二人きりのお出かけ
街へ行くには門からずっと先へ続く道をゆくしか方法はないと思っていたから、こんな裏道があるなんて知らなかった。
林の中、肩に降り積もる結晶をときおり手で払いながらこっそりと感動していた。
彼は私の右手を離すことなく、降り積もったばかりの真新しい雪を踏み固めながら歩を進めていく。その道は最初は木のトンネルだったところがいつしか整備された並木道へと変わり、さらに進むと人がまばらに歩いている街の入り口へと繋がっていた。
玄関口から出たときよりも短い時間で来れた。そのことに感動している私をちらりと見て微笑んだ彼は、そのまま前に向き直り私の手を引いて街の中へと歩き出す。次第に人は増え、店も多くなってきた。
「ここに来るのは初めて?」
「ええ、こっちの方に来るのは」
溢れる活気に、きらきらと輝くショーウィンドウ。お洋服屋さんに、雑貨屋さん、帽子屋さん、靴屋さん。カフェにレストラン、バーまで。そこは私の知っている街とは全然違っていて、同じ街でもこちら側はこんなにも華やかなのかと感動してしまう。見慣れない景色に夢中で前を向いていないからか時おり人にぶつかりそうになるけれど、そのたびに彼が私を軽く引き寄せてくれた。
「シャロンは主様にどんなプレゼントを買うの?」
進めば進むほど、人は多くなるばかり。もしかしたら私たちは街の中心に向かって歩いているのかもしれない。
「そうだなあ」
粉雪と人ごみの間を縫いながら、少しばかり悩んで視線をさまよわせる彼。そしてその直後、あ、とある方向へと向かって歩き始めた。手が繋がった状態のせいで、必然と私もそちらへ進む。
そして一つの小さな雑貨屋さんにたどり着き、あまり物色をすることもなく、店の入り口のそばの棚に飾られていた手鏡を一つ手に取ると、軽い口調でこう言った。
「これでいいや」
あっけない。
それは私が思わずえっと素っ頓狂な声をあげてしまう程あっけないものだった。
とっておきのプレゼントと言ったからどんなものを考えているのかと思ったら。
確かに主様は綺麗なものがお好きで、彼が手に取ったその手鏡も細かな細工が施されていて美しいけれど、そんなに値も張らない雑貨に即決するとは。
もしかすると彼はプレゼント選びが得意ではないのかもしれない。贈られることには慣れているけれど、贈ることには慣れていないのかもしれない。
「本当にそれにするの?」
「うん、そうだよ?」
「鏡にしても、もっとほかのいいのにしたら? それじゃあ女の子っぽいような気がするし…」
「これでいいんだよ」
なんだか心配になって彼に確認を取ったり意見を言ってみたりしたけれど、彼はこれでいいんだよと返してくるだけで、さっさと会計を済ませて購入してしまった。
満足そうな彼の手元には安物の手鏡。しかもそれは何の包装もされておらず、ただ小さな紙の袋に入れられているだけだ。あまりの飾り気のなさに思わず苦笑してしまう。
「本当にそれでいいの? リボンや包装紙も買う?」
店を出たあとに再び手をつながれたことには触れず、私はもう一度だけ右隣に問いかける。けれど彼の意思は変に固いようで、このままでいいよ、と包まれた手鏡をちらりと見てから返事をするだけだ。でも、と言いかけたとき、ふいにこちらへ向いた紫の瞳。それは彼にしては珍しく、どこか無邪気な印象を抱かせた。
「大切なのは相手がどう感じるかだよ、アミディア」
それは確かに何となくわかる言い分だ。それならば彼は敢えてこの商品を選んでそのような冴えない包装のままでいるのか、それとも案外そこらへんの感性が鈍いのか。けれど上等なものがどのようであるかを日々主様によって目にしてきた彼は、質で物を選べないということはあり得ないような気がしないでもない。
「エディ・ヘデラはきっと素敵な反応を見せてくれるよ」
プレゼントを渡す瞬間を思い描いているだろう彼の声は妖しい響きを伴い、仄暗い靄を漂わせる。
その姿を見て僅かに跳ね上がってしまった肩と、うっすらと姿を現し始める疑惑。
彼は主様にどんな反応を望んでいるのだろうか。
彼はあまり主様に対してどんな感情を持っているのかは分からないけれど、もしも負の感情をもっているのだとしたら、安物の手鏡を贈ることで主様が落胆する様を期待しているのかもしれない。なんだか彼にしては子どもらしい振る舞いのような気もするけれど。
私は彼のことをあまり知らない。いつも謎に包まれた彼の思っていることを推測できない。もしかすると本当に純粋にプレゼントを選んだ結果がそれなのかもしれないし、他の思惑があるのかもしれない。
けれど、確かめたい真実を知る勇気はどこにもない。
私は黙って右手を引かれながら彼と共に華やかな街を見て回り、ときどき店のショーウィンドウに釘づけになっては胸の内にくすぶる違和感をかき消そうと努力をした。
「今日はありがとう、アミディア」
楽しいような不安で落ち着かないような時間も終わりがやってくる。いつの間にか雲が薄くなって雪は止み、辺りは橙色の夕日に包まれてきた。もう帰らなければいけない。
来た道を戻り、今は林の中。静かな空間に二人分の息が響く。
「私はなにもしていないわ」
「いいや、きみはちゃんと手伝ってくれたよ」
柔らかい雪をぎゅっと踏む音。伸びる二つの影。手は繋がれたまま。
「プレゼントを選んだのはシャロンよ。私は見ていただけだもの」
「そんなことはないよ」
もうすぐ晩ご飯の準備の時間だ。みんなは今、何をしているかしら。フェリシカやローザにはばれていないかしら。マリーは私たちを探しはしなかったかしら。もし、最悪の事態が起きていたらどうしよう。
「そんなことあるわ。私、あなたと街へ行く必要があったのかしら」
お屋敷を直前にして甦る不安をかき消すようにおどけてみせると、彼は赤い唇の端をゆるりと上げ、僕たちが二人で出掛けることに意味があったんだよ、と良く分からない斜め上の回答を返してきた。だからそれについては何も言わず、黙って前を見る。
木々が途切れた先には、お屋敷の、私たちが出てきた扉。
二人だけの秘密のお出かけはおしまいだ。
いやいやではあったけれど、初めてみる華やかな街で過ごす時間は夢のようでもあった。
半日繋がれていた手は離され、ことん、と小さな音を立てて扉が開く。
「私はこのまま子ども部屋に行くわ。たぶんみんなそこにいるだろうし」
部屋は随分と暗い。私は首に巻いていたマフラーを解き、着ていたコートと帽子を脱いで、それらをそばの机に置いた。その行動を見ただけで彼は私が今この瞬間から別行動をしようとしていることが分かったらしく、静かに頷いたあと、アミディア、と囁くように私の名を呼ぶ。
何、と問う前に、彼は優雅な手つきで私の髪をひと房すくい、そこにキスを落とした。
「今まで付き合ってくれたお礼に、きみにもプレゼントをあげるよ」
それはそれは妖艶な声を添えて。
すみれ色の瞳。
淡雪のような肌。
血のような唇。
ぶわりと逆立つ全身の毛。
私はもう彼が何をしたいのか分からない。
優しく笑ったと思えば冷たい声を放ったり、無垢で純粋な振る舞いをしていると思えば妖しげな雰囲気を醸し出したり。それは時に私を魅了し、時に強烈な恐怖を感じさせる。
彼はどんな人で、何がしたいのか。
私にどういった反応を求めているのか。
薄暗い廊下を行く歩調が自然と早くなってしまっているのが自分でも分かった。
あれがローザやフェリシカなら、頬を桜色に染めたかもしれない。けれども美しい彼の口付けは、私にとってはひどく恐ろしいものに感じられた。
どうして? わからない。いや、分かっている。
私は彼が人間でない影を宿した瞬間、強い恐怖を感じるのだ。
プレゼントとは何だろうか。彼は何をたくらんでいるのだろうか。
ふうっと胸騒ぎを無視するように深呼吸をし、子ども部屋の扉のドアノブへ手を添えた――その瞬間。
なにやら部屋が騒がしい。
異変は外にいても分かった。
いつもの笑い声が聞こえず、薄暗く攻撃的なざわめきが扉越しに伝わる。
不思議に思って恐る恐るその扉を開けると、子どもたちは部屋の真ん中あたりに集まって何かを言いあっているようだった。
その輪の外側には困ったようなフェリシカの姿。
扉を閉めて彼女の方へ近づいていくと、ざわめきの中、フェリシカが私に気づいてアミーと口を動かしたのが見えた。
「どうかしたの?」
私がそう言うのが早いか、フェリシカが押しのけられるのが早いか。
誰かがあっと声をあげた次の瞬間。
大きな破裂音と、そのあとに続く強い耳鳴り。
突然の力に耐えきれず、床に転がるように倒れこむ。
唖然として、声も出なかった。
何が起こったのか。
わからない。
何をされたの。
私を射抜く強い視線。
終わる。
何もかもが。
守り続けてきた平和の日々が終わる。
私は、鬼のような形相をしたローザに頬を強くぶたれたのだ。