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五色に支配された世界を

秋津京のとある休日

「…(みやこ)、ちょっと、」


いつものようにお店で本を眺めていると、何かを思い出したように店主さんが声を上げる。

店主さんはいつの頃からか私のことを下の名前で呼ぶようになった。頻繁ではないが、呼ばれるたびに距離が近くなったように感じられて、嬉しさが増す。


「これ。」

そう広くはない店内を抜けて店主さんの指定席であるレジの前へ辿り着き渡されたのは、一枚のチケットだった。見ると郊外にある美術館のものだった。


「そこで装丁や装画をテーマにした企画展があるんだ。今週末が最終日なんだが、俺は都合が合わなくていけそうにない。」

「それで私に?」

確か週末は休みで、特に予定は無かった。

「私、これ行きます!ありがとうございます!」


「たしか保坂にも同じやつを渡したんだったな。あれのことだ、無駄にするに違いない。」

「え、保坂さんが?」

「ああ見えて、あいつは出嫌いなんだよ。」

保坂さんをよく知っているわけではないが、にわかには信じられない話だ。


すると店主さんは唐突にレジの横にある電話機に手を伸ばす。今では珍しい黒電話は1度もベルが鳴ったことがなく、私はてっきりアンティークだと思っていたので現役で使われていたことに驚く。


「もし俺が合ってたら、お前、保坂と一緒に行けな」

口元だけでニヤリとさせて言ったその一言で電話の相手が保坂さんだと分かり、さらに驚く。


「ああ、俺だ…お前、この前のあれどうした?…ああ、そうだ…やっぱりな。企画展の最終日、予定空けとけ。」

やがて電話がつながったようで、幾つか言葉を交わしているようだったが、最後のほうは言うだけ言って切ってしまったような勢いだっだ。

「当りだ。お前、保坂と行って来いよ。」



++++++



駅を出て曇り空の下を歩き美術館へ向かう。

「出かけるのはお好きではないと伺いました。」

ここまで来て今更だが不安になってきた。


「漆野が余計なことを言ったみたいだけど、僕は今日は君と出かけるのを楽しみにしていたんだ。」

まるで私の心中などお見通しというように保坂さんの言葉は続く。


「そして楽しみにしていた甲斐があった。」

顔を上げると足を止めてこちらを向いた保坂さんと目が合う。

「また違う君を見ることが出来た。君は本当に色々な姿を見せてくれる。」



今日は保坂さんと並んで歩いても恥ずかしくないように化粧と服装を少し変えてある。いつもより大人に見えるように工夫したつもりだ。


流石目聡いな、と思うと同時に、その余裕がなんとなく悔しいなとも思った。こんなに私の心臓は脈打っているというのに。



「保坂さんも、いつもと雰囲気が違いますね。」

いつも古本屋さんで見る保坂さんはグレーやブラウンをメインにした装いで、あくまでフォーマルの延長のような雰囲気だ。

しかし今日は、上半身だけ見るといつも通りのようにも感じるが、シャツとジレをブルー系のストライプにして、それにジーンズを合わせることで全体をカジュアルにさせている。


「あ、ばれた?ちょっとでも若く見せたくって。」

気持ちを切り替えるつもりで言ったはずが、それがカウンター攻撃となって返ってきた。

悪戯っぽく笑う保坂さんに、お似合いですよと返すので精一杯だった。




やがて近代的な外観の建物が見えてきた。

美術館の中はエントランスから正面に見える大階段と吹き抜け日の光が差し込み、開放感の中にも落ち着いた雰囲気が感じられる。

最終日の午後、混雑もなく静謐さを含んだ時間が流れていた。


「木々が色付き始めている…」

「もうすっかり秋ですね。」

窓が広くとられていて周囲の景色と隣接されている公園で遊ぶ子供たちの様子が見えた。



企画展の展示室に入ると、間接照明で程よく明るく照らされた室内に時代ごとに個性的な装本が展示されていた。中には貴重な原画が展示されていて暫く足を止めて見入ってしまった。

そんな調子で一緒に来ている人の存在を忘れていた私は、一通り見終わる頃になって保坂さんを待たせるという失態に気が付いた。

「お待たせしてしまい申し訳ありません。」

「大丈夫、僕は全然待っていないから。」



美術館から出ると来る時に見上げていた曇り空は消え去り、代わりに夕焼け色が広がっていた。

「随分夢中になって見ていたね。」

「杉浦非水に中沢弘光、棟方志功。素敵な展示ばかりで、本当に来れてよかったです。」

「それでわざわざ漆野にお土産とは、君も律儀だね。」

保坂さんは私が手に下げている袋を覗いて笑う。


「全ては漆野さんのお陰ですから。」

「まぁたしかに貴重なものは見れたね。」




++++++



「それで?」

チケットを頂いたお礼を兼ねて、美術館内のショップで見つけた画集を渡した後、一通りの感想を述べたのだが、漆野さんからはそう切り返されてしまった。


「それで、と言いますと?」

「良い歳した男女が2人で出かけて、はい、さよなら、なんてことはないだろう?」

良い歳した男女、改めて表現されると、なんだか恥ずかしいような、照れ臭いような、複雑な気持ちだ。


「その後は…紅葉を見に行きました。」

「紅葉?ここらはまだ時期じゃ…あぁ玖島(くしま)邸か。」

「ご存知なんですか?」

「保坂から話だけは聞いたことがある。」



++++++



「ところで、秋津さん。」

「はい?」

「暗いところは平気?」

少し早い紅葉狩りはそんな一言から始まった。


とっておきを見せてあげるとだけ言った保坂さんに、ただ連れられて着いたのは高級住宅街と呼ばれる一帯の、さらに奥で門を構える塀で囲まれた邸宅だった。

唖然とする私そっちのけで、保坂さんは慣れたように門の鍵を取り出して開錠する。

「あの、ここは?」

「詳しいことは後でね。とりあえず入って。」


門をくぐって敷地内に入ると、辺りはしんと静まり返り、家の明かりどころか、人の気配すらしないことに気付く。

「ここは今、誰も住んでいないんだ。月に一度管理と清掃をしてくれている人がいるから辛うじて廃墟にはなってないけど、夜はこの通り暗くて音もしないから、不気味なくらいだ。」

保坂さんの後ろに続いて飛び石もない少し柔らかい道を進む。暗がりであまりよくは見えないが、あの立派な門構えに見合う大邸宅なのだろう。


どうして今は誰も住んでいないのか。そもそも何故保坂さんが鍵を持っているのか。

気になることは山ほどあったが、突然視界に飛び込んできた鮮やかな色彩で、そんな疑問は一瞬でどうでもいいことに変わった。



見えてきたのは、雲間から差し込んだ月明かりに照らされた日本庭園とそれを囲む楓と銀杏だった。


住宅街の一画であることを忘れてしまう空間がそこには広がっていた。その美しさは言葉では表現し難く、まるで別世界の次元のものだった。



「秋津さん、こちらにどうぞ。」

立ち尽くしていた私は、声をかけられて始めて、背後で雨戸を開けて縁側に腰掛けている保坂さんに気付く。

側には湯呑みが準備されていた。

「申し訳ありません、何のお手伝いも出来ずに。」

「連れて来たのは僕だし、もてなすのも僕の役目だよ。それに気に入ってもらえたみたいで、良かった。」

気に入るもなにも、保坂さんがお茶を準備していたのにも気付かないくらいに目を奪われてしまった。

きちんと管理されているのが一目で分かる日本庭園は整然の中にもセンスと遊び心を感じられる。しかしやはり目を引くのは庭の美しさよりも、池を囲むように植えられている木々の美しさだ。


「満月ではなく今日くらいの明るさがちょうどよく紅葉を照らしていて、本当に綺麗です。」

綺麗、としか表現できない自分の語彙の少なさが今夜は心底恨めしい。

「ここの家主だった人も…三日月くらいの薄明かりで見るこの庭が好きだった。」

それから保坂さんはこのお屋敷と主人だった人のことを話してくれた。



「ここは元々僕の母方の実家で、母と二人兄弟だった叔父が長年管理していたんだけど、生涯独身のまま亡くなったから今はもう誰も住んでないんだ。」

そういうことなら保坂さんが鍵を持っていた理由も頷ける。


「屋敷自体は曽祖父の代からのものらしいんだけど、庭に手を入れたのは叔父なんだ。」

随分歴史のあるお屋敷のわりには庭はそう格式張っていなくて、どちらかといえば少しモダンな印象を受けるのはそのせいか。


「本当は一般にも公開すればいいのかもしれないんだけど、たぶん叔父は嫌がるだろうから、とりあえず管理だけ頼んでこのままにしているんだ。」

「嫌がる…」

だとしたら私なんかが足を踏み入れて良いところではないはず。


「ああ、そういう意味じゃなくて。叔父は明け透けな人だったし、他人が迷い込んで来ても追い出すどころか、喜んで案内するだろうね。けど一般公開ってなると照明やら何やら手が加えられるだろ?そういうのはあの人、嫌がると思うんだ。」

「なるほど。こんな素敵なお庭と木々に人口の光なんて無粋ですね。自然の月明かりには敵いませんから。」

「きっと叔父が生きていたら毎日でも君を招待して相手をさせていただろうね。」

そう微笑む保坂さんの横顔は、嬉しそうででも切ないような、そんな印象を与えた。



「実はここに来るのは随分久しぶりでね。」

「そうなんですか?」

「幼い頃はよく祖父母を訪ねてここに来たし、叔父が住むようになってからもよく話相手にここに呼ばれた。けれどここの住人が居なくなって僕が鍵を管理している今、僕を待っている人はこの家には誰も居ない。いや、この家に限った話じゃない…そんな風に思えてきて。慣れたはずなのに、それがなんとなく嫌で暫く足が遠ざかっていたんだ。」


「あなたを待っている人は居ます。あなたは独りなんかじゃありません。だから…だから、」

そんなに悲しい顔をしないで。

最後の言葉は保坂さんの匂いと温度に吸い込まれていった。



「ありがとう、秋津さん…」

抱きしめられていると気付いたのはその声が私の耳元で響いた時だった。少しくすぐったいような感じはしたけれども違和感は無く、ずっと前から何度もそうしていたような自然さで、私も保坂さんに身を預けた。




闇夜の黒と下弦の白、楓の赤に銀杏の黄。

そして保坂さんの纏う青。

その色を私は決して忘れないだろう。


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