前編
「月のころはさらなり」の続編。距離を詰め切れない、咲耶と和穂のお話。今回は咲耶視点で。
「――咲耶さん」
己に集中する周囲の視線を、まるで意に介さず、
森和穂その人は、美しい笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってくる。
弟の友人である一つ年下の彼は、ある夏の日に突然咲耶の前に現れて、
いつの間にやらその日常に入り込んでしまった。
「君、えらい目立っているわよ」
咲耶の通う女子大の正門前。
待ち合わせ場所をここに指定した自分を棚に上げて、
咲耶はからかうように口にした。
「そうですか?」
しかし和穂は、別にどうでも、というように肩を竦めると、
すっと横に並んで歩き始めた。
「気にならないの?」
「なりませんね」
間髪入れぬ即答に、咲耶は、ぷ、と噴き出した。
「清々しいまでの無関心ね」
「目の前に、自分の最大の関心事があるというのに、
何でそれ以外のモノに、気を散らす必要があるんですか」
和穂が口にする言葉は、いつだってひどく直截的で、
咲耶の心を容易に乱してしまう。
彼は、言葉を美々しく飾ることをしない。
「――はいはい」
頬が染まるのを誤魔化す様に、咲耶は足を早めた。
自分の心臓を跳ねさせるような言葉を、
この年下の青年は、まるで何でもない事のように口にする。
それが、咲耶には少しばかり不本意であり、不安でもある。
「咲耶さんこそ、気になりませんか?」
そんな思いに耽っていると、和穂が顔を覗き込むようにして尋ねてきた。
「何が?」
その整った顔に向かって首を傾けると、
和穂は、やれやれといったように、視線を逸らして空を仰いだ。
「道は遠く険しい」
「道?」
それには答えず、「でも、そういうのも悪くない」と呟くと、
和穂は、くす、と笑って咲耶を促した。
「少し急ぎましょう」
* * *
玄関を開けると、雅耶が過保護な父親宜しく難しい顔をして腕を組み、
突っ立っていた。
外の物音を聞きつけて、待ち構えていたのだろう。
「――ただいま?」
「遅い」
腕時計を確認すれば、午後七時過ぎ。
「道場から帰ってくるのだって、これより遅いくらいよ」
咲耶は笑いながら靴を脱ぎ、雅耶の横を通り過ぎる。
「それに一緒に居たのは森君だし、家の前まで送ってくれたし」
その森君だから、心配してるんじゃないか、と
ブツブツ呟きながら、雅耶は後を追ってくる。
「顔を見せないで帰るとか、何か疚しいところがあるんじゃないのか?
どこに行ってたんだよ」
あいつ、咲と出掛けるんだ、と僕に言っておきながら、
思わせぶりに、どこに行くのか口を割らなかった、と尚も言い募る。
「映画を見て、喫茶店で珈琲を飲んできただけよ」
「映画?」
「そう。『七人の侍』」
「は?」
「だから『七人の侍』」
「……」
振り返ると、雅耶が壁に向かって片手をついて笑っていた。
「何なのよ」
「『七人の侍』って……」
「ほら、雅耶とも観に行ったでしょう?
ちょうど再上映していて、森君は見逃したって言うもんだから」
「そりゃ、顔を見せないわな。
敗北感満載の顔を、僕に見せられるわけがない」
そう言って弟は、ひーと涙を零しながら笑い続ける。
「何の敗北感よ」
「いやいやいや。さすが姉上。
ちなみに、今流行の『麗しのサブリナ』あたりを観ようとは思わなかった?
英文科在籍の咲耶サン」
眦の涙を拭きながら、弟は尋ねた。
「あんな中年男相手の恋愛もの、面白いのかしら?」
「ボギーも形無しだね、全く。
でも、あの映画は、ヘップバーンを観るためのものなんじゃない?」
「そうなの?」
「そうなんだよ! で、どこで待ち合わせしたのさ」
「正門前」
「……正門前って、咲の大学の?」
「そう。迎えにきてくれたの」
あいつめ……と口許をひくつかせながら、雅耶は咲耶の肩を叩いた。
「明日大変だと思うけど、まあ、頑張りなよ。
どういう付き合いをするつもりにせよ、
咲はそろそろ、和穂のことをきちんと見た方がいい」
「きちんと見ていないって言うの?」
「見ていないんじゃないな。どちらかといえば、見えていないんだ」
全く、咲が鈍いからって、いいように付け込みやがって、と唸りながら
雅耶は足音荒く廊下を歩いていく。
その後ろ姿を、咲耶は口を尖らせて見送った。
「……何なのよ」
* * *
翌日、大学の構内を歩いていると、
咲耶はわらわらと友人たちに取り囲まれた。
「咲! 昨日の、あの男性は何者?」
「巷で流行りの何とか族とは、一線を画した佇まいだったわ!」
「周囲から熱い視線を送られているのに、まるで気にも留めないで」
興奮する友人たちの勢いに押されながら、咲耶はどうにかこう口にした。
「……何で知っているの?」
「「「そりゃあ!」」」
「目立っていたもの!」
「誰を待っているんだろうって、密かに様子を伺っていたら」
「そこに現れたのは咲で!」
「「「あの笑顔ったら!」」」
「反則だわっ」
きゃあ、きゃあ、とはしゃぐ友人たちに、咲耶は少々仰け反る。
「クールな表情が一転して」
「待ち人来たり! って感じになって」
「で? どういう関係?」
「どういうって……」
成程、雅耶が言っていた「大変」とは、こういうことなわけだ。
森和穂は、人目を引く容姿と、雰囲気を持っている。
それは、彼と会うたびに思い知らされる事実であったけれど……
いくら迎えに行くと言われたからといって、
女子大の正門前にひとりで待たせるのは、正しい選択ではなかったようだ。
咲耶は苦笑しつつ、友人の問いに答える。
「一緒に冒険に行こうって誘ってくれた男性、かな」
「「「――は?」」」
「なあに? その冒険って」
「思わせぶりに言わないで。気になるじゃないの」
「あんな素敵な男性と、いつ知り合ったのよ?」
騒ぎ立てる友人たちに囲まれながら、咲耶は教室へと向かう。
席に着いても、友人たちの追及の手は勿論緩まなかった。
「「「『七人の侍』!?」」」
「デートに、何で、またその選択?」
「デートというわけじゃ……」
咲耶のささやかな反論は、あっさり捻じ伏せられる。
「「「それは、デートと言うんです!」」」
「有り得ない、有り得ない」
「デートのつもりもなく、男性と二人映画を観に行くとか」
「しかも……」
「「「『七人の侍』!!」」」
友人たちが咲耶に詰め寄る。
「彼、何ですって?」
「『なかなか面白かった』って言ってたけど」
咲耶は友人の一人に、がし、と手を握られた。
「咲。あなた、色々間違っている」
別の一人が、その友人の手を払って、咲耶の手をがし、と握った。
「あんな極上の男相手に、そんなのんびり構えていたら、
あっという間に、どこぞの女狐に攫われちゃうわよ」
「極上の男って、雅耶の友達なんだけど」
更に別の一人も、その友人の手を払い、咲耶の手を、がし、と握り締めた。
「ひとつくらい年下だからって何だっていうのよ。
もっと危機感を持ってみようか」
「「「わかった?」」」
「……はい」
勢いに押されて、思わずそう返事をしてしまった咲耶であるが、
正直、危機感と言われてもピンとこない。
「七人の侍」の何がいけないのよ。
いずれ、映画史に残る傑作とされるはずよ。
――それに。
咲耶にとって森和穂は、弟と近い位置に立つ、
少し……他の誰かよりもほんの少しだけ余分に、心に掛かる存在に過ぎない。
今は、まだ。
そうじゃない?
しかし昨日の余波は、これで終わりではなかった。
講義を終えて、その友人たちと学食で昼食をとっていると、
テーブルに、すっと影が落ちた。
「重松さん」
呼び掛けられて視線を上げると、
化粧も髪型も洋服も、いかにも手のかかっていそうな装いの一群が、
こちらを見下ろしている。
財閥系銀行頭取令嬢として知られるクラスメイトと、
その取り巻きたちであった。
日頃、彼女たちとの接点は殆ど無い。
「森和穂さんとは、どういったお知り合い?」
そう高圧的に尋ねられて、咲耶は首を傾げる。
「森君を知っているの?」
「知っているも何も……」
腕を組み、人さし指で頬をトントンと叩きながら、
咲耶を鋭い視線で観察していた彼女は、やがて何やら納得したように頷いた。
「――もういいわ。大したことじゃなかったみたい」
周囲の取り巻きたちにそう言うと、彼女はくるりと踵を返して、
振り向きもせずに歩み去っていく。
「何あれ。嫌な感じ」
隣に座った友人が、その後ろ姿にあかんべーをする。
咲耶は、手にしていた茶碗と箸をことりと置いた。
食べかけていた昼食が、急に味を失ったような気がした。
「彼、何者なの?」
向かいに座った友人の、そんな問いかけに、咲耶はこう答えるしかない。
「よく、わからないわ」
――そうだ。
本当に、よくわからなかった。
会いに来るのも、電話をくれるのも、いつも和穂からで。
考えてみれば、咲耶自身が雅耶に彼のことを尋ねたことも、
彼に彼自身のことを尋ねたことも、一度としてなかった。
雅耶が言っていたように、
咲耶には、彼のことがまるで見えていなかったのではないか。
いや、見ようとしていなかったのではないか。
銀行頭取の娘が、何か特別なもののように口にする名前――
「小さな商事会社」を継ぐと、和穂は言っていた。
それは、本当に「小さな商事会社」なのだろうか?
子供を大人のように扱ったかと思えば、咲耶を簡単にムキにさせてみたり。
咲耶が感じている閉塞感を鋭く見抜いて、一緒に冒険しようと誘ってみたり。
咲耶の日常だけでなく、心に踏み込みかけた彼であるけれど、
そのままの、ただの「森和穂」としては、もう見られないかもしれない――
心臓を不意にぐいと掴まれたように、咲耶は息苦しくなった。