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紅蓮の炎

「命を失うさいごのさいごまで、アロイスはきみの名を叫んでいたよ。愛していると。それは僕のたましいに、痛いほどよくひびいた」


 喉から嗚咽が漏れる。


「きみは本当に、何も知らなかったんだね」


 目からあふれる雫を拾うのに必死な私の耳たぶをくすぐる上品な声。


 ――アミディア

 ――なあに?

 ――ううん、呼んでみただけ


 時おり彼が言葉遊びをするかのようにアミディアと繰り返し、私の反応を楽しんでいたのは、きみはなあんにも知らないんだねという一言を残して去っていたのは、このことを言っていたのかもしれない。


「だって誰も教えてくれなかったもの」


 だって誰も私に教えてはくれなかった。誰も知らなかった。


 ――アミディア


 アロイスがいつも私に愛を語り。


 ――髪を結ってあげる。おいで


 私に宿り。


 ――見つけた。こんなところで泣いていたの?


 どんな所へいても必ず見ていてくれたなんて。

 アロイスの正体を、想いを、私は何も知らなかった。

 ごう、と低い音をたてて壁の隅や天井に火の手があがっているのを窓ガラス越しに眺める。異世界の領域をのみ込み始めた焔。私の死神。いや、死神は私のそばに寄り添う彼の方だろうか。

 赤や朱の炎を透かして、いつか兄と落ち葉で遊んだことを思い出す。夕日を受けてセピアに染まるアロイス。色とりどりの落ち葉を両手で掬い、空へと放っては笑っていた私。


 ――ピエリス、フィフィ。遠いところへ行こう


 一人部屋の窓から見える、お屋敷からまっすぐのびた道をどこか物思う様子で眺めていた横顔。


 ――ニーノ、フィフィ。泣くとおなかがすいてしまうよ


 私の目元をぬぐった優しい手。


 ――アミディア・メイアス、フィフィ、おいで


 魔法の呪文のように故郷の言葉を用い、私を優しく抱きしめてくれた兄。

 とめどなく目から溢れる雫。お人形の手をつかみ自分のもとへと引き寄せると、白くなめらかな5本の指が、からん、と、陶器のような音を立ててぶつかった。

 かつては柔らかく温かかった大好きな手。それも今はとても冷たい。

 彼が私を心から愛していたというなら、どうして。


「どうしてアロイスは私をひとりにしたの?」


 兄と慕ったひとを失えばどれだけ悲しむか、アロイスがもし私をずっと見てきたのなら予想できたはずだ。月光の下、私がひとりで泣いている未来が想像できたはずだ。

 私を愛しているというなら、どうして兄は私を置いていったのか。どうして抵抗しなかったのか。どうして主様を――


 彼のように、主様を殺してしまえばよかったのよ。


 喉もとまで出かかった言葉は、私の涙に吸い込まれ、手元に雫となって落ちた。残酷なことを考えてしまったと思う。殺してしまえ、なんて。

 熱い。泣きすぎて頭がぼんやりする。思考がままならない。私の目じりをなでる冷たい指は誰のものだろう。


「彼だってきみをひとりにはしたくなかったはずだよ、フィフィ。きみの考えていることは何となくわかる。ついさきほどまでは僕も同じことを考えていたもの。だけど僕は知った」


 熱せられた壁が軋む音がする。木が悲鳴をあげて歪む音がする。


「きっと彼は、抵抗はできてもエディ・ヘデラを殺めることはできなかったんだ。どうしてか分かる?」


 分からない。何も考えられない。くらくらして倒れてしまいそう。


「人を殺す恐怖を知っていたからだよ、フィフィ。それはエディ・ヘデラのような狂った人間には理解できないことかもしれないけれど――見開かれた目、獣のような絶叫、絶望の表情、血しぶき。きみにもこの恐ろしさは分かるはずだ。一度それを味わうと、ニ度と同じことはできない」


 アロイスを通り越した先にある窓が映し出す赤い明かり。脳裏によみがえる、倒れたろうそく。燃えたカーテン。動かなくなった主様。

 怖かった。あのとき、内臓も心も何もかも全てが震えあがった。未だかつてない恐怖を感じた。絶命とはこのように恐ろしいものなのかと息もできなかった。


「大切な両親と友だちを殺された怒りは、何物にも勝ると僕は思っていた。けれど、ひとの命を刈り取ることがこんなにまで怖いだなんて」


 目じりからするりと滑り落ちた手が、震えるように私の肩を引きよせた。

 怖い?

 主様を簡単に殺してしまった彼が、怖いだなんて感情を持っているのだろうか。

 そのすみれ色の瞳に魔を宿して妖しく嗤う彼が?

 けれども、そう。確かにあのとき彼は泣いていた。主様の最期を見届ける彼の頬を流れたものを私は確かに見た。


「僕らだってはじめは何も知らずに生まれ、ときの流れとともに成長して学ぶ。人間と同じように笑って泣いて、たくさんのひとを愛して、愛されるよろこびを知り、そして最後に死を迎える。きみが僕のようなものをなんと呼んでいるかは知らないけれど、僕らはきみと何も変わりやしない」


 憎かった、懲らしめてやりたかった、けれど、人殺しなんかになりたくなかった、と。それは聞こえるか聞こえないかの掠れた声。涙にぬれた彼の想い。

 私の手からアロイスの指が力なく離れ、かちゃりと音を立てた。初めての距離、初めて聞く心臓の音。私を抱きしめるシャロン。息が苦しい。熱くて息ができない。


「シャロン」


 ひとを殺すというのはどんな気持ちを伴うのだろう。絶命の恐怖を目の前に、彼はどのような覚悟で主様の血を浴びたのだろう。

 復讐に身を焦がしながらも一線を越すことを躊躇っていた彼は、だから主様に懺悔させようとしたのだろうか。もしも主様が自分の犯した罪に気づいていたなら、もしも主様がそれを悔いていたなら。彼は主様を許し、その手を赤に染めることはなかったのかもしれない。


「せっかくひとりで全てを終わらせるつもりだったのに。アミディア・フィフィ。せっかくひとり、僕だけの時間だったのに、きみがここへ戻ってくるから僕は」


 ごうごうと炎が音を立て、私たちを囲む。


「僕は、ひとりでいることのさびしさを思い出してしまった」


 異世界の領域が業火に焼かれ、がらがらと音を立ててその形を失ってゆく。

 あつい。息ができない。

 私を抱きしめる彼はどうして平気なのだろうか。


「せっかく、みんな終わらせようと思ったのに。僕の憎しみも復讐も、退屈だったけれど楽しかった日々も。僕の恋心も」


 器が割れるような甲高い音。腕の隙間から見えたのは紅蓮に染まる景色。その中で、次々と倒れては砕けていく私の友だち。


「もう離してなんかあげない」


 燃える。全てが燃える。輝いていた日々も、みんなで過ごした場所も、アロイスとの思い出も。

 熱い。頭がくらくらする。私たちももうおしまいね。逃げ道はもうなくなってしまった。私たちも、この部屋にいるみんなと同じ所に行くのよ。

 腕の中、見上げた先で煌々と輝くすみれ色の瞳。


「いこう、一緒に」


 私を抱き寄せたまま、彼が片手で私の視界をふさいだ。冷たい手。けれど柔らかくて優しい手。


「きみを縛るものはもう何もないよ」


 そしてくちびるに触れた何か。


 ――みんな、今日からこのお屋敷で一緒に暮らす女の子と男の子だよ


 さようなら、私が過ごした場所。


 ――こら、廊下を走らないの


 さようなら、このお屋敷に眠るたくさんの思い出。


 ――アミー、おままごとしましょう?


 さようなら、ともに育った友だち。


 ――これは何という花なの?


 さようなら、笑ってお庭を駆け回った日々。


 ――おかえりなさい、カラヴァおじさん!


 さようなら、一緒にご飯を食べた主様。

 さようなら。

 さようなら。

 全ては燃え尽き、過ぎ去った日々は永遠に蘇らない。


 ――アミディア・メイアス、フィフィ。おいで


 さようなら。大好きなアロイス。


 薄れゆく意識のなか、私のそばで微笑み続けていた何かがぱりんと砕け散る音がした。

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