北の大部屋
この大きなお屋敷を全て綺麗にするのに子ども42人というのはあまり十分な数とは言えず、いっぱいいっぱいの配分を年長者が考えた結果、窓ふき掃除は全員で4人しかいない。
そのうちの1人が私。担当は北西。主様はそこら一帯を、異世界の領域と呼んでいる。
朝日も午後のぬくもりも通さず、鋭い西日と寒い北風が入ってくる部屋など誰も使うはずはなく、異世界の領域一帯は全て空室だ。めったに使われることがないために汚れも少なく、私が1階の窓掃除をしているあいだに、その領域にある全ての階の部屋の掃除はあっさりと終わってしまうようだった。
1階の北西の部屋たちの窓をピカピカに磨いて、一度バケツの水を入れ替える。
南の方角から聞こえる、家具を運ぶ男の子たちの喧騒。今年は壁に変な傷をつけないといいけれど。
私は去年の大掃除を思い出して、ふふ、と笑い――
そして、青ざめた。
忘れたわけではなかった出来事。
でも1年前と同じ状況になってやっと、あの異常さを鮮明に思い出す。
これはいわゆるフラッシュバックというやつだ。
そう、私は知っている。
このお屋敷の最上階、北の一番端にある大きな両開きの扉の向こう。
薄暗くひんやりとした部屋の中に何があるのか。
主様がなぜ、この北西の場所を異世界の領域と呼ぶのかも。
私は知っている。
いや、私は知ってしまったのだ。
震える手を隠すようにして水を入れ替えたバケツを持ち、あわてて2階へあがる。
もう異世界の領域の掃除は終わらせてしまったのか、北西の部屋には他の子たちは誰もいなかった。
冷たい水に布を浸し、それを絞って窓辺へと近づく。窓ガラスに映った私は、どこかうつろな表情をしていた。
思い出すのは一年前の今日のような日。
そう、あの部屋の中を見たのは、一年くらい前の今日と同じように晴れた日。
年に一度の大掃除の日。
その日はまるで今日と同じように、主様以外の屋敷の住人はみんな白いエプロンを身体に巻いてあらゆるところを綺麗にしようと走り回っていた。
おおきなシーツの洗濯や家具の移動なんかは比較的身体が大きな子どもがやっていて、それ以外の子どもらははき掃除や拭き掃除が主だった。
私にあてられたのも今日と同じ、“異世界の領域”の窓の掃除。配られた布を使って一生懸命ガラス磨き。拭くのは1階の内側と外側、そして2階の内側だけでいいと言われていた。2階の外側の窓掃除は落ちたりしたら危ないし、最上階の北の大部屋は入れないため、最上階の掃除はしなくていいと言われていた。
けれど、私は一度やり始めたものは徹底したいタイプで、それこそ本当に屋敷の全ての窓を綺麗にするつもりで、2階の外側の窓も最上階にある窓も綺麗にしようと息巻いていたのだった。
最上階の北の大部屋の扉はその日も変わらず鍵が閉められて入れなかったから、その部屋の内側の窓掃除を諦めてはいたけれど。
その時の私は怖いもの知らずのお転婆娘で、高さなど気に留めることなく、窓の屋根によじ登ったりしてなんとか上の階へとあがり、外側の窓の掃除もこなそうとしていたのだった。
私はその瞬間を、今でも鮮明に覚えている。
一生懸命やれば時間はかかるもので、日はもう傾きかけていた。
それは、なんとかして最上階の窓の傍へとのぼり、崖のような景色を背にしてそこの窓を拭こうと手をガラスにつけた瞬間。
今まで夕日の光で反射して見えなかった室内が私の身体の影によってうっすらと見えるようになり――
私の周りの全ての音が消えた気がした。
笑い声や喧騒がどこか遠くで聞こえる。
けれど、私の周りにだけ音が消えたようだった。
異常だった。
その部屋の風景が、あまりにも不気味であり、そして無機質で薄暗く――
「アロイス…」
まるで人形のように煌びやかな洋服を身にまとい、窓際の椅子に座っている少年。
猫っ毛の髪と大きな藍色の瞳。
一人部屋を与えられていて、主様のお茶会にいつも呼ばれていて、私のような集合部屋を与えられた子どもにとっては特別な存在だった。
主様のお気に入り。
困ったように眉を少し下げて控えめに笑う少年。
――アミディア・メイアス、フィフィ、おいで。
私が兄のように慕った少年。
彼はある日突然お屋敷から姿を消し、心配した私たちに主様は、ご両親が彼を迎えに来たのだと説明したのだった。
その彼が、なぜ。
なぜ、ここにいるのか。
なぜ。
なぜ、瞬きをしないのか。
なぜ、ピクリとも動かないのか。
なぜ。
手が震える。
息ができない。
アロイスだけじゃない。
彼も、彼女も。知っている。
私はこの陰鬱な部屋に詰め込まれている人形たちが、すべて突如姿を消したかつての私たちの友だちだったことを知っている。
そして彼らがかつて人間だったことを知っている。