身支度
うっと微かなうめき声が聞こえたとたん呪縛から解かれたようにローザは彼のもとへと駆け寄り、ぐったりと床に倒れ込んだ彼を抱き起こす。
頬をはられた彼が転がった先は運が悪く積木の上で、その角で頭をぶつけたのか、こめかみのあたりから赤い血が白い肌を伝い、ぽたりぽたりと床を染めた。
「私、違うの、ごめ、そんな、シャロンが、どうしよう」
誰もが彼に釘付けになっている横で空気を揺らしたフェリシカの震える声。随分混乱しているのか、自分の伝えたいことをうまく言葉にできないでいる。
どうしよう。
顔面蒼白なのはフェリシカだけではない。私もまた、この状況に青ざめていた。
どうしよう。
どうすればいい?
わからない。
逃げないと。
今すぐ。
今すぐ逃げないと!
弾かれるように動き出した私は、フェリシカの手をつかみ子ども部屋を飛び出した。扉を閉じる間際にローザが私の名を叫んだけれどそんなことを気にしている場合ではない。もうすっかり日が暮れてしまい暗くなったお屋敷の廊下に二つの足音だけが響く。思考が追い付いていないのか、フェリシカはただ黙って私に手を引かれている状態だ。
吐きそうなほどに気分がすぐれないのは、きっと三日月に歪んだ赤い唇のせいだ。
――きみにもプレゼントをあげるよ
漠然とした恐怖と不安が私を侵食していく。
走りながら思い出すのは、フェリシカが手をふりおろしたあの瞬間。ローザを庇い、頬をぶたれた勢いで床に転がりこんだ彼。鮮血が肌を流れる直前、俯き乱れた髪の隙間から覗く吊りあがった赤い口を私は見逃さなかった。
なぜ彼は笑っていたのか。
なぜあの時の彼はあんなにも余裕そうな表情をしていたのか。
彼は何を企んでいるのだろうか。
私の予想は当たっていると思う。彼は自らこの騒動を仕組み、そして私へのプレゼントに日常の崩壊と主様の制裁を贈るつもりなのだ。そして“とっておきのプレゼント”として主様に生贄――それは私でもフェリシカでもどちらでもよかったのかもしれない――をささげるつもりなのだ。
今すぐここから離れないと。
今すぐ彼から、そして主様から逃げないと。
蹴破るように開けたドアの先には私たちが寝泊りをしている集合部屋。未だ震えているフェリシカをドアの脇に立たせたあと、急いでクローゼットを開けた私は半ば乱暴に彼女へコートとマフラーを投げつけた。彼女が落ち着くまで待ってあげたいけれど、今は時間がない。
「フェリシカ、いい? 本当に欲しいものだけを持って、今すぐここから出ていくのよ」
そういいながら私も自分のコートを引っ張り出す。焦りのせいかボタンが上手く掛からないのがもどかしい。
「なに…」
コートの最後のボタンをかけ終わるころ、ようやくフェリシカは言葉を発した。その目は涙にぬれていて、とても悲痛な表情をしている。
「シャロン、しんじゃった。私のせいだわ。私が」
先ほど渡したコートとマフラーを抱きしめ、そこに顔をうずめるフェリシカ。
「大丈夫よ、フェリシカ。彼は頭を打っただけだわ。生きてる。あなたは殺していない。さあ着替えて早く」
そんな彼女の肩をつかんで顔をあげさせ、すこし乱暴にではあるけれどコートを着せていく。
「どうして着替えるの?」
だまって着せられているフェリシカが不安そうな顔をして、ボタンを留めている私を見降ろした。
「出ていくのよ。ここから。今すぐ」
手が震えるせいで上手にボタンがはまらない。
「追い出すの? シャロンを傷つけたから? 追い出すの!? 嫌よ!」
ボタンをかけ終わりマフラーを巻く時になって、彼女は激しく抵抗を示した。捨てないで、と、叫び声が耳をつんざく。焦りが小さな苛立ちを生むのが分かった。
「大丈夫。静かに。大丈夫よ。私も一緒に行くわ。一緒にポピーのところへ行きましょう」
半ば叩くように彼女の頬を両手で包んでその動きを封じ、大丈夫、と繰り返す。私だって泣きたい。けれど、泣いている場合ではないのだ。
そうしているうちにフェリシカは落ち着いてきたのか、自分のベッドのもとへ行って持って行く荷物を選び始めた。それを横目に、私は自分のベッドのマットの下に手を突っ込んで、そこから掌より少しだけ大きいサイズの白い袋を取り出す。時おり内職をして稼いだお小遣い。主様の異常性に気づいた大掃除の日以降、コツコツためて、いつかお屋敷を出ていくときに使おうと思っていたものだ。
そしてそれと同時にマットの下から出てきたのは、ポピーからもらった宝箱の鍵だった。一瞬それを見捨てようとは思ったけれど、もしかすればポピーと会うときにアポイントを取るための道具に使えるかもしれないと思い、白い袋と一緒にポケットに突っ込んだ。
「行くわよ」
まるでそれが、用意、どん、のかけっこの合図のようだった。準備ができたフェリシカの腕を引っ張り、ひたすら廊下を走る。
――ここを曲がったら、突きあたりの奥から二つ目の部屋。この部屋に入るんだ
今日覚えたばかりの道順を思い出して角を曲がる。玄関から出ていくにはあまりにも誰かに会う危険性が大きいと思った私が選んだのは、皮肉にも彼が教えてくれた、外へと続く扉へと向かう道だった。