前編
――どうしてこんな事になってしまったんだろう。
その言葉が、さっきから私の頭をぐるぐると回る。
いや、原因は解っているのだ。呼んではいけない存在を――私達は呼び出してしまった。
これから話すのは、たった今私の身に降りかかった悪夢の出来事。
『きぬこさん』によってもたらされた、地獄の話である。
『きぬこさん』。それは私の街に昔から伝わる都市伝説。
街の子供達は昔からこう言われて育つ。「悪い事をすると『きぬこさん』に拐われるよ」と。
それだけならよくある話で。けど他と違うのは、それら『きぬこさん』を実際に呼び出す方法がまことしやかに伝えられている事だった。
『きぬこさん』には、呼び出す場所によって色々な種類がいるらしい。神社のきぬこさん、病院のきぬこさん、そして……学校のきぬこさん。
学校のきぬこさんは、数いる『きぬこさん』の中では一番呼び出すのが簡単で。けれど一番、扱いが難しいのだと言われている。
方法は単純。こっくりさんは皆知ってると思う。あれによく似ている。まず赤いペンで大きく円状に文字を書き、中心に刃物を置く。その刃物に指を乗せたら、後は普通のこっくりさんと全く一緒。
そうして呼び出された『きぬこさん』は、呼び出した人の一番大切なものと引き換えに願いを一つだけ叶えてくれるのだという。当然皆半信半疑。試した人がいるという噂は、聞いた事がなかった。
そんな学校のきぬこさんを呼び出してみようと、最初にそう言ったのは誰だったのか。もう私は覚えていない。ただ確かなのは、その時私達には、『きぬこさん』なんてものに縋りたいほど憎い相手がいたという事だ。
その相手とは2−Aの向井加奈子。向井は、私達の憧れだった東原先輩を抜け駆けして奪った女だ。
東原先輩は、学校の女子皆の憧れ。だから皆のものとして、絶対に抜け駆けしてはいけない。それは暗黙の了解だった筈だった。だがそれを向井は破ったのだ。
それどころか東原先輩は向井の告白を受け入れ、恋人同士になった。許せる筈がない。皆の東原先輩を独り占めするなんて。
最初は皆で、向井を直接制裁した。しかし向井はあろう事か、東原先輩に泣き付くという行動に出たのだ。
『お前らおかしいよ。俺は加奈子が好きだ。加奈子を傷付ける奴は、俺が許さない』
信じられない事に、東原先輩は私達に向かってそう言った。こんなに東原先輩を想っている私達に。向井は、既に東原先輩を洗脳しきっていたのだ。
……ただ向井を制裁するだけじゃ、東原先輩への向井の洗脳は解けない。もう、向井には死んで貰うしかない。
けど私達が向井を殺せば、洗脳された東原先輩の憎しみはきっと私達に向かうだろう。そんなのは耐えられない。それに向井みたいな屑を殺して、前科者になってしまうのも嫌だった。
そこで私達が目を付けたのが『きぬこさん』という訳だ。『きぬこさん』を呼び出して、向井を殺して貰う。そうすれば私達に恨みは向かないし、向井がいなくなる事で、東原先輩も自分がくだらない女に惑わされていただけだと気が付く事だろう。
東原先輩は皆のもの。誰か一人が独り占めする事なんて、絶対にあってはならない。
そして、梅雨空の重いある日に、私達の『きぬこさん』を呼ぶ儀式は決行されたのだった。
「……刃物は?」
「はい」
リーダーの明美先輩に促され、私は百均で買ってきた果物ナイフを差し出した。くじ引きで負けて刃物役になった時はついてないと思ったが、私の買ったナイフで向井に鉄槌が下せるのなら悪くないと思い直す事にした。
儀式に参加したのは、私と明美先輩を含め五人。他の女の子は『きぬこさん』を信じないか、大切なものを失う事を恐れて参加はしなかった。
つまりここにいるのは選ばれた五人。真に東原先輩を想う、精鋭達という訳だ。
「いよいよだね」
「ふふ、向井の奴どんな風に死ぬのかな?」
クスクスと、ヒソヒソと交わされる会話。夜の学校にこっそり残った私達は、もし見つかれば簡単に摘まみ出されてしまうだろう。だから極力、大声は出せなかった。
「皆、一番大切なものは用意した?」
「はい。私は東原先輩の笑ってる写真」
「私は東原君が落としたハンカチ」
「私は東原君の使ってたシャーペン」
「私は東原先輩の履いてたバスケットシューズ」
「そして私は東原君の噛んでたガム……皆、本当にいいのね?」
「はい、これで向井に天罰が下るなら」
皆が持ち寄った物を手に、床に置かれたナイフの持ち手の端に大切な物を持っていない方の指を乗せる。……折角の思い出の写真がなくなってしまうのはとても悲しい。けど、これも東原先輩の為なのだ。
私達は向井という悪魔から、東原先輩を救う為にこの儀式をするのだ。つまりこれは正義の行いなのだ。
「じゃあ行くわよ。……きぬこさん、きぬこさん、おいで下さい」
「きぬこさん、きぬこさん、おいで下さい」
「きぬこさん、きぬこさん、おいで下さい」
明美先輩の呪文を繰り返すように、皆でそう唱える。そして、五回ほどそれを繰り返した頃だった。
「!!」
突如、指を置いたナイフがカタカタと震え出す。そしてその先端が、ゆっくりと回転し一つ一つ文字を指し示し始めた。
『なにかのそみか』
何が望みか……そう言っているのだろうか。凄い、本当に『きぬこさん』はいた。実在したんだ……!
「……きぬこさん、お願いします。向井加奈子を殺して下さい。お礼に、私達の一番大切なものを捧げます」
明美先輩がそう言って、持っていたガムを差し出す。それに続いて私達も、持っていた物を前に出した。
ナイフは、暫くぴくりとも動かなかった。駄目なのだろうか。私達の願いは叶わないのだろうか。
『わかつた』
そう不安になった時だった。またナイフの先端が動き出し、そう指し示したのだ。思わず歓声が上がる。これで向井は死ぬ……!
『いまからたいせつなものをもらう』
そして、次にそう示し終わったと同時。おもむろに、先輩の一人が床に置かれたナイフを手に取った。
「何するんですか!」
唯一私と同い年の子が、それに抗議する。その通りだ。今から大切なものを捧げなければいけなかったのに、これでは儀式が中断されてしまうではないか。
ナイフを取った先輩は、何故かきょとんとしていた。今、自分は何をしたのだろう……そう言いたそうな顔をしていた。そして。
グラウンドのライトの光を受けて鈍く輝くナイフの刃が、抗議をした女の子の喉を真一文字に切り裂いた。
一瞬、時が凍り付いた。何が起こったのか、誰にも理解出来なかった。
中でも、今凶行に及んだ筈の本人の顔が一番驚愕に歪んでいた。自分のした事が、信じられないという風に。
「……キャアアアアアアアアッ!!」
最初に悲鳴を上げたのは誰だったのか。私かもしれないし、他の誰かかもしれない。それすらも解らないほど、私の思考は麻痺していた。
喉を切り裂かれた子は床に転がって、ゴボゴボと血を吐き出しながら血塗れの喉を押さえている。漫画や映画じゃない、リアルに深手を負った人間の姿。それが一層私を恐怖させた。
「っ……違う! 私じゃ! 私がやったんじゃない!」
血の付いたナイフを手に、振り返った先輩が涙声でそう訴える。しかしその手は、まるで私達に襲いかかろうとしているみたいにナイフを振りかざしていた。
反射的に大きく後ずさる。さっきまで私がいた場所を、ナイフの光が通り過ぎた。先輩が、私に涙に濡れた目を向ける。
「違うの! 体が勝手に……お願い! 誰か止めてえっ!」
そう叫びながら、先輩がナイフを振り回す。私には逃げ惑う事しか出来ない。誰か、助けて、誰か……!
「そこまでよ!」
その時。いつの間にかナイフを持つ先輩の背後に回っていた明美先輩が、覆い被さるようにその体を引き倒した。ドスンという重たい音。二人は重なり合うように倒れ込み、そのまま揉み合い始める。
「このっ!」
二人の腕力に差はなかったようだけど、上を取った明美先輩の方が有利だった。明美先輩はナイフの先輩に馬乗りになると、無理矢理その手からナイフを奪い取る。
「明美先輩!」
「はぁ……もう大丈夫よ」
汗だくの髪を掻き上げ、明美先輩が微笑む。私と、もう一人の先輩は思わず明美先輩に駆け寄っていた。
「うぅ……」
「全く……このイカれた殺人鬼。理由は解らないけど、きっと初めから私達を殺すつもりで儀式に参加したんだわ。誰か、警備員さんを呼んできて」
明美先輩に指示され、もう一人の先輩が頷き教室を出る。教室には私と明美先輩、ナイフを奪われた先輩、そして動かなくなった血塗れの女の子が残る。
「さて……こいつを縛って置かなきゃね。何か縛れる物は……」
キョロキョロと辺りを見回しながら、明美先輩が呟く。その手が、両手でナイフを握るのを私は見た。
「……明美先輩?」
「え?」
明美先輩が振り返る。同時に、両手に握られたナイフが下にいる先輩の首に思い切り降り下ろされていた。
「え……え!?」
私と、明美先輩の目が驚愕に見開かれる。その間も明美先輩の手はまるで別の生き物のように、下にいる先輩の頭をめった刺しにしていた。
「え、何よこれ、ちょっ、腕、止まんなっ」
「いやっ……いやあああああっ!!」
私の口から勝手に上がる悲鳴。そして私の体は、ひとりでに教室から逃げ出していた。