらなの?」

「四十ドルだ」

「もう少しまけてよ」

「もうひとつ買ってくれたら、ふたつで七十ドルってのは、どうだい?」

「高すぎるわ。あきらめたーっと」

「よし、そのリングひとつで三十ドルだ」

「もう一声!」

 羽飾りのついたテンガロンのつばに手をやって、先住民は少し考え込むようなポーズ。

「ええい、二十五ドルにする。これで最後だ」

「OK! 頂戴」

先住民は根負けしたように首を振りながら、女性にリングを手渡した。

アメリカがテキサスを併合した一八四五年以降から四八年にかけてメキシコ戦争が起こる。その結果カリフォルニアに加えて、ニューメキシコとアリゾナがアメリカの版図に組み込まれた。メキシコとスペインは追放され、プエブロはアメリカの支配下に入る。

スペインの影響を跳ね除けたプエブロでは、その後も伝統文化が維持され、今日に至る。プエブロは主権を持つ自治国家として認められ、州は先住民の土地に対して法的な権力は持っていない。

合衆国の先住民の殆どは、ヨーロッパの白人勢力の流入により先祖伝来の地を追われ、失ったが、プエブロ先住民は先祖の地に住み続けている数少ない存在である。土地と切り離されなかったことから維持されている強靭な精神が、ヨーロッパの攻勢を跳ね除けた背景に潜んでいるのかも知れない。


第九節 ニューヨークに戻って


スーの居留地を後にして、わたしはデンバー経由でニューヨークに戻る飛行機に乗った。

 何時間か経った頃、ミズーリ州上空通過の機内アナウンスが流れた。間もなくミシシッピ川の上空を通るという。

その昔、先住民はその大半が東部からミシシッピの西側に強制移住させられた。代表的なのはチェロキーの「涙のふみわけ道」である。今わたしはその大河を西から東に越えようとしている。ミシシッピの姿は雲の上からは見えないけれど、わたしの心には先住民の悲痛な叫びが聞こえて来るような気がした。いつの間にか眠り込んでいた。

 眼を覚ますと、飛行機は次第に高度を下げていた。雲の切れ目から地上の風景が見え隠れし始めた。一直線のハイウェイを車が数台疾走していた。

ハイウェイの網目はどんどん広がり、走る車の台数も加速度的に増えていった。機体はさらに高度を下げ、着陸のため大きく旋回を始めていた。その先に黒光りした巨大な高層ビル群が集中する島が見えた。マンハッタンだ。ミシシッピの先住民の叫びは、はるか遠くに消え去り、わたしは眼下に広がる巨大都市の圧倒的な存在に、頭がふらつくような興奮を覚え始めていた。

 飛行機は滑走路に無事タッチダウンし、機内では喚声が起こった。空港に車でわたしを迎えに来ていた妻の運転で、マンハッタンに向かう。

都心に入ると、通りの両側にレストランやブティックが軒をつらね、カラフルな衣服に身を包んだ人々が歩道を闊歩している。派手なストライプのネクタイ。白いワンピース。羽飾りのある帽子。Tシャツとジーンズ等々。すっかり見慣れたマンハッタンの風景だが、サウス・ダコタから戻ってみると、また新鮮に見えるのが不思議である。

通りではラテン系のミュージシャンが、民族衣装をまとって演奏に興じている。流れる景色の中で、帽子も服も黒でまとめ、髭をたくわえたグループが目にとまった。

ニューヨークにはユダヤ人( Jew )が多く住んでいる。別名「ジューヨーク」( Jew York )と呼ばれる所以だ。髭のグループはハシディックというユダヤ人で、マンハッタンのお隣、ブルックリンに多い。

ユダヤ神秘主義というのがある。カバラーという魔法を信奉している。昔ユダヤ人は国を追われ、ディアスポラ(放浪)の民となり、世界各地に住むことになった。

そのうちポーランドにはユダヤ神秘主義の拠点が出来て、狂ったように踊りまくることで唯一神に対する信仰をつなぎとめようとした一派があった。それがハシディックの起源といわれている。もとは少数派だったが、今では保守派のユダヤ人として多数派になっている。

そのことを話したら、「踊り続けてビジョンを見るスー族のサン・ダンスとよく似ているわね」と、妻が言った。

「そうだな。キリスト教にはクウェイカー教徒という一派がある。彼らも身体をクウェイク(揺らす)することで陶酔し、神と和合するらしい」

 車はソーホー地区に入っていた。わたしたちは近くの駐車場に車を預けて、ギャラリーがひしめき合う路上に立った。辺りには都心の喧騒とは違う、落ち着いた芸術的な雰囲気が漂っていた。

 ソーホー(SOHO)はハウストン・ストリートの南に広がる地区で、ハウストンの南(SOUTH OF HOUSTON)の頭二文字ずつを合わせてある。北側の地区はノーホー(NOHO)という。

 オランダ人が住み始めた頃のマンハッタン島は、今世界の金融・経済の中心になっているウォール・ストリートが人の住む北限で、北限を示す文字通りのウォールがあった。

その後、オランダ商人がマンハッタン島の西を流れるハドソン川の水運を利用して北上し、イロコイなど先住民がもたらす毛皮を島の南にある港に運び、本国に送った。交易が盛んになると人口も増え、白人の居住地域もウォールを越えて、島の北部へと広がって行った。ソーホーも居住地域の北上に伴い、開けたところである。

 ソーホー地区の居住者は、時代につれて変わっていった。

最初は貿易商や入植者の白人が中心だったが、奴隷制により新大陸に連れてこられた黒人の末裔が住むようになると、白人はさらに北へ移動した。さらに時代が下ると、今度は黒人も北へ移動し、ハーレムのもとが築かれた。その代わりにソーホーに住み着いたのは、アートを志向する若者だった。

「マンハッタンは色んな顔があるのね。少し行くと全然違う雰囲気になっちゃう。何度来てもおもしろいわ」

 妻がほほ笑んだ。

 オランダ人がかつて住んだニューヨーク州ウェストチェスター郡スカースデイル。今はユダヤ人などの豪邸が並び立つアメリカの代表的な住宅街となり、一角にわたしたちの住む社宅があった。マンハッタンからはメトロノース鉄道のハーレムラインで、二十分ほどのところにあるが、直に帰らずにソーホーにわざわざ立ち寄ったのは、勤務先でわたしのアシスタントをしているスーザン・フォースティが珍しい人を紹介するという言葉に惹かれたからだった。

 わたしたちはイタリアン・レストランで待ち合わせていた。スーザンは時間通りに、若い男性を伴って現れた。

「紹介します。わたしの友人、ブルース・コリンズです」

 四人はテーブルに座り、注文をしてから話し始めた。

「ブルースは先住民の出身なの。カンサと言って、カンザス州の名の語源になった部族よ」

 スーザンは、わたしがアメリカ先住民を取材していることを知り、この男性に引き合わせてくれたのだが、彼の何処が「珍しい人」なのか、一見してはわからなかった。

 スーザンがわたしの方を向いた。

「ブルースのおじいさんの兄弟はチャールズ・カーティスという人です。名前聞いたことありますか」

「聞いたことはあるが、詳しくは知らないなぁ」

「長く合衆国の上院議員を務めた政治家なの。カンザス選出のね」

「ひょっとして、カーティスさんは合衆国副大統領だった人?」

「あ、正解です!」

「副大統領なら、もしも大統領に万一のことがあれば、大統領職を代行する立場になる。いずれにしてもカーティスさんは、アメリカ先住民として唯一初めて合衆国政権の中枢に昇り詰めたことになる。コリンズさんの大伯父おおおじということか。いつ頃のことですか。副大統領だったのは」

 ブルースが口を開いた。

「一九二八年、フーバー大統領の時です」

 ドイツ人系アメリカ人アレックス・ジョンソンが、サウス・ダコタのラピッドシティにホテルを創業した年だ。

「どんなことに関わられたのですか」

「ひとつあげるとすれば、彼自身が成立に取り組んだカーティス法という有名な法律があります。この法律はオクラホマに強制移住させられた先住民の自治の道を開いたものとして知られています」

 わたしの脳裏に荒地オクラホマに移住させられたチェロキーの「涙のふみわけ道」が浮かんだ。先住民の悲痛な叫びが聞こえて来るような気がした。

「大伯父は裁判所を連邦政府の手から先住民の管轄へと移しました。オクラホマに白人入植者を受け入れる委員会には、先住民の委員を置きました。先住民の意見を反映させるためです。この委員会は、もともと大伯父が作ったものです」

チャールズ・カーティスは合衆国上院議員の中でも歴史に残る傑出した指導者であった。四十年以上にわたり米国政府と先住民に尽くし、一九三六年二月八日に首都ワシントンで亡くなったと、オクラホマの先住民ビジター・センターで入手した「著名先住民の栄誉の殿堂」(The National Hall of Fame for Famous American Indians)に記されている。


*「民族のサラダ・ボウル」ヘルズ・キッチン


ブルースらと食事を終えたわたしと妻は、タイムズ・スクウェアーを歩いた。

巨大な街頭スクリーンが、ハンバーガーのコマーシャルを映し出していた。観光客が街の風景をカメラで撮りまくっている。

「今日は珍しい人に会えたから、一味違う九番街に行って見るか」

ミュージカルの劇場が軒を連ねるブロードウェイを越え、四十六丁目あたりを九番街に出た。

背の低いビルが軒を連ね、スカイスクレイパー(摩天楼)がそびえる六番街あたりとは雰囲気がまるで違う。エスニック料理の店が目白押しだ。イタリア、ベトナム、ビルマ、台湾、ブラジル、スペイン、キューバ・・・・・・。毎日一軒ずつ入ったとしても、二ヶ月以上はかかりそうだ。 

「ヘルズ・キッチン・デリ」という看板が出ている店に入り、コーヒーを注文した。店のスタッフは揃いのTシャツを着ている。胸にHell’s Kitchen (ヘルズ・キッチン)という文字がプリントされていた。

「すみません。地獄の台所って、どういうことですか」

 わたしはそばにいたスタッフの胸を指して尋ねた。

「これかい? 色んな説があるんだ。元々はドイツ料理のレストランの名前だったとか、昔このあたりはスラム街で犯罪だらけの地獄みたいなところだったからだとかね。レストランに客が押し寄せて、調理場がまるで目が回る地獄のように活気があったからという説もある。それがこの地区に巣食ったアイリッシュ・マフィアのせいで、本物の地獄になり、客足が遠のいてしまったのさ」

「アイルランドからの移民にもマフィアがいたんですか」

「ああ。残忍この上ない連中さ。シシリーからやって来たイタリアン・マフィアと抗争したこともあるくらいだ。金貸し業で、期日にバカ高い金利と借金を返さない奴は容赦無く殺され、死体はバラバラにされた。それからコンクリート詰めにされて海に放り込まれちまった。ジミー・クーナン、それにミッキー・フェザーストーンという最悪コンビが地獄を作り出したんだ。彼らのことを書いた本も出ているよ。この辺じゃ有名だ」

「本のタイトルを教えてもらえませんか」

 わたしは手帳を取り出した。

「T・J・イングリッシュという作家の書いたザ・ウェスティーズという本だ。それにしても、あんたら、わざわざヘルズ・キッチンを訪ねて来たのか。ご苦労さんだなぁ。ここは毎年五月に、国際フード・フェスティバルという催しが開かれて賑わうんだ。昔みたいにいつも千客万来で、キッチンが忙しければいいと思うがね」

 スタッフはそう言って、胸のプリント文字を引っ張った。

「今度マンハッタン南部に先住民の博物館が出来るのをご存知ですか」

 妻が尋ねた。

「ああ。あのグスタフ・ハイとかいう石油成金が集めた先住民のコレクションだろう? 前はここからブロードウェイを百十丁ほど上がったブロンクスにあったんだ」

「よくご存知ですね」

「そら、情報だけはごまんとあるさ。大都会だからね」

「ヘルズ・キッチンには色んな民族が住んでいるんですね」

「ああ。ここはマンハッタンに乗っかった小さな地球さ。世界中の民族が暮らしているからな。民族のサラダ・ボウルってところかな。少なくとも摩天楼のビル街に比べれば、ここは活気があるし、人情も枯れずにあるさ。違った文化を背負った色んな民族が、ひざとひざをつきあわせて一緒に暮らしている。それが活気を生み出すのさ」

「アイリッシュもそのひとつですね。マフィアは困りますけど」

「その通り。連中の職業はコップ(警官)が多い。ニューヨーク市警はアイルランドに感謝しないとね。連中は毎年三月半ばに、アイルランドの聖人セント・パトリックを祝う大パレードをする。五番街はアイルランドのシンボル・カラーの緑一色になる。壮観だぞ」

「民族毎にパレードがあるって本当ですか」

「ニューヨークの何処かで、毎日何処かの民族の集いがあると思っていい」

 わたしたちはコーヒーを飲み、店を出た。

さらに西へと歩き、十二番街でハドソン川にぶち当たった。昔オランダの商人が、先住民イロコイと交易するのに利用した川だ。運搬船が一艘そう川上に向かっており、余波が岸に迫って来た。


*追悼・マルコムX

 

一週間後ハーレムの中心百二十五丁目で地下鉄を降り、地上に出ると、そこには黒人の街が広がっていた。風に吹かれて紙屑が舞っている。

アポロ劇場の前に人だかりがあった。マルコムXのドキュメンタリー映画の試写会が開かれようとしていた。スパイク・リー監督がマスコミのインタビューを受けている。いつか写真集で見たマルコムの眼鏡の奥に潜む鋭い眼や、アジ演説で白人をこきおろす大きな口が思い浮かんでいた。

隣の教会前では、黒人女性のグループがゴスペルの練習をしていた。褐色の肌に真っ白な衣裳をまとった女性の発散する息と汗が、魂の叫びとなって辺りに飛び散って来るような気がした。

「アフリカン・アメリカンの生命力が溢れているわね」

 妻はゴスペルの調べに耳を傾けていた。

「彼らはアフリカン・アメリカンで、先週インディアン対策局で出会ったボビーはネイティブ・アメリカンか。アメリカ人と、とても一言でくくれないな。余りにも多様だ」

「本当にそうね」

 歩き出そうとすると、若い黒人女性が声を掛けて来た。

「お二人さん、マルコムXの試写を見ない? わたし急用ができて見られなくなっちゃった。ティケットが無駄になるのであなた方にあげようと思って。一枚で二人入れるの。ゴスペルを興味深そうに聞いていたでしょ? だから黒人問題にも関心があるのではと思ったから」

「ありがとう。折角だから見せてもらおうか」

「そうね。そうしましょう」

 ティケットを受け取り、劇場の中に入った。客は圧倒的に黒人が多かった。試写が始まると会場は静まり返ったが、映画の中でマルコムが白人を打ち負かすと、拍手喝采の大騒ぎになった。

(マルコム死すとも、今も熱狂的な支持は続く、か・・・・・・)

 何だか胸が熱くなった。

ブラック・ムスリム(黒いイスラーム)の組織の内紛で追い詰められたマルコムが、危険を感じて家族を安全な場所にかくまうシーン。鳴り響く脅迫電話を不安な顔で見つめるマルコム。演説会場で襲われ、何発もの銃弾を浴びて絶命するシーン。エンディング・テーマが高らかに流れ始めた。観客は総立ちになり、万雷の拍手を送った。

 会場を出ようとした時に、テレビ局のクルーがカメラを向けた。

「映画の感想を一言お願いします」

 わたしは突きつけられたマイクに向かって言った。

「マルコムは、聖地メッカにあるモスクを訪ねた時に、神の前では人間は全て平等だと悟りました。原点に立ち返って、いよいよという時に暗殺されたのですよね。そういう意味で悲劇だと思います。マルコムにもっと生きて欲しかった。そして社会を正して欲しかったと思います。マルコムは黒人だけでなく、もっと広い意味での人間のあり方を追究するために殉教したのだと思います。彼の生命を奪った悪を憎みます」


   

*ネイティブ・アメリカンの新殿堂


 一九九四年十月三十日は、国立アメリカン・インディアン博物館 (National Museum of the American Indian )の一般公開が始まった日だ。先立って行われたプレス発表の日に見に行った。同名の博物館は首都ワシントンでも運営されているが、ここではニューヨークの新殿堂を紹介する。

博物館に収蔵・展示される先住民コレクションの母体は、ニューヨークの銀行家ジョージ・グスタフ・ハイという人物が、南・北アメリカ大陸を隈なく旅行し、六十年ほどかけて収集したもので、世界で最も包括的で優れた先住民文化財のコレクションである。収められたオブジェは百万点に上り、八万六千点というプリントとネガの写真アーカイブが含まれている。

ハイ・コレクションはニューヨーク・ブロンクス区のブロードウェイ百五十五丁目に、一九一六年ジョージ・グスタフ・ハイによって創設された私設の「アメリカン・インディアン博物館」(The Museum of the American Indian / Heye Foundation ) に展示されていた。

今回新展示室となったジョージ・グスタフ・ハイ・センターは、自由の女神行きのフェリーが発着するマンハッタン南部・バッテリーパーク近くの記念碑的建造物、アレキサンダー・ハミルトン旧税関ビルに収められている。

博物館はワシントンにあるスミソニアン財団が管理するとあって、式典には民主党の大物上院議員も姿を見せていた。アラスカから来演した「エスキモー」グループのダンスなどが行われた式典後、展示品を見て回った。

「スー族のパイプがあるわ」

 妻が目を凝らしながら展示品に近寄った。

「シッティング・ブルのパイプもあるのかしら」

「スー族のパイプ・コレクションは展示の中でも主要なもののひとつだ。かなり充実していると聞いているよ。」

 隣に居たお年寄りが会話に加わって来た。

「グスタフ・ハイが金に糸目をつけず、買いまくったんだろう。本来はスーの遺産として地元の資料館に展示されるべきものだ」

「わたしは日本人ですが、お宅は?」

「オグララ・スー族出身です。今日の式典に招待されて来たんです」

「そうでしたか。でも、当時は白人の侵入で戦乱も続いていたし、地元には今のように資料館がなかったから、貴重なパイプも何処かに失せてしまったかも知れません。ハイのお陰とまでは言わないけど、結果的に残ったことはよかったのかも知れませんね」

 スーのお年寄りは眉間にしわを寄せて、わたしを見た。

「本末転倒の考え方ですね。これらのパイプは元々われわれスーの伝統的な聖具ですから、どんな経緯があったにせよ、本来の持ち主に返されるのが筋だと思います。それを地元で資料として保存し、活用して消されつつあるわれわれの歴史を取り戻すことに役立たせるのがいいと思います。如何でしょうか」

 お年寄りはそう言い終わるとわたしの表情を探った。

「おっしゃる通りですね。申訳ありません」

 わたしは自分の言を恥じ入った。お年寄りは安堵の表情を浮べていた。

「さあ、今日は新しい先住民博物館の披露の日です。新しい門出を祝おうじゃないですか」

お年寄りは晴れ晴れとそう言って、元気なステップで歩き始めた。

 今回の博物館の基本的な構想には、二十三人の先住民の職人と部族長が深く関わったとのことで、展示の第二セクションでは、彼らが膨大なハイ・コレクションの中から三百点を精選し、作品の意義をそれぞれ自分の言葉で語っているのをパネル展示してあった。

例えば、北アメリカからは、工芸品にまで高められたバスケットの製作工程についてカリフォルニアの先住民ポモ族のスーザン・ベリーが語り、南アメリカからは古代の狩猟の儀式をボリビアの織物作家ボニファキア・フェルナンデスが語るといった具合だ。

収蔵されている芸術・工芸品は必要性があれば、展示から切り離して部族に返還されることもあるという仕組みを取り入れているのが特徴だ。

式典で、ある部族のものと判明した遺骨を入れた器が、コレクションから切り離されて返還されたのがその実例である。むやみやたらに収集されて来たもののうち重要な遺産を、本来の所有者あるいは出自の後継者に返還してゆけば、遺産が部族の手元に戻ることになり、「先住民博物館」と先住民の新しい関係が築かれる。先住民は自らのアイデンティティとなる貴重な歴史を取り戻すことになるのだ。 

新殿堂は、北米のみならず、中南米とカリブ諸島まで先住民の対象を拡大した「南・北アメリカ大陸とそれを囲む海洋と諸島、すなわち西半球に属する全ての先住民の歴史的な遺産を総合的に収蔵し、展示するミュージアム」になっている。

アメリカ先住民の芸術・工芸品のコレクションとしては最大のもので、南・北アメリカ大陸の先住民文化千二百以上を網羅し、収蔵品は一万二千年以上の歴史を超えて、その数、八十二万五千点に上る。作品の約六十八%はアメリカ合衆国出自のもので、以下南米(十一%)、メキシコと中米(十%)、カリブ諸島(六%)それにカナダ(三・五%)と続く。

収蔵品は作品本体の他、一八六○年から現在までの写真類が約三十二万四千枚、映像フィルムやAVコレクションなどが約一万二千点、それに一八六○年代からの紙資料アーカイブは、積み上げれば約五百メートルの高さになるといった具合だ。

 さて、ここで新しい博物館の全体的な構成や将来像などについて、ざっとした感想を率直に述べてみたい。最初に見て回った時の印象を、わたしは次のように記していた。


展示の見やすさだが、合衆国先住民については、まとまり良くコンパクトに展示されていたブロンクス時代の方が、全体像をつかむのにはわかりやすかった印象である。

式典での民族衣装の披露とダンス、演奏もそうだったが、展示の方も極北に居住する先住民について「北米全体のバランス」を配慮し過ぎたのか、やや目立つ形の展示内容だった感が否めない。北米先住民ならば、イヌイットまで含めるのは当然なのだが、「均等性」や「平等性」を意識し過ぎたのか、却って生き生きした全体の展示効果を薄めているような気がした。

それはあたかも日本とは特殊な歴史的経緯があり、しかも定住外国人である「在日コリアン」の問題を、一般的な「在日外国人」というくくりで、他の国籍も含めた一括的な問題として捉えれば、却って在日コリアン独自の問題点や視点が希薄になってしまう恐れがあるのと似ている。

同様に、先住民文化が北米以上に色濃く残る中南米まで含めての展示は、正直わたしにとって余りにも全体像が広がり過ぎて、却ってアメリカ合衆国に暮す先住民の特色、その独自性が薄められてしまう気がした。

しかし、それは恐らくわたし自身が北米、しかもアメリカ合衆国という限られた範囲で取材して来た頭で感じてしまう「違和感」であろう。


わたしの第一印象はさておき、振り返ってみれば、国立アメリカン・インディアン博物館というのは、「多民族が住む小さな地球」であるニューヨーク・マンハッタンに新設された先住民博物館であるからこそ、南・北アメリカ大陸という視点で先住民を捉えることを任としていると理解すべきなのであろう。

そう考えれば、最初わたしが経験した「違和感」も、取材を次の段階に進めて、先住民、ひいては少数民族の本質にさらに迫ってゆくための道しるべとなるのでは、と思うに至った。

もうひとつ気になった点は、国立アメリカン・インディアン博物館 ( National Museum of the American Indian ) という新博物館の名称だ。

それは、コロンブスから五百周年を迎えた一九九二年を契機に、先住民が「わたしたちはアメリカン・インディアンではない。ネイティブ・アメリカンだ」というスローガンで、白人の手から自らの歴史を取り戻すキャンペーンを始めたことの象徴性に矛盾しているのではなかろうかということである。何故「ネイティブ・アメリカン」という言葉を採用しなかったのか。

この点について、博物館リソース・センターのエレン・ジェイミソンさんは、わたしのエアメールへの返信で次のように答えている。

「一九九○年、ハイの私設博物館がスミソニアン財団に移管された当時、博物館で勤務していました。わたしの知る限り、財団は新博物館の名称については、世界中の人が名前を聞いて、すぐどんな博物館なのかわかるというのを最大のポイントにしていたのです。すなわちそれまで使われて来た「アメリカン・インディアン」と聞けば、(たとえそれが誤解を招く意味を含む言葉であれ)誰を指すのかはすぐわかりました。ところが、「ネイティブ・アメリカン」は確かに当時、先住民を表す言葉として登場し始めていましたが、まだ世界的には誰にでもわかるほど熟した言葉ではないと財団が判断し、不採用になったのです。財団は、わたしが勤めていた前の博物館の名称である「アメリカン・インディアン博物館」に National(国立)という一語を加えただけで新博物館の名称にしました。それは、すでに良く知られていた名称を重んじるとともに、その博物館を引き継いだのは、スミソニアン財団であるということを明白にしたかったからと話しています。何故なら、寄付以外は、運営資金が連邦政府の財源で賄われていることから、現在十九ある財団の博物館の名称には、全て国立という文字が入っているからです」

 博物館の回答には、名を捨てて実を取ったような印象を受けたが、ホームページや手紙に同封されていた最新の博物館パンフレットには、「ネイティブ・アメリカン」と同等のNative peoples of the Americas(南北アメリカ大陸の先住民たち)などの言葉が使用されており、博物館の名称には不採用になったが、今や「ネイティブ・アメリカン」という言葉が実質的に使用されていることが確認出来た。

今後の博物館であるが、ネイティブ・アメリカンのその時々の現状を踏まえた将来への展望を示す新しい演出がなければ、単なる「過去の遺物の展示場」になってしまう恐れがあると言えよう。消え去ろうとしている部族の歴史を自らの手に取り戻し、生活の息吹や熱気などが皮膚感覚を通して伝わって来るような展示ができるのは、演出の担い手であるネイティブ・アメリカン自身であり、そのような方向での運営がなされることを望みたい。


                                     完


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