宿り木
泣き腫らした瞼を震える指先で冷やしながら、私は必死で気持ちを落ち着かせる。
「待って。ま、違うわ、アロイスとあなたが同じというのは間違いよ。それに。それに、ええ、そう、私はアミディアという名前で…」
頭がくらくらする。煙たくて、僅かに喉が痛い。
「もしかしたらアロイスは、自分の正体を教えるつもりはなかったのかもしれないね、フィフィ」
「う、うそよ、そんなこと信じられないわ。アロイスは、だってアロイスは、バラを枯らしたりしなかったもの」
「けれどきみの髪を誰にもさわらせやしなかったでしょう? いつもきみをすぐに見つけ、手をにぎり、抱きしめ、その耳元で優しく歌をうたい。そうだね、ときにはキスを落としたかもしれない」
「それは…」
目を伏せた先にある細く陶磁器のようなアロイスの手を見つめながら、ポピーが教えてくれた言葉を頭の中で何度も繰り返す。彼女の言うことが本当だったとしたら、確かに兄は誰にも私の髪をさわらせなかった。
――アミディア・メイアス、フィフィ。きみを置いていきやしないよ
夜の図書室で泣いている私を見つけ出し、約束の印として額にキスをしてくれたアロイス。私の視線は陶磁器のような手をたどり、腕をつたい、肩を見送り、首筋を通って、その先にある頬笑みを浮かべた形の良いくちびるへとたどり着く。アロイスのくちびる。
「アロイスはきみの“宿り木”だったみたいだね」
戸惑う私に、彼の声が届く。
やどりぎ?
やどりぎとは、木に寄生するというあの草木のことを言っているのだろうか。吸血鬼の木とあだ名されている、あの?
「まあ、それを“取り憑く”というひともいるのだけれど」
さらりと彼の続けた言葉は気味の悪い響きを持っていた。
取り憑くだなんて、そんな、悪霊のようなことを。
遠くを見つめる藍色の瞳に映りこむ自分は、酷くやつれている。
できるわけがない。アロイスは人間だ。アロイスはそんな不気味なことなどしない。
「うそよ」
「いいや、アロイスは確かにきみに憑いていた」
首を振って拒絶を表す私を、彼はしっかりとした声でおさえつける。そしてこう続けた。だって、アロイスはきみの髪をよく編んでいたのをしっているもの、と。
「僕の種族は髪に執着を持っているんだ。誰に教えてもらったわけでもない。きみがいつのまにか人は二本の足で歩くものだと理解したのと同じように、僕らにとって髪は気易くさわらせるものではないことを誰に教えてもらうわけでもなく知った」
アロイスの膝に上半身をあずけたまま振り向いて見あげた先。そこにいる彼が私の髪を見、そして頬を見、白いなめらかな指を静かにさしだして私の目じりを撫でる。
これは主様の血をぬぐった手だ。残酷な手だ。それなのに、どうしてこれほどまで優しいのだろう。
「髪をさわっていいのは宿る先のものだけ。その逆もまた同じ。僕たちは触れあうことにたいしてとてもシビアなんだ。個人の距離を大切にする種族なのかもしれない。だから僕たちは宿る先のものにしか触れないし、触れさせない」
では今、私の頬に指を這わせている彼は、私の髪に何度もくちびるを添わせた彼は。
「そう、僕もきみを選んだ。そして僕はいつもきみを見ていた。宿った相手だもの、その気になればきみのいる場所なんて簡単に見つけることができた」
彼は確かに、私のことをよく見ていた。私のしぐさに注目し、些細な一言を拾い、私の全てを見透かしていた。
行く先々で姿を現した彼。誰なのかは知らないけれど、“取り憑く”という言葉を用いた気持ちが何となくわかる。宿る先のものがどこに行こうとも、どこへ隠れようとも、宿り木は決してそれを見失いはしないということなのだろう。決して逃しはしないということなのだろう。
「アロイスもきみをみていた」
彼の目線がアロイスへと移る。それにつられて再びアロイスを見上げた私。けほ、と小さく咳が出た。なんだか熱い。
「今から三年くらい前。誰かが催した夜会で、僕は両親に連れられて、彼はエディ・ヘデラに連れられて。初めてアロイスに会った。春の日だまりのようなひとだと思ったよ」
この部屋ではないどこかで、何かが崩れるような大きな轟が聞こえた。けれど彼はそんなことなど気にする様子もなく、話を続ける。
「僕らはすぐに仲良くなった。年も近かったからね。その夜会が終わってはなればなれになっても、僕たちは夢の中で何度も語り合った」
夢の中で?
アロイスの方へ顔を向けたままちらりと彼を見ると、彼もまた私をいちどだけ見てから、またアロイスへと視線を戻した。
「僕の種族はいちど直接会うことができれば、そのあとはずっと夢で交流することができるんだ。お互いのたましいをうまく共鳴させることができればの話だけれどね」
たましいのきょうめい。
それは私たち人間には為し得ない業。共鳴とは一体どういったものなのだろうか。
兄は、本当に彼と同じなのだろうか。私とは違い、魔を宿すことができたのだろうか。
「ほとんど毎晩会った。それほど心地の良い共鳴だったんだろうな。好きな季節はいつだとか、何が得意だとか、どんな本を読んだとか、そんなたわいもない話をずっとしていた。ときには会ったことのない両親に思いを馳せることもあった」
私の知らない兄を知る彼。藍色の瞳をまっすぐ見つめて語っている彼の声に微かな雑音が混じる。
お屋敷が騒がしい。なんだか息苦しいのは、走り疲れたせいなのかもしれない。
「僕の種族はみんな本当の親の姿を知らない。僕は両親に拾われ、アロイスもまた、きみのご両親に拾われた。それは決まって霧の中。まるで誰かに置き去りにされたように姿を現し、産声をあげる。どこから来たのかもわからない、誰がそうしたのかもわからない」
違う。この息苦しさは、耳に届く雑音は。お屋敷のなかの騒がしさはすべて、炎の仕業だ。さきほど聞こえた轟音はきっと何かが焼け落ちた音なのではないか。さっと青ざめる私。先ほどから時おり出る咳は、床を這う煙のせいにちがいない。
「ずっと真実を探し続ける仲間もいれば、諦めて人に紛れる仲間もいた。僕たちは後者だった。本当の親は誰で、僕たちは何のために生まれたのか。けれどもそのことに苦しむことはなかった。僕には優しい両親がいたし、アロイスには彼を愛してくれる家族がいたから」
近づいている。炎が。全てをのみ込み、私を燃やしに来る。
「夢でたくさんのことを聞いた。きみの故郷のトゥイニーのお話もその時に聞いたよ」
異変を見せない彼と、ピクリとも動かないアロイス。
「中でもアロイスがよく口にするのは、フィフィという少女の名前だった。拾われた先の娘で、4つ年下の元気な子なのだ、と。いつも手をつないで歩くのだ、と」
彼はどうして逃げないのだろう。主様を手にかけた償いとして、彼もまたその命を散らせるつもりなのだろうか。
「彼がきみの話をするときはいつも、それはそれは幸せそうな顔をしていたよ」
しんしんと夜空から落ちてゆく粉雪。
淡い輝きを集めて、藍色の瞳がほのかに光る。
「僕はきみと名前を教えあったとき、アロイスが何をしていたのか理解した。彼は花よめを育てていたんだ」
窓ガラスに映った兄の横顔に、昔の思い出を重ねる。私に読み書きを教えてくれたときによく見た横顔。池のほとり、私の隣にしゃがんで、一緒に花びらを流して遊んだときに見た横顔。
ぱきり、この大きな部屋の中で木がはねるような音がこだました。それは部屋に炎が侵入してこようとする音。終わりは近い。幕引きの時間だ。
「アミディアというひびきがどういう意味をもつか知っている?」
彼が目を伏せて私を見おろし、柔らかな手つきで髪をなでる。そして何も言わない私に、囁くようにこう言った。恋人に使う愛称だよ、と。
「アミディア――僕の愛、僕の命。アミディア・メイアス、フィフィ。かけがえのない僕の愛しいひと、フィフィ」
猫っ毛を風に揺らして、日だまりの中、私に手を差し出した兄。
――アミディア・メイアス、フィフィ、おいで
お人形になってしまったアロイス。
もう二度と私を抱きしめてはくれない兄は。かつて暖かく微笑んでくれた兄は。
「アロイスはきみを本当に愛していた」
アロイスはいつも、私に愛をささやいていたのね。
驚きと切なさと、悲しみと懐かしさと。言い表すことのできない気持ちがたくさん溢れては涙へと変わり、炎が迫りくる中、私は声をあげて泣いた。




