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手鏡が映しだす姿

 気持ちわるい? 僕が? と主様が嘲るような声を発する。こちらに背を向けているから私はその姿を直に見ることはできないけれど、窓ガラスに反射した主様の、包帯の隙間から覗く瞳はどこか勝気な様子で、ろうそくの光を受けて生き生きと輝いていた。


「うふふ、シャロン、正直になっていいんだよ。僕は美しくなった。醜い僕はもういない。みんなとお揃い。この手も、足も、身体も」


 そして僕の容姿も。主様はゆっくりと立ち上がりながら、するすると顔の包帯を解いてゆく。音もなく床へ落ちてゆく白く長い布。

 じり、とろうそくが右に左に揺れる。

 顔を出した目の前の男を見て、シャロンが一瞬顔をしかめたのが分かった。


「そう、僕は美しいんだ。シャロン、きみと同じだ、美しいきみと同じ世界の住人なんだ!」


 腐り落ちそうな笑い声が部屋に響く。先ほどの痛さも忘れ、目を見開いて窓ガラスに映る人物に釘づけ状態の私。

 これが、主様?

 この男が、あの?

 ろうそくの灯に照らされてガラスに浮かび上がるのは若く美しい男。

 嘘だ。ありえない。

 だって主様はこれほどにお若いわけでもないし、ここまで美丈夫でもない。

 顔が違う。

 いや、顔だけじゃない。

 先ほどから見えているほっそりとした手も、服を余らせているその足や胴体も――


「どうしたの? 今日はご機嫌斜めだね、シャロン。いつものようにそばに来ておくれ。その美しい紫水晶の瞳に僕を映しておくれ」


 信じられない光景に混乱している私の鼓膜に、聞きなれた声が届く。

 わからない。

 やはり目の前の男は本当に主様なのか。

 けれど主様はこんなにも下品で気色悪い雰囲気を醸し出す人だったか。

 でもその声は紛れもなく、私の知っている主様なのだ。私たちお屋敷の子どもたちが父のように慕ってきた主様の。


「シャロン?」


 何も言わない彼を不思議に思ったのか、少しだけ頭を傾げ、ゆらりと細くなった陶器のような美しい手を彼の頬へ近づけた主様。橙色のろうそくに照らされたシャロンの顔は異様なほど白い。額に青筋を浮かべ、気分がすぐれない様子に見えた。


「シャロン、随分と顔色が優れな」


 それは今まさに彼の頬へ手のひらが触れようとしたとき。

 ぱしん。

 乾いた音がかすかに聞こえ、幼い手によって弾かれた主様の手が空をさまよう。


「シャロン?」


 小さく呟かれた、戸惑いを含む声。彼が主様の手をたたき落としたのだ。

 おろおろとする主様と、俯いてしまって表情が見えない彼。それは私にとってはっきりとした拒絶に感じられたけれど、それを認めたくないのか、再び彼のほうへとその美しい綺麗な手を伸ばした主様。けれどもその手もまた、ぱしんと無慈悲にたたき落とされる。


「どうしたの? どうしてそんなに怒っているの?」


 ゆらゆらと炎が揺らめき、情けなく少年の顔を覗き込もうとする男の姿が窓に映った。


「どうして? どうして…ああ、そうか、あの小娘だね。あの小娘が僕のシャロンを怒らせたのか」


 ゆらり、右へ傾く炎。

 主様が悲しみから怒りへと声色を変え、私の方へと身体を向けようと上半身を動かす。

 ゆらり、左へ傾いた炎。

 逃げなければ。

 殺されてしまう。主様に殺されてしまう。

 私の中から湧きあがる、置いてけ放りだった恐怖。


「殺してやる。今すぐ殺してやる。シャロンを怒らせる者などいらない」


 低い低い声が私を震え上がらせ――


「その手が、僕の大切なものに触れたからだよ」


 けれども俯いた彼がその声をかき消すように言葉を紡いだ。


「エディ・ヘデラ、あなたはその手で僕の宝物を傷つけたんだ」


 そして顔をあげた彼は、全てを凍らせてしまうような冷気を孕んだ瞳を不気味に光らせて、うっそりと嗤ったのだった。そんな手、いらないね、と。


 鼓膜を震わせた、陶器が割れるような鋭い音。

 粉々にはじけ飛んだ主様の右手。

 私は自らののど元から、悲鳴にもならないような小さな叫び声をあげた。

 何が起こったのか。

 主様の腕が一瞬にしてなくなった。はじけ飛んで、散り散りになって。

 それでも血が出ていないのはなぜなのか。さきほど聞いた何かが砕け散るような音は一体何なのか。

 自らの片腕を失っても主様は苦しむ様子はない。

 この光景はなんだ。なぜ主様は平気なのだ。

 理解が追い付かないせいか、床に転がったまま体中ががたがたと震える。


「ああごめんね、シャロン、腕が。怒っているのかい? 僕が他の子を見ようとしたのが嫌だったんだね。大丈夫、僕はきみだけを見ているよ。シャロンだけを愛している。ああ、美しいシャロン。だけどおいたが過ぎるなあ。この手は高価なものだったのに」


 せっかく美しい腕を手に入れたのに、それともシャロンはこの美しさに嫉妬したのかい、と見当違いなことを言って彼へと近づく主様。こちらからは表情を見ることができないけれど、そこには彼の機嫌を伺うような雰囲気あるのが声から伝わってきた。


 なるほど、と怯えながらも頭の片隅では冷静になって納得する。彼が手も触れず粉々にしてしまったのは義手だ。弾き飛ばされたのは、陶器でできた美しい義手だったのだ。

 では主様の本当の腕はどこに?

 そしてシャロンは一体どのようにして義手を壊したのか。


「エディ・ヘデラにプレゼントを用意したんだ」


 彼は妖しい笑顔を浮かべたまま主様の言葉を無視するように話題を変え、ポケットから昼のあいだに買ったものを取り出し袋を剥いだと思えば、鏡の面を下にして主様に差し出した。

 鼻息を荒くしてそれを受け取る主様。ここからでは主様の全ては見えないけれど、その口端はだらしなく釣り上がり、まるで片腕を失ったことも先ほどの戸惑いなども全て忘れて喜んでいる様子が伝わった。


「シャロンからの初めてのプレゼントだ。うれしい。シャロンからの。うれしいよ」


 手鏡を表に向けて、銀の面を覗き込む主様。うわ言のようにシャロンと繰り返す主様を見て、彼はすうっとすみれ色の瞳を細めた。


「素敵でしょう? それはあなたを綺麗に映す」


 血のように赤い唇が、上品な発音で言葉を紡ぐ。


「醜いあなたを、それはそれは綺麗に映すでしょう?」


 静かな部屋を通りぬける、凍てつくような声。


「エディ・ヘデラ、その姿をどんなに美しいものへと変えても、あなたの醜さは消えたりしない」


 徐々に主様の顔から笑みが消えていき、酔いしれるような甘い吐息は何かに怯えるような荒い呼吸へと変わっていった。


「シャロン、どうしたの? 今日は意地悪だね」


 鏡を見つめたま、主様が暗く言葉を放つ。よろりと大きな体が揺れた。


「その鏡をのぞき、真実を見つめよ」

「僕は美しい。僕は汚くなんてない」

「その銀色が映し出すあさましい魂は、他でもないあなただ」


 笑みを浮かべつつも蔑むような視線が主様をまっすぐ射抜き、部屋の空気を凍らす。


「嘘だ。嘘。僕は麗しい。この手も、足も、顔も! 僕は美しい!」


 かしゃんと手鏡が床へ落ち、銀の面が砕け散った。きらり、赤みがかったすみれ色の瞳がろうそくの火を集めて光る。

 彼は笑った。哀れな主様を見て、にんまりと陰鬱に。

 そして優しい声でこう言ったのだ。それではその仮面を剥いであげよう、と。


 途端に聞こえ出す、何かがひび割れる音。それは本当に微かなものだったけれど、静かなこの部屋にその奇妙な音はよく響いた。

 私は動けないでいた。そのおぞましい光景に震え上がり、身体はまるで金縛りにあったかのよう。

 異変に気付いた主様が、彼を押しのけ、自身を映した窓ガラスへとぶつかるようにしてへばりつく。そしてひび割れ崩れていく顔を片手で覆い、悲鳴をあげた。


「嫌だ! 僕の美しい顔が!」


 ふらふらと足を動かすたびに手のあいだから零れおちる破片。よろけた拍子にベッドサイドテーブルに置かれたろうそくが火をともしたまま倒れた。


「どんなに表面を取り繕おうとも、あなたの罪は消えない」


 ゆらゆらと、カーテンに燃え移った小さな火が威力を増していき、大きなものへと変化してゆく。


「僕の美しい顔が! 僕の夢が! 僕の願いが!」


 部屋を揺るがす主様の絶叫。指の隙間から覗く、化け物の姿。


「どんなにその姿を偽ってもあなたの内なる醜さは決して隠せやしない」


 力強い声が、魔を宿した瞳が、主様を叱咤する。


「嫌だ! 嫌だ!」

「エディ・ヘデラ」

「嫌だ! 僕は美しいんだ!」

「哀れで罪深き男。僕はあなたを許しはしない」

「醜い僕に戻りたくない!」


 震えが止まらない。今まで見たことのない壮絶な姿に、仮面がはがれた主様の恐ろしさに、恐怖のあまり息ができない。


「さあ、懺悔せよ! 罪を償え!」


 顔を抑えてよろめきながらそこら中のものをなぎ倒し、そして自らも床に転がりこんだ男を見降ろして、燃え盛る炎を背に彼はそう叫んだ。

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