魔法の呪文の正体
「ティロリア地方のことは知ってる?」
私がベンチに座るやいなや、彼は私の疑問に答えることなく疑問符のついた言葉を投げかけてきた。
妖しく光る桜色の瞳に一瞬ひるんだけれど、それよりも、なぜ、どうして、という好奇心に似た衝動の方が強く、それが私の震えを抑えていた。
「名前は…どこかで聞いたことあるわ。どこでだったかしら」
「僕が前に一度話したものかな?」
「ああ、そうかもしれない」
それがどうしたというのか。私はそれよりも彼がなぜ、アロイスの言葉を使うのかが知りたいのだ。
じれったさのせいか思わず返事が棒読みになる。
「ティロリア地方はここよりもずっと西の、山に囲まれた小さな地域のことをさしていて、言葉も文化もこことは少し違うんだ」
けれど彼は私の落ち着かない態度など気にすることなく話を続ける。月を見上げたまま、思い出すように。
地理のお勉強をしたいわけではないのに。早く真実を教えてほしい。
「ティロリア地方にトゥイニーという大きくも小さくもない町があってね、金物が有名だったそうだよ」
風にあおられた木がかさりと音をたてて揺れる。
彼はひとときだけ間を開けた後、ふう、と息をついて話を続けた。
「ある日その町が盗賊に襲われたんだ。何の前触れもなく、突然やってきた盗賊にね」
盗賊に…?
地理の勉強かと思ったけれど地域史のお勉強なのだろうか。不穏な内容に思わず眉をひそめたけれど、なおも話は続くらしい。
なぜ彼はこんな話をするのか。
先ほどの流れで、なぜ?
この流れでこの話を持ち出してくる意味なんて――
「全滅に近かった、って。そこまで住人が多いわけではなかったから、盗賊の数も少なかったそうだけれど、みんなが殺されるのはあっという間だったそうだ」
むごい光景だったらしいね、と、不意にわたしを見た彼。
優しく、けれど困ったように細められた目元に少しだけびくりとする。
白い儚げな手が私の方へと伸ばされ、そのまま頬を撫でた後、流れるように首筋へと降りて行った。
あ。まただ。また、動けない。金縛りにあったみたいに、彼の瞳に釘づけになってしまう。
「アミディア、きみは今いくつ?」
「きゅ、9歳…」
指先が冷えていく。
「このお屋敷にやってきたのはいくつのとき?」
「…5歳のとき」
「そうだね」
トゥイニーなんて町、聞いたことがないけれど。
「おにいさまの手に引かれて…」
「そう」
どうして、あいまいな記憶の中で、叫び声がこだまするのか。
「まさか」
「そう、まさか」
彼の掌が、するりと首筋をなでた。
「トゥイニーが襲われたのは今から4年前。生き残ったのは2人の子どもだったというよ」
桜色の瞳。
空にうかぶ、青白い月。
影を落とす春待ちの木々。
「そんな…」
私のはっきりとした記憶は、5歳の、この大きなお屋敷にやってきたときから始まる。それ以前のことはひどくあいまいで、思い出せるのは犬を飼っていたような気がするとか、家の近くに公園があったかもしれないとかそう言ったものばかりだ。
私のおかあさまもおとうさまも、アロイスのご家族も。
みんな殺されてしまったの?
記憶のどこかで誰かの断末魔が聞こえたような気がして、血の気が引いた。
「私」
「うん?」
「私、全然、覚えていないわ」
「そうだろうね」
「そんな、どうして?」
「アロイスがそうしたからだよ」
「アロイスが?」
「そう、彼が」
「なぜ? どうやって?」
「きみを守りたかったからだよ、アミディア」
「どうして、わ、私は、助かったの?」
「アロイスがきみを守ったからだよ」
優しい声が耳に届く。
首筋にあった手が再び頬へと昇り、私の肌をなでた。
ざわざわと心の中が騒がしい。それとは逆に、辺りはいやに静かだ。
「ニーノという言葉は、ティロリア地方で使われるものだ。子どもをなだめるときや褒めるときに使う“いいこ”っていう意味だよ」
そしてきみが先ほどうたっていた歌はおそらく、トゥイニーの民謡だよ、アミディア、と、彼は悲しそうに微笑んだ。