魔王討伐のパーティに置いて行かれた雑用担当の私は悪魔の力を手に入れた
「くそう……なんで私だけ……」
カーテンが締め切られた薄暗い部屋。すすり泣く声はベッドから聞こえた。
布団を頭から被って枕に顔を突っ伏す少女は、鼻をすすり震えた声で何度も呟く。
目から溢れる涙は枕を濡らし続けて乾くことはない。赤く泣き腫らした目は、その証明だった。
「どうして私だけ……ここまで来た仲間なのに……」
少女の脳裏に浮かぶのは、昨日までは共に旅を続けてきた仲間の顔。しかし、その顔が石を投げ込まれた水面のように揺らいでいく。
目を閉じても開いても、意識という水面を揺らし続けるのは最後に掛けられた言葉だった。
『残念だが、――のお前さんは連れていけない』
僧侶さん、どうしてそんなことを言うのですか。
『……駄目。ここで――さよなら』
詠人ちゃん、そんなことを言わないで。
『あんたがいると――に迷惑なのよ』
魔女さん、やめて。貴方は本当は優しい人でしょう?
『君は――でとても――弱い。だから、駄目だ』
勇者さん、私を魔王討伐の旅に連れて行くことを許してくれた時の言葉は嘘だったんですか?
私がただの村娘で、剣も魔法も扱えないのがいけなかったんですか?
雑用でもいいからと無理に同行して、それで役に立っていたと思っていたのは私の思い上がりだったんですか?
寝返りをうつことすら困難な少女に、溢れる涙を止める術はなく枕を濡らし続ける。
だから、こうして何の役にも立たなくなったから置いていかれるんですか。もっと私が強ければ、力があればこうはならなかったのでしょうか。
「力が……力さえあれば……」
昨晩から一睡もできず、回し車さながらに止まることのない自問自答を繰り返していた少女。
それに答えるものはいない部屋で、しかし――。
『力が欲しいのか?』
地の底から響くような声が答える。部屋に人の姿は無く――否、人影はあった。インクよりも暗い人の形をした影が、壁に張り付いていた。
「欲しい……欲しいです」
少女はベッドから転がるように這い出し、重い頭を抱えて影に近づいていく。目も口も無い真っ黒な能面が、ニヤリと笑ったような気がした。
『ならば、名を教えよ。そして」
「アスカ。アスカ=アンヴィリッジ」
食い気味に名乗ったアスカに、影は咳払いするように平面の手を動かし、続ける。
『そして、契約せよ。さすれば、汝に無限の闇の力を与えん。ただし、その代償はうぉ!?』
「ああもう、まどろっこしい! 力をくれるんですか!? くれないんですか!? はっきりしてください!」
アスカは影の胸ぐら辺りを引っ掴み、前後に揺する。壁から離れた薄っぺらい影の頭は、前後に90度以上折り曲がっていた。
『おまっ、悪魔に対してそんな態度の人間がいるか! やめっ、揺するのやめろ!』
必死に叫ぶ影の声は、不気味なものではなく声変わり前の少年のものとなっていた。
彼がせっかく悪魔らしく振る舞おうとした努力を進行形で台無しにしているアスカは、据わった目で尚も続ける。
「悪魔でも何でもいいですから力をください! 立っているのも怠いんですから! ほら、貴方をちり紙代わりにする前に早くよこしなさい!」
『女子が言う脅しか!? ああくそ、わかったよ! 今契約するからこの手を離せ鼻を近づけるな!』
やけくそ気味に悪魔が言い放った瞬間、アスカに中に何かが流れ込んでくる。
「くっ、あっ……!」
熱を帯びていた体が熱いと感じるほどの何かが体の中心から末端へと広がっていく。
目を閉じ、そして再び開けた時、内の熱は消えていた。代わりに得たのは、体が浮き上がりそうな程の高揚感だった。
アスカは、手を開いたり閉じたりして興奮したように言う。
「すごい……体が軽くなった……」
「そりゃあ悪魔の力を与えたからな。脆弱な人間とは比べ物にならないだろ」
「うん? 悪魔さんは何処に?」
胸ぐらを掴んでいた右手には何もなく、目の前の壁はただの壁だ。
アスカがきょろきょろとあたりを見回していると、
「こっちだよ。ったく、人の力を殆ど持っていきやがった」
悪態の声は下から聞こえた。見ると、クチバシのついた黒い毛玉のようなカラスがいた。
アスカは、それを拾い上げて頭を撫でながら言う。
「悪魔って結構可愛いんですね」
「好きでこんな格好してるんじゃねえよ。あんたが悪魔の力を根こそぎもっていったせいで、こんな姿じゃないと存在が維持できないんだよ」
「……よくわからないけど、ということは私って」
アスカは呟き、先程まで自身が寝ていたベッドに手を掛ける。
全力でも少々ズラすのがやっとのはずのそれを、彼女は右手一本で軽々と持ち上げる。
「……すごく強いじゃないですか!」
「そうだよ。悪魔としての才能っていうのか? そういうのがダンチなんだろうな。ここまでの人間は初めて見るぜ」
そう言って、悪魔はくつくつと笑い邪悪な目で睨め付けた――つもりなのだろう、本人的には。傍目には、手の平サイズのぬいぐるみが上目遣いをしただけにしか見えないが。
「その力があれば、何だって思いのままだ。あんたが憎い相手に何をするのも自由だ。頭にきてるんだろ? 自分を捨てていった奴らによ」
「……そう、そうです。私は怒っているんです! 許せないです!」
熱に浮かされるアスカは、叫び右手を突き上げる。その手には、いつの間にか三叉の槍が握られていた。
彼女の肩に移動した悪魔は、煽るように囁いていく。
「その怒りをぶつけろ。勇者だからって遠慮することはない。これは正当な復讐だ」
「その通りです! 謝るまで……いえ、謝っても許してあげません!」
アスカは、汗で重くなった寝間着に手を掛け引き千切るように振るう。如何な原理によるものか、上だけでなく下までも寝間着は宙を舞う。
それが床に落ちた時、彼女は黒いレースがあしらわれたゴスロリ服を身に纏っていた。くるりとその場で一回転すると、それに合わせてふんわりとしたスカートが膨らんだ。
「これが悪魔の力……! 好きな服を作れるなんて便利ですね!」
歓喜の声をあげるアスカをよそに、悪魔は内心でほくそ笑んでいた。
魔王の敵たる勇者を、その仲間だった者の手で討ち取らせれば自分の昇進は間違いない。完全に操り人形には出来ないが、この単純な娘を動かすには言葉だけで十分だ。
ドロドロとした思念につられてやってきたが、なんという大当たりを引いたのか。自分の慧眼を褒め称えたいところだ。
まったく、悪魔よりも人の方が余程恐ろしい。仲間であったものを簡単に恨めるのだから。
「ほら、そうと決まれば勇者の元に行こう。そして、奴らに罰を与えようぞ」
「はい! 1日ごはん抜きの罰です! おやつもあげません!」
拳を突き上げてアスカは吠えると、窓から身を躍らせた。
◇
「あの島に勇者がいるのか?」
「ええ、そうです。昨日、私を置いて行っちゃったんです! くしゅんっ」
眼下に広がるのは陽光を照り返す大海原。アスカは、その眩しさに目を細めながら槍に腰掛け飛行していた。
答える彼女の行き先には、小さな島が見える。まだ昼間だというのに、島の上空は暗雲に覆われ不吉な雰囲気を醸し出していた。
「ありゃあ、ここら一帯を支配する魔王の居住地じゃねえか。随分と無謀なこった」
「そうなんですよ! 勇者さんって普段はチキンのくせに、いざ戦いとなったら一歩も引かないんですから!」
「ほう? ところで、お前を裏切った仲間ってのはどんな奴らなんだ?」
微妙にズレた受け答えをするアスカに、悪魔は訊ねる。
悪魔は契約者の記憶を覗くことが出来るので、わざわざ口で言わせる必要はない。しかし、言葉とは恐ろしいもので本心からではなかったとしても、口にすることでそう思い込んでしまうのだ。
「聞きたいんですか? いいでしょう、教えてあげます!」」
そんな悪魔の思惑を知らないアスカは、喜々として仲間について喋り始める。
「まず、僧侶さん! 髪を剃った頭とムキムキボディがトレードマークのナイスガイです! パーティの中では最年長で、皆のまとめ役って感じですね!」
「だが、その『皆』にお前はいなかったってわけだ」
「それで酷い人なんです! 本当にひどい!」
悪魔の声が聞こえていないのか、アスカは一人ヒートアップして拳を振り上げる。
それに面食らう悪魔だが、力を得た副作用でハイになっているのだと納得し続きを促す。
「ふむ、そいつはどんな酷い男なんだ?」
「私がせっかく工夫した料理を作ってるのに、それを台無しにしちゃうんです!」
「そいつは酷い。命を粗末にするとは聖職者の風上にも置けない男だな」
「そうでしょう!? わからないように人参を刻んで混ぜてるのに『こいつは旨い人参だな』なんて言っちゃうんですよ! そのせいで詠人ちゃんが何時までたっても好き嫌いが治らないんです!」
「……うん? ああ、まあ、それは酷いな」
想定していたものとは違うが、とりあえず肯定する悪魔。それで火がついたのか、アスカは尚も激しく続ける。
「で、その詠人ちゃん! 真っ黒なゴスロリ服を着ていつもぬいぐるみを抱いている女の子です! 精霊と会話できるらしいですが、私は見えないし聞こえないのでわかりません!」
「詠人ね……詐欺師の代名詞じゃねえか。そんな奴の力まで借りないといけないとは、世も末だな」
「そう! その通り! 自分には理解できないからといって排斥するなど世も末! 非道の行い! 人としてあるまじきことです!」
くわっと目を剥き叫ぶアスカに、悪魔は若干引きつつも言う。
「お、おう……だが、あんたが憤りを感じて守ろうとした相手に裏切られたんだ。とんだ嘘つきだろ?」
「嘘つき……そうです、彼女は嘘つきです。『精霊的に人参はちょっと無理』だの『ナスは精霊が悲しむから食べられない』だの……嘘ばかり言っていました」
「いやそういうショボい嘘じゃなくてだな……もっとあるだろ、こう」
目を伏せ哀しい表情で呟くアスカに、悪魔はぼやくように言う。瞬間、再び目を剥いた彼女は肩に止まる悪魔を握りしめて叫ぶ。
「もっとあるですって!? 貴方に彼女の何がわかるんですか! 風呂の時に確認しましたが私と同じくらいですよ! 魔女さんが羨ましい同盟の仲間ですよ!」
「お前は何の話をして何に怒ってるんだよ!? つかっ、掴むな! 次だ、次のやつを教えろ!」
握りしめられて綿が偏ったぬいぐるみになっていた悪魔は、中身が出る前になんとか解放される。
アスカは、ふんと鼻を鳴らして悪魔から目線を外した。
「魔女さんはですね、色んな魔法が使えて綺麗で胸が大きくてセクシーで胸が大きい女性です」
「2回言ってるぞ」
悪魔の指摘を無視してアスカは続ける。
「彼女も酷い人です。魔法が使えない私を詰ってばかりいました」
「へえ、それはそれは。女同士の争いは醜いもんだ」
嘲笑う悪魔の言葉に思い出したのか、アスカは暗い顔で言う。
「見にくい……そう、魔女さんはいつもそう言っていました。『あんたが前にいると敵が見にくいから私の後ろに隠れていなさい。絶対に前に出るな、私が守ってやる』と……」
「……いや俺が言っているのは視認性のことじゃなくてな」
「お礼を言っても『別にアンタのことなんてどうでもいいのよ。それよりも怪我はしてないわね』と冷たくされるばかりで……ぐすっ」
「それはただのツンデレ……」
流石に何かおかしいと悪魔は思い始めていたが、彼女の望みを叶えるという契約を果たすまでは彼にも自由は無い。そのため、契約を一方的に打ち切ることは出来なかった。
それに、彼女の力を失うの惜しんだということ。もしかしたら勇者は本当に酷い奴なのではという希望を持っていたこともある。
「あー、勇者ってのはどんなやつなんだ? そいつも酷い奴なんだろう?」
故に、悪魔は違和感を棚に置いて訊ねる。それこそが、活路であると信じて。
「……勇者さんは酷い人です。ええ、本当に。あんな人がいるなんて信じられませんでした」
憮然とした表情でアスカは言う。その声には、確かな怒りが込められていた。
これならば、と悪魔が期待したのも束の間、彼女は腰掛ける槍に拳を叩きつける。凄まじい力に穂先は海面を向き、危うく突っ込むところだった。
それすら意に介さず、彼女は怒りをぶち撒けていく。
「信じられますか!? 私はあの人に好きだって伝えたんですよ! それであの人はなんて答えたと思いますか!」
「……『お前なんて眼中に無い』とか」
「それならまだ良かったですよ! あの人はですね、『僕も信頼できる旅の仲間として好きだよ』って爽やかな笑顔で答えたんですよ! 私は一人の男として好きだと言ったのに、あの人はそれに気がついていないんです!」
「……そりゃあひでぇな」
誘導や煽りではなく素の感想をもらす悪魔。
朴念仁であることは勇者の資質の一つである、というのは女性に恵まれながらも手を出さない物語の英雄を揶揄したジョークだが、案外真実なのかもしれない。
「夜這いをしかけたときなんて『部屋を間違えているよ?』って本気で不思議そうな顔をしたんです! くそっ、なんて時代ですか!」
「時代は関係ない……お前なんつった?」
「話していたらムカついてきましたが……もうすぐですね! 勇者さんの匂いがします!」
「匂いってお前は犬か……? いや、そもそもなんで匂いを知ってるんだよ」
「洗濯の時こっそり嗅いでるからに決まってるじゃないですか!」
間違いなく堂々と言うべきではない台詞を叫びつつ、アスカが腰掛ける槍の速度は増して行く。
その穂先は、暗雲と雷雲轟く城へとまっすぐに向いていた。
◇
「よくぞここまで来たな勇者よ」
大広間に置かれた玉座に腰掛け、大仰な口調で言ったのは牛頭の大男だった。身に纏っているのは服というより布であり、鍛え抜かれた肉体がそれを押し上げている。
「ああ、来たぞ魔王よ。その恐怖を終わらせるために、勇者はここに参上した」
勇者は答え、抜き放った白銀の剣を突きつける。後ろには、僧侶、魔女、詠人がそれぞれの武器を構えていた。
牛頭の魔王は、広間中に響き渡る笑い声をあげて立ち上がる。
「恐怖を終わらせるために、ときたか。良かろう、出来るものならやって見るが良い」
「そうさせてもらおう。この目は勝利の未来だけを見据えている!」
「生憎だが、その目に焼き付けるのは恐怖だ。その身を後悔で染めてやろうぞ!」
魔王は吠え、纏っていたマントを翻す。武器を持たない徒手であったが、それが慢心ゆえではないことに勇者は気がついていた。
鍛え抜かれた肉体、そこから繰り出される鉄拳こそが魔王にとっての最強の武器。いくら勇者として祝福を受けていようと、まともに喰らえば即死するだろう。
「いくぞ、皆!」
その恐怖を飲み込み、勇者は眼前の敵を睨む。臆することはない、自分は一人ではないのだから――!
勇者と魔王。二人が間合いを詰めようと足に力を込めた瞬間、
「エントリィイイイイイイイ!」
頭上から聞こえたのはハイテンションな少女の叫び声。そして、天井の石壁が崩れ落ちる音だった。
「えっ?」
勇者は見た。瓦礫に混ざって落ちる見覚えのある少女の姿を。
「はっ?」
魔王は見た。徐々に視界を埋め尽くしていく瓦礫の雪崩を。
「……あっ」
詠人が声を上げた時、目の前に広がっていたのは、
「ヒロイックランディング!」
瓦礫に埋もれた魔王を踏んづけてポーズを決めるアスカの姿だった。踏みつけられた魔王は、ぴくりとも動かない。
左膝と左手を地面につけ、反対側は立ち膝に。右腕は斜め上に向かってビシっと伸ばす。まさしくヒロイックな着地を決めたアスカは、満足そうにゆっくりと立ち上がる。
それをぽかんと口を開けて眺めていた勇者は、目の前の少女が間違いなく自分が知る彼女だと理解し、そして混乱する。
「な、なんで君がこんなところに? 宿で眠っていたはずじゃ……」
「そうよ、それにその格好は何? 詠人のコスプレ?」
「……私とおそろい」
「いや、それよりも動いて大丈夫なのか?」
口々に疑問を口にする勇者たち。アスカは、彼らの顔を見渡すと大きく息を吸って、
「そんなことよりも! 私は怒っているんですよ! 私は置いていった貴方達にです!」
叫び、地団駄を何度も踏む。その剣幕に、勇者たちは押し黙ってしまう。
肩に止まる悪魔は、それを見て内心笑いが止まらなかった。
ここを支配する魔王を倒してしまったのはマズイが、アスカが勇者らに怒りを覚えているのは間違いない。あとは、これを誘導してやればいい。勇者さえ倒せばいくらでも言い訳はできる。
「そうだ、奴らはお前を見捨てた裏切り者だ。思い切り怒りをぶつけてやれ」
「はい! いいですか勇者さん! どうして私を置いていったんですか! 私が弱いからですか! 私が役立たずだからですか! 昨日までずっと一緒に旅をしてきたのに……どうして!」
声の限り叫んだアスカは、勝手に溢れ出した涙を拭うこともせずその場にへたり込む。静まり返った大広間には、彼女の嗚咽だけが響いていた。
「くくっ……」
悪魔は、笑い声を噛み殺そうとしていたが、抑えきれない笑いは嗚咽に混じって溢れていた。しかし、アスカに気を取られているのか気がついたものはいない。
さあ、どうする勇者。どんなみっともない言い訳をする? それとも、お前なんて要らんと突き放すか?
まあ、どっちでもいいけどな。どちらにせよ最後に総取りするのは俺だ。
「いや……」
だがしかし。仲間と顔を見合わせた勇者が浮かべた表情は、
「その、君が風邪を引いたから宿で待っていて欲しいと、何度も言ったはずだけど……」
どうして今更そんなことを? というような困惑の表情だった。背後の仲間も似たような表情で頷いている。
そして、それは嘘を言っているようには見えなかった。皮肉にも、誘導術に長けた悪魔にはそれがわかってしまったのだ。
「……おいどうなってんだ。お前は勇者たちに見捨てられたんじゃなかったのか」
「風邪なんてひいて、ませ……くしゅっ! うう……ここ寒くないですか……」
赤い顔で鼻をすするアスカは、呆然とした悪魔の声を聞いていなかった。
いや、そんな、まさか。悪魔は猛烈な嫌な予感に襲われつつも、それを否定するため彼女の記憶を探っていく。
何処かの酒場――おそらくアスカが寝ていた宿屋の一階――の景色が見える。
『残念だが、風邪のお前さんは連れていけない』
そう宥めるように言う僧侶の前には、赤い顔でテーブルに突っ伏すアスカの姿があった。
氷嚢を頭に載せ、時折ティッシュで鼻をかむ姿はどう見ても病人のそれであり、安静にすべきだと万人が判断するだろう。
『うう……私は風邪なんて引いてません……元気です』
『……駄目。ここで治るまでさよなら』
詠人はそう言って、ふるふると頭を振る。
『はちみつ生姜酒を3杯飲んだからへいきです……もう治ってます……だってはちみつ生姜なんですよ?』
『あんたのはちみつ生姜に対する信頼は何なのよ……』
魔女は呆れたように言って、アスカの肩に毛布をかける。
『あんたがいると他の客に迷惑なのよ』
『厳しい言い方だが、そういうことだな。あの船は無理を言って魔王がいる島に行ってもらうんだ。病人を連れていって不安にさせたくない』
『じゃあ延期に……』
『出来るわけ無いでしょうが。私だってあんたがいたほうが安心――じゃなくて! 荷物持ちが増えて嬉しいですけど!』
そっぽを向く魔女に続いて、困ったように勇者は言う。
『君は病人でとても船に弱い。だから、駄目だ』
『……前に船に乗った時はずっと死にそうな顔をしていた』
『まあ、そういうわけで。お嬢ちゃんはここで休んでな。なに、戦いに勝てば明後日には戻ってくるさ』
『いやですぅ……私も行くんですぅ……魔王討伐っていう一番の名シーンが見れないなんてぇ……』
うわ言のように胡乱な言葉を繰り返していたアスカは、テーブルに突っ伏して動かなくなる。慌てる仲間に魔女は静かに言う。
「飲み物に薬を混ぜたのよ。これで大人しくしているでしょう」
「そう――。焦っ――」
「――み」
アスカが眠ってしまったことで記憶は途切れ、声も同様に途切れていく。視界が段々と黒く狭まっていき、そして完全に閉ざされた。
「……」
記憶を覗き終えた悪魔は襲った目眩に肩から転がり落ち、土埃に汚れることも構わず丸い体が転がるままに床を転がっていく。
瓦礫に混ざった黒いカラスのぬいぐるみはさながらゴミのようだったが、今の自分には相応しいと悪魔は思う。
なんだ、つまり俺は。風邪を引いて判断力の鈍ったやつの思念に誘われ契約し、酷い奴らと言われた勇者たちは疑いようの無い善人で。挙句の果てには魔王討伐の間接的な力になってしまったと。
もっと早く気がつくべきだったのだ。会話がおかしいのは風邪を引いて鈍っているせいで、テンションがおかしいのはそれに加えて酒のせいだったと。
――いや、まだだ。まだ終わってない!
悪魔は床を跳ねるようにアスカの元に戻り、叫ぶ。
「理由はどうであれお前が置いて行かれたことにはかわりないんだ! その怒りを忘れたのか! いいや忘れてないはずだ! お前はそのためにここに来たんだからな!」
それはまさしく魂の叫びだった。己の行為を無にはさせまいという男の一念が込められた叫びに、アスカは俯かせていた顔を上げ、勇者を見据える。その手には三叉の槍が握りしめられていた。
「そうです……私はそのために……」
「ごめん、アスカ。僕が出来るお詫びは買い物に付き合うくらいだけど……それで許してくれないか?」
「……! それはつまりデートですね! 許す、許しました!」
「クッソチョロいじゃねえか!!!!! なんだお前は!!!!!
悪魔の慟哭も何処吹く風で、アスカは槍を放り出すと勇者に向かって駆け出す。ふらついた体を勇者に支えられると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「勇者さんあったかいです」
「君が風邪を引いてるからだよ……ほら、おぶるよ」
「えへへー」
アスカを背負った勇者は仲間の元へ戻っていき、彼らはアスカに対して口々に声を掛ける。
「心配かけて、もう……」
「まったく、よくここまで来たもんだ。というか、お嬢ちゃんから悪魔の匂いがするぞ?」
「……大丈夫。完全に自分のものにしてる……意外な才能」
詠人の言葉に、悪魔は愕然とする。
契約は、アスカの手によって放棄された。にも関わらず、彼女に持って行かれた力が戻ってこない。
つまり、自力で力を取り戻すまではこのぬいぐるみ状態で過ごすしか無い。それには数百年単位の時間がかかるだろう。
「じゃあ……私も戦えるんですね……嬉しいなぁ」
「どうでもいいわよ。ったく、今度は何処かに行かないよう一晩中見張ってやるわ」
「……その服、似合ってる。ペアルック」
「詠人ちゃんの服、一度着てみたかったんです……夢が叶いました」
「そりゃあ良かった。今度はもう一つの夢も叶うと良いな。なあ、勇者?」
「うん? どうして僕に言うんだい?」
わいわいと和やかに会話をしながら遠ざかっていく一団を眺めながら悪魔は呟いた。
「……悪魔よりも人の方が余程恐ろしい」
突き抜けた天井から見える空は、悪魔を嘲笑うように雲一つない青空だった。