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再会

 窓ガラスを滑る粉雪。それらは徐々に窓枠のすみを埋めていく。


 ――その鍵を持っていることは誰にも内緒よ


 きい、と音を立てて動いた取っ手に固唾をのんだ。ゆっくりと静かに、けれど錆びた音を立てて開かれる異世界の領域へと続く扉。誰に言われたわけでもないのに、つい息をひそめてしまう。ごくり、私の喉が小さく鳴った。


 どうしてこの鍵が。

 持ち主に内緒でこっそり作った合鍵だと確かに彼女は言っていた。


 ――窓ふきをお願いしていいかしら


 私に異世界の領域の窓掃除を指名したのはポピーだ。彼女は知っていたのだ。私が知るよりも前からアロイスがこの場所で永遠に微笑み続けていることを。言葉なしに、彼女はそれを私に教えようとしたのだろうか。あなたの兄はまだこのお屋敷にいるのよ、と。

 そして彼女もまた、私のように思い出に囚われ、仲間を見捨てる度胸がなかったのかもしれない。だから主様のおかしさを知ってもなお時間切れになるまでこのお屋敷に居続けようとしたのだ。


 ――宝箱の鍵よ


 誰にも秘密でアロイスに恋心を抱いていたポピー。いつもアロイスの背中を追いかけていた私。

 たしかに私たちにとってアロイスは、宝石のように輝きを放つかけがえのない存在だった。そして彼を閉じ込めるこの大きな部屋は、まさに宝箱そのものだ。


 扉の微かな隙間に身体を滑り込ませたあと、素早くそこを閉じて鍵を閉める。仄暗い廊下の先からやってくるだろう彼と私の間に防壁ができた気がして、ほう、と、少しだけ安堵の息がもれた。ひんやりとした空気が足元を漂い、視界の端に映る白息。

 未だこの手から伝わる、扉の内側の感覚が信じられない。

 叶うことなどないと思っていた。この部屋に足を踏み入れる日など来ないと思っていた。

 息を殺して、一歩、また一歩と足を差し出す。

 暗闇にうかびあがるたくさんの人影。

 おままごとをしている少女たち。椅子に座っておしゃべりをしている少年たち。勉強をしている様子の子ども。ソファに腰掛け、本を読んでいる子ども。

 隔てるものなくこの目で直接見る北の大部屋の中は、たくさんのお人形が、まるで先ほどまで生きていたかのように、まるで今この瞬間だけ時が止まっているかのように賑わっている。

 しかしそこには一切の音はなく、暗闇の中、それはいつかお屋敷のみんなで見に行った美術館の彫刻のよう。静かにたたずむ、かつては人間だった者たち。私の知らない人もたくさんいる。とても美しい容姿をした子どもたち。彼らはみんな、主様のお気に入りだったのだ。

 けれども彼らは一様に綺麗な服で身を包み、飾りをつけ、その顔には頬笑みを浮かべて氷のように固まったまま。今、私が見つめている少年は、どんな声で笑ったのだろう。花を握った少女は、どんな風にお庭を駆け回ったのだろう。

 嗚咽が漏れる。寂しい。寂しくて、不気味だ。

 ここは異世界の領域。自然をつかさどる全ての妖精が逃げ出し、死んでしまった空間。その空気を揺らすのも、部屋に鼓動を響かせるのも、震えた白息を吐くのも、大きな部屋の中でたったひとり私だけ。私だけが時を刻んでいる。

 誰も私と目を合わせてくれはしない。誰もが私を無視する。のけ者にされた気分だ。まるで私が異物のよう。出て行けと言われているみたい。

 かつて私の手を引き、故郷の民謡を歌ってくれた優しい兄も、今は彼らと一緒に私に意地悪をする。

 瞬きすることなく、あの春めいた大掃除の日に見たときのまま、兄は変わらない頬笑みを浮かべながら椅子に座って。柔らかな藍色の瞳を遠い彼方に向け、私をいないもののように扱う。

 頬を伝う雫を無視して、そろり、私はアロイスに近づいた。

 ずっと触れたいと焦がれていた猫っ毛。

 あなたはこんなに私と背が近かったかしら。

 それとも私が大きくなったのかしら。

 夢にまで見たアロイスとの再会。床に膝をつき、彼の膝に上半身をあずける。その真っ白な手をつかみ頬をすりよせた。

 あなたはこんなにも冷たく陶器のような肌をしていたかしら。

 まるで死人のようね。

 まるで死人のよう。

 涙が止まらない。

 もうアロイスは、私の頭をなでてはくれないのだ。その藍色の瞳は私を見ることはなく、氷のように冷たい手は私の手を握ることもない。


 ――アミディア・メイアス、フィフィ、おいで


 彼はもう、私を抱きしめてはくれないのだ。

 大きな部屋の中に、私の啜り泣く音だけが聞こえる。

 しんしんと積もる雪。淡い光を宿して。


「私を殺しに来たの?」


 背後に立つ人物に私は問いかけた。


「いいや」


 彼は静かに答える。きみを探しにきただけだよ、アミディア、と。


「鍵をかけたのよ」

「そんなの意味のないことだと、きみは知っているでしょう?」

「そうね」


 知っている。だってこの目で見てきたのだから。彼が手を触れることもなく白いバラを枯らし、窓ガラスを割り、主様から腕や足を奪ったところを確かに見てきたのだ。彼が一人の人の命を奪うところも。


「主様に何をしたの?」

「なに、って?」


 アロイスの膝に伏したまま顔をあげることなく話すはしたない私を、彼は咎める気もないらしい。


「主様を狂わせたのはあなたなの? 自分に執着させて主様の全てをかき乱したのはあなたなの?」


 走り続けたせいか、泣き疲れたせいか、それとも両方のせいか、紡ぐ声に張りがなくなっているのが自分でも分かった。もしかしたら兄の存在に安心しているのかもしれない。頭がぼうっとする。


「別に。僕は人間の感情を操作したりはできないよ。エディ・ヘデラが僕に執着したのは偶然だ。ただ、彼はもともと劣等感の強いひとだったから」


 それを煽っただけ、彼の耳元で薄暗い言葉を繰り返し呟いてね、と彼が表情のない声を出す。それを聞いて、今きっと彼はとても冷たい瞳をしているのだと思った。


「意地悪なひとなのね」


 私の頬のぬくもりが移ったのか、少しずつ体温を持って行くアロイスの陶器のような固い手。このまま私の体温をあげれば、彼が生き返ったりしないだろうか。願いを込めて瞼を閉じる。

 少しだけ鼻腔をくすぐる焦げ臭いにおい。炎がこちらへ近づいているのだ。終わりはもうすぐ先に来ているらしい。


「あなたは私のこともそうやって追いつめるのね。逃げても逃げても。…あなたは怖いくらいに私を見つけるのが上手だわ」


 暗闇の中、しかも普段は鍵がかかった部屋に私がいるのだと誰が分かるだろう。いつもいつも迷わず、彼は私を見つける。どんなに広い所にいても、どんなに暗くても、不思議なほどにすんなりと彼は私を見つける。


「アロイスだって、いつもきみを簡単に見つけだしたでしょう?」


 彼の指が私の髪を優しく梳く感覚が、頭皮から伝わった。死を目前にしているのにもかかわらず、髪から伝う心地よさに気持ちが凪いでいく。疲れた。瞼が重い。泣き疲れて頭がぼんやりする。

 彼の言うとおり、アロイスもまた、私を見つけるのが上手だった。お屋敷に来たばかりの頃、お庭で迷子になったときもすぐに助けに来てくれた。ふてくされて誰もいない所へ隠れたときも、兄は必ず私を見つけた。


「きみの髪をアロイスは誰にもふれさせなかったでしょう?」


 ――彼ったら、アミーの髪も誰にも触れさせなかった


 思い出すのは、お別れ日の晩、ポピーが笑って教えてくれたこと。


「何も知らないきみに特別なことを教えてあげる、アミディア」


 髪から指が音もなく離れる。それにつられるように私も顔をあげ、言葉の続きを待つように、振り向いて彼を見上げた。


「僕は8歳のときアロイスに会った。彼は11歳だった」


 私をまっすぐ見つめる桜色の瞳。細くしなやかな指が私の頬を撫で、涙を掬いとった。


「初めて会ったその瞬間から、彼が僕と同じ種族のものだということがはっきりと分かったよ。見た目とかそういうものではなくて、雰囲気というか、ほとんど勘に近いものだったけど確証はあった」


 赤い唇が、よく分からない言葉を紡ぐ。ぼんやりとした頭では理解できない。

 待って。

 時間をちょうだい。

 彼は何と言ったの?

 アロイスと彼が同じとはどういうこと?


「彼は大切な子を育てているのだと言ったよ」


 戸惑いで瞳を揺らす私を見て、彼は困ったように、悲しそうに笑う。


「フィフィという名前なのだと、僕に教えてくれたんだ」


 しんしんと淡い雪が空から落ちてゆく。

 口からもれる白い息。

 優しく微笑むアロイス。

 その藍色の瞳は遠く彼方を見つめて。

 

「フィフィ・アデール・ファビウス。それが君の名前だよ」


 ぽつり、彼の声が異世界の領域に落ちた。

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