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静寂

 部屋のものを呑みこんで次第に大きくなっていく炎。それを背にただ黙って佇む少年。足元には、かつて人間だったはずの何か。それは生命の終わりを迎えても人間の姿に戻ることはなかった。

 これが、私たちが父と慕った男の人生の結末。化け物の壮絶な最期。

 涙と吐き気が止まらない。喉を通る空気が奇妙な音を立てる。呼吸とはどうやってするものだったか。

 彼は主様に何をしたのだろう。自ら手を下すことなく、彼はどのようにして主様をここまで痛めつけることができたのだろう。

 長い睫毛が微かに震え、すみれ色の瞳に映る灯が右に左にゆらゆらと揺れる。

 彼が来る前から確かに主様は異常だった。けれども彼が来てからその不気味さは加速していき、それはまるで坂道を転がる石のよう。


 ――エディ・ヘデラにとっておきのプレゼントを用意したいんだ


 主様を奈落の底へと誘ったのは彼なのかもしれない。灼熱を背にした彼は、この日のために最初から――ご両親を殺されたときから、この瞬間を迎えるためだけに日々を過ごし、主様に微笑んでいたのかもしれない。

 普通は子どもが大人に敵うわけがないと思ってしまうだろうけれど、しかし彼もまた、主様とはまた違う化け物なのだ。一切を動かすことなく、相手の命を奪うことができる化け物なのだ。


 尋常じゃないくらいに身体が震え、歯ががちがちと鳴る。

 揺れるろうそく。壁を這う炎。音もなく降りゆく粉雪。

 右手にこぶしを作って、自らの頬をこすった彼。

 淡雪の肌を汚した鮮血をぬぐうその姿は、いつかのアロイスに重なる。


 重なる?

 アロイスに?

 いつの?


 表現しがたいほど強烈な恐怖に怯えながら、信じられない気持になった。

 アロイスはいつも綺麗な白い肌だった。ささいなことも愛する優しい人だった。いつも穏やかに笑っていた彼が、血を浴びている姿なんか。


 ――おいで、怖いものはもういなくなったよ


 嘘だ。

 それはノイズに消えてしまいそうなほど曖昧な。本当にあったのかどうかさえわからないほどの曖昧な記憶。

 闇に包まれた空間に扉を開け、その白い頬についた血を服でぬぐってから手を差し出した兄。


 ――おいで、アミディア、フィフィ。怖いものはもういなくなったよ


 私を真っ暗な戸棚から引っ張り出してから、私の視界を遮るようにしてつぶれてしまいそうなほど力いっぱい抱きしめてくれたアロイス。そのとき父と母はどこかと聞いた私を抱きしめずっと泣いていた兄は。


 ――その町が盗賊に襲われたんだ


 返り血を浴びた服。遠い日の記憶。それは今となっては真実かさえも分からない、おぼろげなもので。


 ――生き残ったのは二人の子どもだったというよ


 だからこそ信じられない。信じたくない。


 ――どうして私は助かったの?

 ――アロイスがきみを守ったから


 アロイスもまた、彼と同じように人を。

 嘘よ。

 兄はそんなことしない。


 ふ、と。すみれ色の瞳が私の方を見た。ひっと喉が引きつり、涙があふれる。


 怖い。

 嫌だ、怖い、来ないで。

 殺さないで。

 来ないで。嫌、嫌よ。

 助けて、アロイス。

 アロイスはどこ?

 聞きたいことがあるの。

 おにいさま、私、確かめたいことがあるの。

 アロイス。

 助けて。

 私はここよ。

 アロイス。アロイス。


 がしゃんと大きな音を立てて、焼け落ちるカーテンレール。その瞬間、私はまるで金縛りから解けたように急いで立ち上がり、扉を乱暴に開けて廊下へと一目散に飛び出した。


 アロイス、どこ!


 もう何もかもが分からない。自分がどうすればいいのかも、彼が一体何者なのかも、アロイスが本当に人を殺したのかも。分からないことだらけ。どうすればいいの。優しい主様だって、無垢な横顔を見せた彼だって、微笑んで私を呼んだアロイスだって。私は何を信じて、どこへ行けばいいの。

 息が苦しい。声は出ないのに、涙が止まらない。


 アロイス!


 泣き乱れながら、雪の灯りが淡く照らす暗闇の道をひた走る。


 アロイス、お願いよ、もう一度だけでいいの! 私の名前を呼んで!


 しんしんと、音も立てずに降る白い雪。子どものいない静かなお屋敷。呼吸を止めてしまった主様。私の足音だけが廊下に響く。


「アロイス! アロイス! 開けて! 私よ! アミディアよ!」


 そしてたどり着いたのは、北の大部屋。主様が異世界の領域と呼んだ場所。鍵のかかったその大きな扉を、泣きわめきながら力強く叩く。


「アロイス! 私よ! お願い! 開けて!」


 叩いても叩いても扉の向こうは奇妙なほど静かで、私の呼びかけに答えてくれるものは誰もいない。聞こえるのは私の嗚咽だけ。分かっている。この部屋にいるのは人間ではないということを。この扉の先にいるのは主様のお人形。彼らはもう二度と動くことのない死人なのだ。

 私は殺されるのだろうか。彼に。この真っ暗な廊下の先から彼はやってくるのだろうか。

 最後に、もう一度だけ兄に会いたかった。あの優しい藍色の瞳を見たかった。


「アロイス、私よ…」


 いつしか扉をたたくこぶしは解かれ、私は繊細な装飾が施されたそこに額をつけてうなだれる。頬を伝った雫がぽたりぽたりと手に落ちた。

 この鍵さえなければ。煩わしい。

 主様の部屋に行けば鍵があるだろうか。

 鍵と言えば、ポピーからもらった鍵を、アポイントに使えると思った鍵を、フェリシカに渡すのをすっかり忘れていた。あのときはとてもそれどころではなかったから。フェリシカは今どこにいるのだろう。ポピーに会えただろうか。それともローザたちと、お屋敷の子どもたちと街で会ったかもしれない。

 どうか誰も帰ってこないで。もう、主様はどこにもいない。あの子たちが慕った主様はどこにも。

 どうか何も知らないまま、優しい主様のままで、すべてを思い出に変えてほしい。

 シャロンの本当の姿を知らないまま、綺麗な初恋のまま。

 燃え尽くせ。真実も何もかも。私と一緒に。私はアロイスのもとへ行こう。

 きっともうすぐシャロンはやって来て、その瞳を妖しく光らせながら私をしとめるのだろう。それが私の最期。

 瞳からとめどなく溢れる悲しみ。死への覚悟。

 ポケットから鍵を取り出して、でたらめに鍵穴に合わせる。綺麗な飾りの掘られた鍵だ。まるで豪邸の宝物庫の鍵のような。


 ――宝箱の鍵よ


 そう、たしかポピーもそう言っていたっけ。結局、宝箱はどこにあったのかしら。その中身には何が入っていたのかしら。けれどもここで全てが終わる私には、もうそれを知ることはできない。

 静かだ。私の鼻をすする音しか聞こえない。

 さびしい。

 ほの暗い廊下には私だけ。

 嫌よ、アロイス、怖いの、ひとりにしないで。

 本当は死にたくない。

 お願い、最後に私の名を呼んで。


 ぽたり、それは、俯いて目を閉じたその拍子に私の手の甲に雫が落ちたのと同時に。


 かちゃん。

 鼓膜をたたいたのは想像だにしなかった音。


 そう、小気味の良い音を立てて、私が持っている鍵がくるりと回ったのだ。

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