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図書室で筆談を

 その日からは休み時間のたびの追いかけっこと、放課後の図書室でのひとときが翔との接点となった。

 追いかけっこで捕まえられたことはほとんどないので、図書室での静かな攻防が柚希の勝負所となっている。

 声を張り上げると怒られるので、勉強をする彼の向かいに座り、しぶしぶ宿題を広げながら説得を試みる。

 ――主に筆談で。


 ルーズリーフに「お願いがあります」と書いて差し出すと、真下に「嫌だ」と書かれて返ってくる。「そこをなんとか」と書いたら、「断る」と綺麗な字が拒絶してきた。

 ここ数日の攻防で柚希の中の彼の印象が少し変わってきた。

 翔は話しかけても無視するし、相変わらず表情も鉄仮面のように変わらない。けれど案外、付き合いは悪くない。

 柚希の筆談攻撃に律儀に目を通し、返事を書いて寄越すのがその証拠だ。

 柚希が「ジュース奢るから」と書くと、翔は紙を一瞥して手元に目を戻した。心引かれてくれなかったらしい。

 むうっと唇を尖らせて、柚希は学内にある自販機の飲み物を片っ端から紙に書き始めた。

 「ミルクティー」と書いたところで、向かいから手が伸びてきて、「要らない。宿題やれ」と書かれてしまった。

 ちまちまと片手間で宿題をやりながらルーズリーフがいっぱいになったところで、柚希は諦めて席を立った。

 放課後にアルバイトを入れているので、粘るのはこれぐらいの時間までが限度だ。

 片付けを始めた柚希に一度だけ翔は目を上げたが、とくに何を言うわけでもなく勉強に戻る。これもいつものことだ。


「高坂くん、また明日ね」


 お決まりの挨拶に返事が返ってくることはない。

 文章のキャッチボールより、言葉のキャッチボールが難しいとは、これ如何なることか。




 進展があったようななかったような関係に急激な変化が起こったのは、同じような内容のルーズリーフが八枚目になったときである。

 その日あまり夢見がよくなかった柚希は、夕方になっても機嫌を立ち直らせることができなかった。

 昼間はどうにか取り繕うことが出来たが、その反動もあって図書室に向かうころになると疲れが一気に体にのしかかってくる。

 その機嫌の悪さは筆談にも反映されてしまったのだろう。

 柚希の字を読む翔の眉間にうっすらと皺が寄ってくる。

 柚希に引っ張られるように機嫌を降下させていく翔に、苛々している彼女は当然気づかない。

 いつもよりも返事のない彼に苛立って、柚希は「ケチ!」と書き殴った。

 すでに見慣れたペンを持つ手が伸びてくる。


 ――「お前みたいな訳ありの手伝いなんて絶対に嫌だ」


 いつも以上に長い拒絶の言葉。息が詰まる。

 やはり彼に間違いない。翔は分かっているのだ。


 柚希は頭に血が上るのを感じながら、「どうしても言うこと聞いてくれないなら、家に押しかけちゃうから」と身勝手な言葉を書いた。

 書いた瞬間、後悔した。

 顔を上げた翔が温度のない冷たい目をしていた。冷たく虚ろで、なにもかもを拒絶するような。

 いままで向けられた拒絶など生温い。奥底に押さえ込まれた感情が、虚ろな瞳の奥で揺れている。

 その瞳に射竦められて、柚希の背筋が凍った。

 しんと静まりかえった図書室に音が蘇ったのは、誰か新しく入室してきた者がいたからだ。

 ドアの開く音を聞いた瞬間、柚希は弾かれたように立ち上がると、テーブルに広げていた私物を掻き集めて鞄に詰め込み逃げ出した。

 入ってきたばかりの生徒とすれ違い、図書室を飛び出した柚希は、駐輪場までくると自転車の前で鞄を抱えてしゃがみ込んだ。


 恐ろしいほど動悸が速い。酸素が足りないように息苦しく、頭の中はとりとめもない思考がぐるぐると回る。

 怒らせた。どうしてだか分からないが、彼を酷く怒らせた。そしてそれ以上に深く傷つけた。

 おそらく翔の心の奥の一番柔らかくて脆い場所にはじくじくと血を流し続ける癒えない傷があって、柚希の言葉はそこに塩を塗り込んだのだ。


 翔の目は獣の目だった。あれ以上言おうものなら、のど元噛み千切ってやると言わんばかりの、傷ついた野生の獣。


 柚希はのろのろと立ち上がり、自転車に跨がった。

 体が重い、思考が鈍い。けれど彼女にはやらなければいけないことがあるのだ。

 それからの時間は、記憶が少々曖昧だった。

 何をしていても上の空になり、失敗が目立った。バイト先の上司にも呆れられるほどである。

 だからバイトを終えて帰宅する時間には心も体もくたくたで、もう何もしたくないほど疲れていた。


「ただいまー」

「お帰り、柚希。お姉ちゃんに挨拶してきなさい」

「後でー」


 台所から声をかけてくる母親に気だるく言って自分の部屋へ入る。

 「もうっ」と怒る母親の声が聞こえてくるが、柚希には居間に置かれている姉に挨拶をしに行く行為がどうにもしっくりこないのだ。

 自分のベッドに鞄を放り投げ、抱えていたうさぎのぬいぐるみを隣のベッドに置く。

 そのベッドは柚希の双子の姉、桃華のものだ。

 一年前に主を失ったベッドだが、いまでも季節ごとにカバーを変えたり、柚希の布団と一緒に干したりと清潔に保たれている。

 少しくったりとした白いぬいぐるみは、幼いころに二人でどうしてもと強請って親に買って貰ったものだ。


 桃華は白うさぎ、柚希は白くまだった。


 白くまはいつも通り、行儀良く柚希の枕元に座っている。

 あの日から、柚希はどこに行くにも白うさぎを持ち歩いていた。

 年齢的にその行為が痛いのは十分理解しているが、どうにも手放すことができない。

 さすがに学校に持ち込むわけにはいかないので、朝バイト先に置いていって帰りに抱えて帰ってくる生活をしている。

 柚希は姉のベッドに倒れ込んでうさぎを抱きしめた。


「桃華、待ってて」


 苦しい胸の内を覚悟にするように、柚希は力強く呟いた。




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