揺らぎ
今度、きみに秘密を教えてあげる。彼はそう言って私のもとから去って行った。
足元には白いバラの花びら。それは雪よりも白い。
髪を滑った枯れ果てた花びら。それは淡い塵となって消えた。
彼はどこまで知っているのだろうか。陽が落ちて誰もいなくなった図書室のすみでひとり考える。
みんなは部屋でカードゲームをしたりおしゃべりをしたりしているはずだ。彼は主様に誘われて南の部屋へ行った。おそらく取り留めのない話をしながら食後のひと時を過ごしているのだと思う。
手元には幼いころアロイスがよく読んでくれた絵本。金の糸をつむぐ小人のお話だった。
――きみからおにいさまを奪った“主様”に…
私はアロイスがなぜいなくなったかなんて誰にも話していない。彼は本当にどこまで知っているのか。きらりと光らせた紫の瞳が頭から離れない。
ご両親が主様に殺されたとはどういうことだろうか。
その日、私たち42人の子どもたちは玄関ホールに集合していた。主様は相変わらず忙しいのか、みんなで朝ご飯を食べた後に出かけて行った。
「アミーは去年なにをやったの?」
「私は北西の窓ふきを」
「じゃあ今年もそこの窓ふきをお願いしていいかしら?」
「ええ、わかったわ」
年長者のポピーがてきぱきと仕事を割り当てる。きりりと引き絞ったポニーテールが彼女のチャームポイントだ。
今日は年に一度のお屋敷の大掃除の日。それは毎年雪が溶けて5日目以降の晴れた日に行われる。
みんなでエプロンを巻いて、布を頭につけて。一年間のあいだに積もった汚れが一斉に清められる今日。それは、もうすぐ春が来るという兆し。
「シャロン! あなたはどこの掃除?」
「やあフェリシカ。僕は自分の部屋のおおそうじだよ」
「あら、ひとりで?」
「そうだよ」
「大変ね。お手伝い、ほしいときは声をかけてね。私なら喜んでするから」
「ありがとう。お互いがんばろうね」
たくさんの人が睦みあうホールの片隅でフェリシカと穏やかに笑いあう彼は、あの日以来何の変化も見せなかった。あまりにも何事もなかったかのように無邪気に笑うものだから、あの日の姿はもやが見せたまやかしなのではないかと思ってしまうほどだ。
「シャロン、お掃除、行きましょう?」
「あ、ローザ。うん、じゃあね、フェリシカ」
そう、確かに彼に変化はなかった。
けれど季節が移ろうとともに異変は起きた。2人の少女が、彼に何らかの想いを抱き始めたのだ。
1人は私のルームメイトであるフェリシカ。
好きになっちゃった、と。それはシンプルで、くわえてとても衝撃的な一言だった。頬をほんのりと染めて、4人部屋の片隅でこっそりと打ち明けられたその内容に、私は主様を想像して冷や汗を浮かべたのを覚えている。
そしてもう1人は、彼と同じように主様に気に入られ1人部屋を与えられているローザ。
これはフェリシカから聞いた。ライバルはローザなのだと。フェリシカが言うには、1人部屋が与えられているのは彼とローザの2人だけで、1人部屋の者同士で話がはずむことも多くお茶会などで顔を合わせるうちに気持ちが変化していったのだそうだ。
私の目に映るローザは感情表現があまり豊かな方ではないため、フェリシカの言うことが本当かどうかはローザを観察しても分からない。けれど、彼の裾を引いて注意を自分へ寄せるさきほどのローザの行動を見れば、なんとなくフェリシカの言うことも嘘ではないかもしれないと思い始めてきた。
木イチゴのような素朴で愛らしい魅力を持ったフェリシカと、薔薇の花のように華やかな美しさを持っているローザ。
その勝敗は正直どちらでもいい。強いて言うならルームメイトとして仲良くしてくれているフェリシカが幸せな結果になればいいと思うけれど、それよりも私はこのお話を主様が聞いたらどうしようかとひやひやしている。
私の大切なシャロンに色目を使うなと怒りやしないだろうか。
ローザはまだいい。彼女は主様のお気に入りだ。
だけどフェリシカは?
彼女もとても主様に愛されているし、お茶会の常連ではある。けれど1人部屋を与えられてはいない。
フェリシカが突然いなくなったらどうする?
フェリシカが突然姿を消したら、私は今度こそこのお屋敷から出ていくのだろうか。
フェリシカが姿を消したら…
「ふっ」
フェリシカが姿を消したら、なんて。
無意識に、ただ傍観を貫き彼女を見捨てるつもりだったことに気づき、小さな自嘲が漏れた。
エプロン姿で箒をもって廊下を駆けて行ったフェリシカ。庇護欲をくすぐる可愛い笑顔、鈴を転がしたような愛らしい声。彼女の魅力は溢れるほどにある。
私よりもたくさん。
アロイスを守れなかったぶん、彼女を守ってみれば罪悪感は薄れるだろうか。
もしもアロイスなら、この後どう行動するのだろうか。
「アミー? どうしたの? あなたもお掃除、はじめましょうね?」
突然の凛とした声。ぼうっとしていた私に、ポピーが雑巾とバケツを持たせる。
周りを見ればもうほとんどの子どもがそれぞれの持ち場に行ったようで、私はあわてて自分の掃除場所に向かっていった。