片鱗
ぎくりとする。
時が止まったまま、纏う空気が一瞬で変わった。
表情こそ変えないものの、先ほどまでの穏やかなものとは違い、刺すような、全てを凍らせてしまうような雰囲気。
その急激な変化に、思わずつまんでいた花びらを落としてしまった。
血の気が引く。
全ての音が、私たちの周りから無くなってしまったように感じられた。
私の隣にいるのは一体誰だ。
少年が、すみれ色の瞳を底光りさせて不気味に笑う。
こわい。
いま、何が起こっているのか。
「あ、こ、このお屋敷の生活はどう? もうなれた?」
私は怖じ気づき、急いで話題を変えた。それはひどく不自然な流れではあったけれど、今はそんなことかまっていられない。どうにかしてこの場を切り抜けなければならなかった。
「みんないい人たちばかりだよね。毎日が楽しいよ」
けれど彼は冷ややかな空気を纏ったまま、口端を不自然に釣り上げて、無機質な声を発したのだった。
楽しいよと言うわりに表情が伴っていなくて、私はさらに焦る。
彼はどうしてしまったのだろうか。
「ぬ、主様とはいつもどんなお話をするの?」
なんだろうこの空気は。私は触れてはいけないものに触れてしまったらしい。
「たわいもない話だよ。大体はエディ・ヘデラが話していて、僕がそれにあいづちをうつんだ」
会話をしている間にも、バラの花びらは音もなくむしられていった。はらはらと舞う白いバラ。私はそれを拾うことも忘れて頭を回転させる。
「お茶会はた、楽しい?」
どうすれば彼は元に戻ってくれるのだろうか。心臓が音を立てて動く。
「うん、出てくるお菓子がとてもおいしくてつい食べ過ぎてしまうよ」
二本目のバラが花弁を失い、残った茎は白い雪の上へ捨てられた。
「どんなお菓子が出てくるの?」
「焼き菓子、飴、チョコレート、とか。たくさん」
「おいしそうね」
「おいしいよ。今度きみにこっそり分けてあげる」
「あ、りがとう」
それはお礼を言い終わるか否か。
「どうしたの、アミディア・メイアス、フィフィ、そんなにおびえて」
ぽきり、三本目のバラの茎が白いなめらかな指に折られて小気味のよい音を立てた。
「アミディア? 僕の目を見て」
息がとまるかと思うくらいの妖しい声。
肌は青白く、唇は異様に赤い。
私に向かって薄気味悪く笑うこの少年は、一体誰だ。
「あ、わ、わたし、もうそろそろお部屋に戻る」
私はとっさに立ちあがってスカートのしわを素早く伸ばす。
こわい。
ここにいたくない。
彼のそばにいたくない。
じゃあ、と、方向転換をして歩き出そうとしたそのとき。
「僕の両親はもういないよ」
ゆうるりと立ち上がった彼は、私がせっかく必死で話題転換をしたにもかかわらず、先ほどの質問に答えたのだった。
けれど、その表情は穏やかなのに、声が、雰囲気が、何かおかしい。
私は自分が逃げることも忘れて、方向転換をしようと変に上半身をねじった体勢のまま、彼が次に何をし、何を言うのかに集中していた。
近づいてくるガラス玉のような瞳に呑みこまれてしまいそう。
折れまがったバラがぽとりと雪の上に落とされ、それを先ほどまで持っていた手が私の頬を撫でる。
「きみからおにいさまを奪った“主様”に、僕の両親は殺されたんだ」
動けない。まるで金縛りにあったみたいだ。
むらさきの瞳が。
赤い唇が。
冷たい指さきが。
――僕は彼を逃しはしない。
怯える私の耳へ唇を寄せて彼がそっと囁いたとき、池のほとりに置かれた白いバラの花束が一瞬で朽ち果てたのが見えた。
息のしかたはどうだったか。
声の出し方はどうだったか。
全身の震えが止まらない。
彼は一体何だ。
茶色い花びらが風に吹かれ寒空の下に舞う。
このお屋敷の主は化け物だ。
でも、その化け物に近い未来に殺されるだろう彼もまた、化け物なのかもしれない。