けんか
耳鳴りが止まず、頭がぐらぐらする。見える世界は安定しているのに、指先や足から感じる世界が揺れて地面が波打つ感覚。それは叩かれたせいなのか動揺のせいなのか。
床に転がったままの私。嫉妬にぬれた目で私を睨んでいるローザ。
「アミー!」
唖然とした私のもとへフェリシカが駆け寄ってきているのが声と気配から分かった。けれど頭が混乱して返事もできない。支えられながら立ち上がり、何が起こったのかを頭の中で必死に考える。
「ちょっとフェリシカ! 割り入ってこないでよ! この子は今日! シャロンを横取りしようとしたのよ!?」
誰もが固唾をのんでいる円の中心で、ローザが甲高い苛立ち声をあげた。それに対してフェリシカは何も反応をせず、ただ私の肩を支えて大丈夫? と問うだけ。
横取りとは何のことを言っているのかさっぱり分からないけれど、これだけは何となく感じる。
ばれたのだ。
2人で出掛けていたことがみんなに知られてしまったのだ。
ドアを開ける前の奇妙な喧騒は私たちの秘密の外出が原因であり、ローザの鬼のような形相もその中に入り混じる涙と悲しみもすべて私のせい。普段あまり感情をはっきりと出さない彼女を直情的にさせているのは私。
「私の気持ちを知っておきながらあなたは! 憎い! アミーが憎いわ!」
この騒動はきっと主様の耳に入る。今日中に。そして私は、主様のお気に入りに無闇に近づいた者として、そして主様のお気に入りを怒らせ泣かせた者として、誰も末路など知らない闇の果てへと捨てさられてしまうのだ。
「ローザがシャロンを好きだからって、アミーを叩いていい理由なんてないわ!」
耳元でフェリシカの大きな反論の声がして、それが私の脳内をわんわんと揺らす。
――大丈夫だよ。行こう。
どうして私は彼の言葉を信じたのだろうか。どうして私は彼とお屋敷を出て行ってしまったのだろう。どうして私は彼からのお誘いを断らなかったのだろう。
「あるわよ! フェリシカだって知っているでしょう!? アミーとシャロンはときどき隠れて2人きりで会っていたのよ!?」
吠えるようにローザが叫ぶ。
――いままで僕たちが二人きりで会っていたのを誰か知っている人はいるの?
紫の瞳が万華鏡のように思考に広がり、ローザの声が何度もこだまする。
彼女は知っていた。私たちが時々会っていたことを知っていた。私が彼に近づくならまだしも、いつも彼の方からやってくるからばれていないと思ったのに。彼ならうまく隠して来ているのだと思ったのに。ローザは私たちが時おり友だちのいない場所で2人きりで話していることを知っていたのだ。そしてローザの口ぶりから考えて、このことはフェリシカも知っているらしい。
どうして。彼ならうまくやっていると思ったのに…どうしてばれたの?
彼がそんなへまをするような人なのだろうか。
赤い唇をもって魅惑的に嗤う彼が、そんなへまを?
――私、あなたと街へ行く必要があったのかしら
――僕たちが二人で出掛けることに意味があったんだよ
彼の声がふいに記憶の中から響く。
もしかして、わざと?
彼は敢えて彼女たちに分かるように私に会いに来た、ということは考えられないだろうか。
「それが何だって言うのよ! だれに会おうとアミーとシャロンの勝手じゃない! あなたがアミーを憎むのは間違っているわ!」
叫ぶようにフェリシカが吠える。
――きみにもプレゼントをあげるよ
妖艶な微笑みを添えて落としたあの台詞はどういう意味を持つのか。
――エディ・ヘデラにとっておきのプレゼントを用意したいんだ
街へ出たとき、“とっておきのプレゼント”を彼はなぜ吟味せずに購入したのか。これでいいや、と“とっておきのプレゼント”を選んでいる割にはあまりにも軽い一言ではなかっただろうか。
そもそも、彼の言う“とっておきのプレゼント”とは本当にあの手鏡のことなのだろうか。彼はこのようなちっぽけな安い手鏡でプレゼントを済ます人なのだろうか。
――ちょうどいい、もうこのお屋敷の生活にも飽きてしまったところだし…そう、冬がいいな。白い雪が積もった日。雪が降っていてもいいかもしれないね
窓の外には朝から降り積もった白い雪。
もしもローザとフェリシカと私が彼の暇つぶしの道具だったら。もしもこの騒動が彼の仕組んだことだったなら。もしも、主様へ贈るプレゼントが私という生贄で、私へのプレゼントが幸福の崩壊だったら。
次々に思考がわいてくるのにそれをまとめたりかみ砕いたりする余裕がなくて、思いついた考えをただ垂れ流しにしてしまう。
落ち着かないと。私は次に何をするべきなのかを考えないと。
フェリシカに肩を支えられながら震えを隠してふうと深呼吸をし、熱が集まった頬に手を添える。女の子の力なんて高が知れているのか、冷たくなった指先で触れた頬は痛みの割には全然腫れた様子はなかった。
そして視界の端で子ども部屋の扉が開くのを僅かにとらえ、ただ何かが動いたからという理由で目線を遣った先にいたのは戸惑って周りに今何が起こっているのかを尋ねている彼だった。
何と白々しい。
それとも彼にとってこの状況は本当に想定外のことだったのだろうか。
わからない。
もう何もかもが分からない。
ふらふらする思考で、シャロン、と、声をかけようと思ったそのとき。
「あなたもアミーに裏切られたのよ!? それなのにアミーをかばう気!?」
それはローザにとっては何も考えずに叫んだ言葉だったかもしれない。けれども彼女の一言は、私を鋭く貫いた。
裏切り? 私のやってきたことが、裏切り…
ざっと血の気が引く。隣を見ることができない。
フェリシカは?
フェリシカはどんな顔をしているのだろう。
アロイスを失った私を今まで支えてくれた心優しいルームメイトは、自分が想いを寄せている相手と私がこっそりと出掛けたことを知ってどう思ったのだろう。好きな人と私が誰にも内緒で会っていたことを知りながら、どんな気持ちで私に笑いかけていたのだろう。
よくよく考えてみれば、私は最低なことをしてしまったのかもしれない。いくら彼が怖くて誘いを断れなかったからといって、これはローザとフェリシカに対する裏切りなのではないか。彼がこちらへ近寄ってくることを最近は諦め半分で受け入れていたけれど、たとえそれが彼の勝手な行動だとしても、彼女たちの気持ちを考えるべきだった。
「…妬ましいわ」
フェリシカにしては静かな声が鼓膜を揺らす。
「確かにアミーを妬ましく思うこともある。けれど、大切な私の友だちなの。私たち、あなたよりずっと長いこと一緒にいるの。きょうだいなの」
妬ましさよりも好きな気持ちが勝つの、と。そっと隣を見ると、彼女は強い眼差しでローザを見ていた。みどり色のキャンディのような瞳。唇がわななき目頭が熱くなる。私を支えているこの手はこんなにも――彼女はこんなにも私を好きでいてくれていたのに、私は。
ごめんなさい、あなたたちを傷つけるつもりも、裏切っているつもりもなかったのと繰り返し謝った。涙が止まらなくて上手に喋れなくて、どうしようもない。
「なによ良い子ぶって! 知っているわ! こう言うのを偽善者っていうのよ!」
半ば異国語を喋るような支離滅裂な言葉でごめんなさいと繰り返したけれど、ローザは怒りに染まった目つきのまま顔を真っ赤にし、今度はその怒りの矛先をフェリシカへ変えたようだった。
そして次の瞬間。
「あなたがそんなんだから、親に捨てられたのよ!」
それは急に首を絞められたような、息が詰まる言葉。
一瞬でその顔を般若に変えたフェリシカがローザの襟首をつかみ、私たちを傍観している誰かがきゃあと悲鳴をあげたのが聞こえた。
「言っていいことと悪いことがあるわよ! ローザ!」
まずい。
「あなたがそんなんだから親は愛想をつかしたのよ!」
取っ組み合いのけんかが始まり、それに合わせて周りもざわざわと騒がしくなる。
「黙りなさいローザ! お父様とお母様は私を捨てたわけじゃないわ!」
まずい。もしフェリシカがローザを傷つけてしまったら。主様のお気に入りに手をあげてしまったら。
「いいえ! あなたはいらない子だったのよ!」
ローザがそう叫んだ瞬間、フェリシカの目がかっと開くのが見えた。
まずい…!
血の気が引く。最悪の未来が一瞬で浮かぶ。
「ローザ! よくも!」
そう言うのが早いか、手を振り上げるのが早いか。
体中の神経がフェリシカの腕に集中する。
後ずさったローザの髪の毛が空気にたゆたい、フェリシカの右手が風を切る音がした。
だめ!
声にならない声が出て、私はフェリシカの腕に覆いかぶさろうとする。
けれどそれも間に合わず――、一瞬だった。
私が伸ばした手の一寸ほど先で響いた、誰かが何かにぶつかる大きな音。
辺りは水を打ったように静かになる。
抵抗を示した恰好のまま目を見開いたローザ。
右手を抱くようにして震えるフェリシカ。
手を伸ばして青ざめたまま動けない私。
そして、床に倒れ込んで俯いているシャロン。
崩れてバラバラになってしまった積木。淡雪の肌に鮮血がつたう。
終わった。
――アミディア・フィフィ、おいで
輝いていた日常はもう戻ってこない。
何もかもが崩壊する。
かつてフリージアの頬をぶったポプリはどうなったか。
「ちが、違うの。私はそんなつもりじゃ…」
鈴のような大きな目に涙をためて、違うの、と繰り返し震えている彼女はこれからどうなるのか。
彼がローザをかばってフェリシカにぶたれた。
彼女は主様のお気に入りに手を出したのだ。