夜の散歩
大掃除お疲れさまと賑やかな子ども部屋。
「アミー、あなた泣いたの?」
その隅でフェリシカが不思議そうに私の顔を覗きこんだ。
笑い声が溢れるこの空間にはそぐわない気遣わしげな声。緑のキャンディのような目に落ち込んだ私が見える。
「どうして?」
「だって目が腫れているわ」
「そうだったの」
「なにかあったの?」
「アロイスのことを考えていたの」
私はあえて正直にアロイスの名前を出した。そう言いさえすれば、優しいフェリシカがあまり深く関与してこないことは分かっていたから。
「…そう。大丈夫よ、きっと信じていればいつか会えるわ」
アロイスがいなくなって1年と半分。その間に何人かはお屋敷を出ていき、何人かが新しくやってきた。だからアロイスを知っている人は全員ではない。けれどフェリシカはアロイスのことを知っている。私が兄として慕っていたことも。
アロイスが突然姿を消した日もそばにいてくれたのはフェリシカだった。大丈夫よ、アロイスはアミーをおいてけぼりにしないわ、と。
優しいフェリシカ。どうしてあなたはシャロンに恋をしてしまったの?
主様のお気に入りに手を出した子どもがどうなるのかは知らない。
アロイスにべったりだった私が何もないのだからもしかしたら何もないのかもしれない。
けれど、1人部屋のひと以外に突然お屋敷から姿を消した子どもがいないわけでもなかった。
私が知っているのはポプリとパリス。1人部屋を与えられたフリージアの頬をぶったポプリは、しばらくして姿を見せなくなった。同じように1人部屋を与えられたビオラに強く思いを寄せていたパリスは、それが子どもたちの間でもてはやされ始めてしばらくたつと蝋燭の火を消したようにお屋敷からいなくなった。
主様は彼らは自ら出て行ったと言い、当時の私はそれを何の疑いもなく信じたけれど、彼らがどうなったのか、主様がおっしゃることは本当なのか、その真実は未だに分からない。
シャロンに想いを寄せるフェリシカは、ローザのライバルかもしれないフェリシカは、無事にこのお屋敷を卒業できるのだろうか。
そして私はどうする?
もしもフェリシカが危なくなったら、私はどうしよう。
アロイスならどうする?
シャロンやローザは見捨てていいの?
でも私だって死にたくない。
けれど。
だって。
でも。
もう訳が分からない。
「ありがとう、フェリシカ。わたし、もう、いっぱいいっぱいで、その、少し外で頭を冷やしてくるね」
それはひとりにしてほしいという婉曲表現。彼女もそれが分かったようで、あまり遠くに行かないように、と注意するだけだった。
冬の終わりの少し生ぬるい風は、木々がつけたつぼみを柔らかくもみほぐす。
月光に照らされたお屋敷の庭は昼間に見るものと違ってまた面白い。明かりもないのに地面には自分の影ができる。見上げれば、もう少しでまんまるになるだろう大きな月が空にぽっかりと浮かんでいた。
月が明るすぎるのはあまり上品なこととはいえないね。そう言ったのは誰だったか。
ふう、と息を吐き出す。
風が私の中にくすぶった何かを絡め取っていくようだった。
気持ちいい。どこかに座ってお休みしよう。
大きなお屋敷の大きなお庭には私ひとり。誰もいない、私だけの世界。
大きな大木に顔が見えると言って夜のお庭で泣いたのは誰だったか。
私の濡れそぼった目元を拭って、不思議な歌をうたってくれた声はどんな心地だったか。
月の光の下、手を引かれながら歩いたお庭はどんな光景だったか。
夕日に煌めく人形を思い出して、またじわりと涙が出てきた。
――ピエリス、フィフィ。遠いところへ行こう。
不思議な言葉をよく使う人だった。魔法使いのような人だった。
月に照らされた木の枝の影をリズミカルに踏んで、私は懐かしい歌をうたう。
呪文のような言葉の歌。あれは何か意味がある言葉なのかしら。
彼は誰からその歌を教わったのかしら。
私たちはいつ出会ったのかしら。
通り道のそばにあった常緑樹の葉っぱを意味もなく一枚もぐ。
そして、そうだ東のテラスへ行こう、そう思って一歩踏み出したとき。
「こんばんは、アミディア」
歌が止む。
私の世界が終わった。
見ないでも分かる。
アミディアだなんて私のことをそう呼ぶのはもう、このお屋敷には1人しかいない。
「こんばんは、シャロン」
最近は本当によく会う。まさか、私を探しているというのは冗談じゃなかったのかもしれない。
木陰からするりと姿を現したのは、シャロンだった。