凍った池のほとりで
外は一面銀世界だった。
大きな屋敷は冬に包まれ、私の友だちはみんな、広場で雪だるまをつくったり雪合戦をしたりして遊んでいる。
だから垣根の向こうにある池には私以外には誰もいなくて。
そのほとりにしゃがんでひとり静かに氷の張った水面を眺めているときだった。
「こんにちは、アミディア」
背後から聞こえた、さえずるような声。
アミディア。
私の名前をきちんと呼ぶのは、アロイスと、もう一人しかいない。
「こんにちは、シャロン」
振り返って声のした方へ挨拶を返すと、彼は木の葉の隙間から頭をひょっこりのぞかせてにこりと笑いかけたあと、両手に大きな白い花束を抱えて私のもとへと登場した。
「そのお花はどうしたの?」
「これ? エディ・ヘデラがくださった。本物のバラだよ」
「主様が…」
「エディ・ヘデラはさきほどお出かけになったようだけど」
「そうなの…毎日お忙しそうね」
彼のように主様に気に入られている人はたいてい、主様のことをカラヴァさんやカラヴァおじさんと呼ぶけれど、彼は何故か主様の名前をわざわざエディという敬称をつけて姓の方を呼ぶ。
主様がこのお屋敷に戻っているときはいつも主様の側にいるはずなのに、その割には少しよそよそしい呼び方だ。そんなこと、いちいち言うことではないから黙っておくけれど。
「アミディアは何をやっていたの?」
白くなった地面に足跡を残しながら、彼は私の隣へやってきて、大量の白いバラを足元へ置いてからしゃがみこんだ。
どうやら今日も、私は彼と会話をしなくてはいけないようだ。
主様がいないにしても誰かが見てはいないかとひやひやしながら、一方で普通を装い、私は池へと視線を遣る。
「池に氷がはっていたから、おもしろくて見ていたの」
「へえ、あ、ここ、アミディアが踏んで割ったでしょ」
「うん、つい。だって、氷が割れる感覚って面白いと思わない?」
私の言葉に対しておかしそうにくすりと笑う彼。
彼はあの日からときどき私のもとへとやってくるようになった。窓越しだったのは最初に会ったときだけ。ふわりと笑って私のそばへ寄る彼を見るたび、どうして彼は私のところへ訪れるようになったのだろうと、初めて交わしたあの日の会話から原因を探ろうとする。けれど、特別賢いわけでもない私には、その答えは未だに見つけることができないでいた。
「こんなところがあるなんて知らなかったな」
「そう? みんな知っていると思うけど…シャロンはここへきて日が浅いから知らなかったのかもしれないね」
「アミディアのいるところはどこも静かで、誰もいなくて、まるで秘密基地みたいで面白いよ」
「そうかしら」
「初めてきみとお話をしたあの場所も好き」
「そう…」
私もあの窓辺はお気に入りだった。アロイスが読み書きを教えてくれた場所。
主様がいない昼下がりはいつもあの窓辺にいたけれど、彼と出会ったあの日からもうあそこは使わないようにしている。いつまた会うか分からないと思ったからだ。
けれど、場所を変えた先々で彼は姿を現した。それは決まって主様のいない晴れたお昼の、みんなが外で遊んでいるとき。
最近はよく会うね、と少し皮肉交じりでいえば、わざわざ探しに会いに行っているのだと彼は笑った。
これはよくない流れだと思う。彼の後ろには主様がいる。主様が嫉妬したところを見たことはないけれど、彼と交流を深めることで主様の目に留まることだけはごめんだ。
「アミディアの瞳って日に透かすと茶色をしているんだね」
「そうなの?」
そんな私の焦りなど知らず、彼は今日も私に話しかける。それに少し苛立ちを覚えることもあるけれど、このお屋敷の闇など何も知らなさそうな純粋な瞳でみつめられると、彼に罪はないのだと同情してしまう自分もいた。
「アミディアはティロリア地方出身の人だよね?」
たびたび私に質問をしてくるかわいそうな少年を、私は振りほどくことができない。
「どうして?」
「髪の色や瞳の色、それにアミディアという言葉の響きが、ね」
「へえ、髪の色かあ…私は気が付いたらここにいたから、どこの人間かは分からないの。アミディアという名前は、その、ティ…ええと、その地方には良くある名前なの?」
「ティロリア地方。名前じゃないけれど、よくつかわれる言葉ではあるよ」
「へえ」
「おとうさまとおかあさまにつけてもらったの?」
「どうなのかしら。あまり記憶になくて」
「そう…」
「そうだ、ねえ、フィフィという言葉もその地方にはある?」
「フィフィ? どうして?」
「おにいさまがね、あ、血は繋がっていないんだけど、おにいさまがわたしを叱るときはよくフィフィって。あれは“悪い子”とかそういう意味があるのかと思って」
「フィフィ、ね。地方によってはよく耳にする響きだね」
「あ、でもときどきね、アミディア・メイアス、フィフィって。怒られるとき以外にもわたしのことをアミディア・フィフィって呼ぶときがあったわ。そういうときは必ず抱きしめてくれたの」
「おにいさまが?」
「うん。アミディア・メイアス、フィフィ、おいで!って」
「アミディア・メイアス、フィフィ…かあ」
彼は考えるようなしぐさをして池を眺めた後、足元にあるばらを一本手に取り、その花びらを一枚ずつ散らし始めた。それならばと、雪に落とされた白い花びらを、私は一枚一枚拾っては池の氷の上に並べていく。
お互い、やっていることに特に意味はないけれど、なんとなく。
「アミディアのおにいさまはどんな人?」
黙々と手作業に夢中になっているとき、二本目のバラを手に取った彼が沈黙を破った。氷の上の花びらは7枚になっていた。
私のおにいさまはどんな人だったかしら。
白い花弁を透かして、おいで、と笑顔で手を差し出すアロイスの姿を浮かべる。
――アミディア・メイアス、フィフィ、おいで。
私の義理の兄が――アロイスがよく使った言葉。
アロイスは他にもたくさんの、呪文のような不思議な言葉を使っていた。私にとっては魔法使いのような人だった。
「…私と4つ年がちがうの。物知りで、読み書きから上手な皮むきの方法まで、わたしに色んな事を教えてくれたのよ」
「へえ、会ってみたいな」
「すてきな人だった。もう、いないのだけど」
「いない? いなくなってしまったの?」
「ある日突然ね。でもどこにいるのかは知っているわ。ただ、もう息をしていないし、動かないでしょうね」
私は俯いたまま、九枚目の花びらを並べる。
不思議なことをいう子だと思われたかもしれない。それでも、それが私の知る真実なのだから仕方なかった。アロイスは、主様の魔法にかかってしまったのだ。ニ度と解けることのない魔法に。
「変なことを言うんだね、アミディアは」
「そうでしょう?」
「自分で認めちゃうの?」
彼はまたおかしそうにくすりと笑ったのが肩越しに伝わる。
上品に笑うひと。まるで雪の結晶のよう。
「ねえシャロン」
兄の話はこれでおしまい。私はこれ以上アロイスの話をするつもりはなかった。
「うん?」
「あなたにはきょうだいはいるの? ご家族はどんな人?」
そのかわり、今度は美しい彼の美しいご家族のお話を聞こう。
うららかな冬の昼下がり。笑い声のあふれるお屋敷の午後。
いつまでもゆったりとした時間は続くと思っていた。
けれど、ぴたり。
彼は三本目のバラに手を伸ばそうとして、まるで人形のように動きを止めたのだ。