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人探し

 星が輝く寒空の下で必死に走り続けたためか、出てきたお屋敷の扉に触れたころには息をするのも辛く、口から出ていく空気が喉でひゅうひゅうと音を立てた。荒げた息のままではこっそり行動もできないから、ドアノブに手を添えたまま何度か深呼吸をする。こんなに必死に走ったのは初めてかもしれない。額にはじわりと汗が浮かんでいた。

 ローザは無事だろうか。主様は帰ってきているのだろうか。あのあとみんなはどうしたのだろうか。

 色々なことを思いながらゆっくりと手に力を入れ、取っ手を動かす。ことんと小さな音を立てて開いた扉の向こうは、真っ暗な書斎だ。足についた雪を払い落して部屋に入る。こんなところに来る人などいないと分かっているのに、誰かいやしないか僅かに警戒してしまう。


 泣きそうだった。二年前に肝試しをしたときも曲がり角や物陰に何が待っているのだろうという恐怖はあったけれど、今ほど腹のうちから震えがせり上がってくるような言いようのない感覚は強くなかったはずだ。

 逃げ出してしまいたい。けれどもローザが。早くフェリシカが助けを呼んで来てくれないだろうか。来た道を逆戻りするかのように暗い廊下を小走りで進みながらローザの無事とフェリシカの手際の良さを祈る。

 夜の帳が降りたお屋敷の廊下は真っ暗で、窓枠に積もった雪が月の光を集めている状態だ。汗が冷えてきたのか、それとも怖さのせいなのか、先ほどから震えが止まらない。私の押し殺した息と床を踏む足音のみが辺りに響き、不気味なほど静かだ。


 そう、それはまるで誰もいないかのように。


 はたと動きを止めてしまった。

 静かすぎる。

 おかしい。

 もうすぐ子ども部屋の前に来るのに、誰の声もしない。


 なんだか嫌な予感がして、私は進める足を速めた。そうして急いで子ども部屋まで行き、少し乱雑ではあるけれど扉を開ける。

 しかしそこには誰もいなかった。暗い部屋には私の息だけがこだまし、それ以外の何の音もない。

 みんなダイニングに行ったのだろうか。晩御飯を食べに?

 それともそれぞれが自室に戻ったのだろうか。

 扉を開けて、廊下を走り、次の扉を開けて。ときにはクローゼットや戸棚、ベッドの下まで覗いてみても誰もいない。どこにも誰もいない。全ての灯りが消され、そこはまるで廃墟のよう。

 予想外の出来事に、頭は疑問符を浮かべながらそれと同時に感じる恐怖。

 何が起こっているのか。

 みんなはどこへ行ってしまったのか。

 走って走って、行きつく先の全ての扉を開け、そこでさらに青ざめてまた走る。誰もいない。もぬけのからだ。


 そうやって最上階にたどりつく頃には、私は混乱のしすぎで顔が真っ青になっていた。

 ぱたん。細やかに装飾された扉が力なく閉じ、私はそれにもたれるようにしゃがみこむ。そう、助け出すはずのローザも、彼女の一人部屋にはいなかったのだ。

 どういうことだろう。

 訳が分からない。

 私が林を走っている間にいったい何が?

 もしかして、と不意に浮かぶ最悪な考え。

 もしかして、私が逃げている間に主様がお屋敷へ帰ってきていて、今日の騒動を知ったのだとしたら。お気に入りの彼が血を流して倒れ込んだということを知ったのだとしたら。怒り狂った主様が、みんなに何かをしてしまったのではないか。

 震える指先。頭が混乱する。

 見て回った部屋は何も荒れた様子などなく、血のようなものも見つかりはしなかったけれど。子どもを私たちの知らぬ間に人形へと変えてしまう人だ。部屋に異変がなかったとしてもみんなが無事とは限らない。

 私が林を抜けている間、お屋敷に悲鳴が響いていたのだったとしたら。

 いまこの瞬間にも、闇にたたずむ廊下の曲がり角から主様が現れたら。

 とたんにこの暗く広いお屋敷に一人でいることが怖くなって、涙が浮かんだ。息のしかたが分からなくなりそうだ。ぎゅっと握りしめたこぶしを胸に抱いて身体を縮こませる。

 誰か助けて。


 ――アミディア・メイアス、フィフィ、おいで


 アロイス。

 助けてアロイス。

 私はここよ。


 かたん。


 それは俯いた私の髪がひと房、するりと肩から落ちて宙をたゆたった瞬間。ほんの小さな物音がした。

 肩がおもしろいほど撥ね、ひと時だけ息が止まる。咄嗟に音がした方へと遣る視線。

 シャロンの部屋だ。いま、彼の部屋から物音が聞こえた。

 誰かがいる。

 主様だろうか? それとも彼? それとも誰か別の人?

 不安を拭いきれないままではあるけれど、私は静かに立ち上がり、ローザの部屋と同様に繊細な装飾が施された扉へそろりそろりと近づいて耳をすませた。

 小さな小さな鼻歌とともに、ほんのかすかに聞こえるカーテンを開ける音。

 シャロンだ。彼だ。彼がいる。

 だってこれは、アロイスが私に歌ってくれた曲。

 分厚い扉越しに鼓膜をくすぐるのは、トゥイニーの民謡なのだ。

 一度聞かせただけでメロディを覚えることができるものなのだろうか。分からない。分からないけれど今はそんなことなどどうでもいい。私が知りたいのは、今はそれではない。

 息が震える。瞼を閉じて口を引き結んだ。片手をドアに寄り添わせ、ためらいを含んだ動作で片手を扉の取っ手に添えれば、それは集合部屋のものよりも少し位置が高いところにあり、随分と豪華に感じる。

 静かに静かに深呼吸。心臓の音がうるさい。

 もしも彼でなかったら。

 もしも部屋にいるのが主様だったら。

 でも聞こえたメロディも、その声も、確かに彼のものだった。

 大丈夫。きっと大丈夫。

 意を決して手に少し力を入れると、歌声は止み、部屋の中の人物がこちらを見つめるような気配がした。

 静寂。全てが死んでしまったように私の周りの音がしない。

 ゆっくりゆっくりと音もなく扉を開けていく。

 開けていく視界。私は自分の手元から順に、床、壁、窓、と視線をあげ――


 くすり、最近では聞きなれてしまった上品な笑い声。


 目が離せない。吸い込まれてしまうような。


「おかえり、アミディア・メイアス、フィフィ。ここに戻ってきてしまったんだね」


 何の音も立てずに扉を後ろ手で閉じた瞬間、窓際の寝台に腰をおろしている彼は、月の光を背景に桜色の瞳を妖しく光らせて仄暗い笑みを浮かべた。

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