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六花の如くに

保坂穣太郎のとある休日

ハラハラと流れる涙は拭っても途切れることはなく、止めようと目をこする彼女を抱きしめる。


「大丈夫、大丈夫だから。」

抱き寄せた腕の中で、彼女はただ流れるままに涙を流していた。



ある時は氷のように冷たく硬いが、

空気に溶け込んだ目に見えない水分のように当たり前に傍にいる時もある。


彼女、秋津京という女性はまるで様々に変化する水のような人だと、僕は思う。


そして触れれば消えてしまう雪のように儚いが、触れずにはいられない。


図らずもまるで水のように変化する彼女の違う一面を垣間見た。




++++++



「おや?」


夕暮れ時の影が伸びる一本道の先、馴染みの古書店『岡古書堂』の前でもはや見慣れた姿を見つけて思わず声をあげる。

それに気付いたスーツ姿の彼女が驚いたようにこちらを見た。


「あ、保坂さん、こんばんは。」

「こんばんは、秋津さん。漆野に用事?」

「いえ…なんとなく来てみたんですけど、いらっしゃらないみたいで。」

見るとガラス戸には〔外出中〕の張り紙


しかしシャッターが上がったままなのを見ると店仕舞いしたわけではなく、恐らく近いうちに戻って来るのだろう。


「ちょっと待っててね。」

不思議そうに頷いた秋津さんを残して店の裏口に回る。この古書店は2階が住居になっていて裏口は漆野の自宅の玄関になる。


荷物を預けたり取りに来たりと時折使わせて貰っているため、裏口の鍵は預かっている。キーケースから取り出して鍵を開け中を進み店舗側に出ると、秋津さんの後ろ姿が見えた。

薄暗い店内に明かりを灯せば、驚いた顔が振り返る。内側から鍵を開けて戸を開けると、初冬の徐々に下がりつつある夕方の気温が入り込んできた。

「中に入って待とうか。」


店内は僅かに暖かく、漆野が出掛けてそれほど時が経っていないことが分かる。

「勝手にお邪魔してよろしいのでしょうか。」

「平気平気。そんな細かいことを気にするような奴じゃないよ。」



それから暫く秋津さんはいつもと同じように棚に並ぶ本を眺め、自分も目についた本を手に取り読んでいた。

彼女が歩くとヒールの音がするが、それ以外は紙を捲る僅かな音がするくらいで、店内には心地よい静寂が生まれていた。


「あれ、この本…」

少し首を伸ばして声がした方を見ると、秋津さんは一冊の本を手に取るところだった。

近寄って覗くと手元には上下巻の文庫本があった。


「これ、前に来たときにはなかった…」

「『ながい坂』、山本周五郎か。随分昔に読んだなぁ」


物語の舞台は江戸中期。貧しい下級武士の息子として生まれた主人公は差別や辛酸をなめながらも武芸と学問に励み大人になる。

やがて城代家老の息子に生まれ英才教育を受けたエリートともいえるライバルや妻との関係もありながら、若き藩主の側小姓から出世を重ねていく。

上下巻合わせるとかなりの分量にはなるが、そのストーリーと登場人物たちに魅せられて一気に読んだ記憶がある。



「私がこの本を読んだのは高校の頃で、それから何度も読みました。」

「何か思い入れがあるの?」

「思い入れ、というか…身分の低い武士が妨害とか困難を乗り越えて出世する話だなぁって言うのが最初の印象だったんです。でも社会人になってから読み直してからは読む度に大事な事を思い出させてくれて…」

だから私にとってこの本はとても大切な一冊なんです。そう語る彼女の顔は今まで見たなかで1番穏やかだった。


「今日このタイミングでこの本を見つけたのは…きっと、そういう事なんだ。」

しかし2冊の文庫本を見つめながら呟いた独り言はあまりにも弱々しいものだった。



「秋津さん、何かあった?」

「え?」

「仕事帰りにわざわざここまで足を運ぶってことは用事があったのかなって思ったけど、どうやら違うみたいだし。それに…」

外で見た時は何も感じなかったが、明るい店内で改めて向き合うと、いつもより暗い雰囲気に加えて顔色も僅かに悪いように見えた。


言わずに見守ろうとは思っていたが、本を手にしてから今に至る様子を見てしまっては言わざるを得なかった。



「私の中の迷いのようなものをこの本が感じとって、今目の前に現れた。そんな気がしてなりません。」

それから立ち話もなんだから、と座敷へ繋がる上がり框に腰掛ける。



ポツリポツリと話し始めたのは、今まで知ることのなかった秋津さんの自身のことだった。


聞くと彼女が勤める会社は都市再生事業や住宅事業などで業界屈指の知名度と業績を誇る一流企業だった。


「通りでスーツ姿にただならぬものを感じるわけだ。」

「そんな大層なものじゃないですよ。それに私、出身は地方の三流大学ですし。」

「その会社に勤めているということは君の能力の高さを十分に証明しているよ。どこの大学の出身かは関係なく。」

「学歴のことは入社当初は気にならなかったんです。取り敢えず仕事に慣れることで精一杯でしたから。でも入社3年目で後輩が出来て指導する立場になってその差を感じるようになりました。」

今時、学歴差別なんて流行らないと呆れたのが彼女にも伝わったのか、苦笑いが返ってきた。


「有難いことに今の私を評価してくれる人もいるんですけど、学歴なんていう些細なことを気にする時点で私はそんな器の小さい人間なのだと感じてしまって…」

いつも溌剌としている秋津さんの見せた自嘲の笑みには、悔しさが混じっているようにも感じられた。



「確かその本はよくあるサクセスストーリーだったと記憶しているんだけど、主人公は決して完全無欠のヒーローではなかったよね。」

描かれているのは、全てにおいて完璧とは言い難く、迷走しながら苦悩しながら、それでも決して止まることなく歩み続ける姿だ。


「さっき君の迷いがその本を引き寄せたって言っていたけど、全くその通りだと思う。君はもう一度その本を読んでみるべきだね。」

秋津さんは文庫本を手に取り、思い出すように所々を端折りながら読み進める。

やがてページを捲る手が止まり文字を追っていた目線が動かなくなると、今度はその目から大粒の涙が落ちてきた。


「…迷ってもいいの?…分からなくなってもいいの?…」

そんな呟きを最後に秋津さんは静かに涙を流していた。彼女にかける言葉が見つからない自分には、ただ見守っていることしか出来なかった。



やがて秋津さんは我に返ったように、自分が泣いていることに気付いたようだった。

「ごめんなさい…私ったら…勝手に泣き出して…」

「そんなに目を擦っては腫れてしまうよ?」

そうは言っても流れる涙を止めようと目元を拭う手が止まることはなく、気付けばその手ごと彼女を引き寄せていた。


「保坂さんっ、スーツが」

「構わないよ。」

彼女の涙でスーツが汚れたとしても大したことじゃない。そんな意味も込めて少し強めの力で彼女を腕の内に閉じ込める。

それよりもこの状況に抵抗を見せなかったことが自分には嬉しかった。



「一々立ち止まるような弱い私は嫌いです。強くなりたい…」

涙声で彼女はそう言った。

「君は強い女性だ」と言ってしまうのは簡単だが、他人である自分が言ったところで気休めにもならないだろう。


鋭さを纏った雰囲気。あれは強くありたいという彼女の意思の表れなのだろう。それに気付けば、尚更安易なことは言えない。



「ここには君と僕しか居ないから、」

君の涙を見ているものは僕以外にいない。

「いつも強くある必要はないよ、」

せめて僕には弱い君を見せて欲しい。


「だから、今は泣いてもいいんだよ。」



++++++



泣き止み静かになったかと様子を伺えば、どうやらそのまま寝てしまったようだった。

そして彼女を畳のある座敷まで運んで寝かせる頃、家主である漆野が帰って来る音が聞こえた。


まさか寝ている人がいるとも思わない漆野はいつもの調子で戸を開ける。

「おい、保坂、」

「しー」


座布団を繋げて簡易的に拵えた寝床に横になっている彼女を確認すると、漆野は僅かに驚いた様子を見せた。

「京?具合でも悪いのか?」

「そうじゃないんだ。けどもう少しこのままで。」

「それは構わないが、」

漆野の登場で起きてしまうかと思ったがその心配は無用だった。目を覚ます気配のない秋津さんに上着をかけたまま、そっと座敷の戸を閉める。



「というわけだから彼女が起きるまでそっとしておいて。」

秋津さん自身のことは省略して、彼女がここに来た理由と来てからの経緯をざっくり説明する。

「分かった。で、お前の用事は?」

「特に無いよ。ふらっと寄っただけだから。」



「お前、自覚あるのか?」

そろそろ帰ろうかと身支度をしていると、唐突にその疑問は投げかけられた。


惚けることも可能だった。それだけでは何を聞いているか分からない抽象的な問いだった。

それでも聞かれていることに心当たりはあったし、自分の中で明確な答えも出ていた。


それにしてもこの男は妙なところに鋭くて困る。時に本人すら自覚していない機微を感じ取るのだ。


問いに答えると漆野は何も言わなかった。

そうして店を出ると外はすっかり夜の帳に包まれていた。


六花(りっか):雪の別名、結晶が六角形になることに由来

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