三つ揃いの人
本好き女子、語りて曰く
あの日偶然見かけて通うようになった古本屋さんは、たくさんの懐かしい本との出会いと新しい人との出会いをくれたのだった。
「こんにちは、店主さん!」
店に入って奥のほうに座っているこの店の主に声をかける。
「ああ、また来たか。」
「また来ちゃいました。」
最近休日に通うようになった『岡古書堂』
店主さんはいつも店の奥に座っているし、頑固で怖そうな見かけで話しかけにくい雰囲気の人だった。
しかし思い切って声をかけてみれば、知識も豊富で親切に話を聞いてくれたし、本を大切に思っているのが話していて伝わってきた。
それに何時間居座っても嫌な顔ひとつしないどころか、私の意識が本から逸れるちょうどいいタイミングでお茶を淹れてご馳走してくれたりもする。
「あれ、司馬遼太郎の『街道をゆく』だ。」
前回来たときには無かった本を見つけて、思わず声を上げてしまった。
店内に他にお客さんはいないが、行儀の悪いことをしてしまったと反省する。
「あ、でも芹沢銈介の装本ではないか…」
独り言のようにつぶやいた声は、店主さんにも聞こえていたらしく、いつの間にか定位置の席から私の横にやって来ていた。
「それは昨日入ったばかりだ、残念ながら初版ではないがな。芹沢は好きか?」
「はい!」
「機会があったら、作品集でも仕入れてみるか。」
「楽しみにしています。」
そんな話をしていると店の戸が開く音と人が入ってきた気配がした。
「あれ、漆野、居ないの?」
漆野、というのは店主さんの苗字だ。
店を歩き回る足音が聞こえた後に、店主さんを探す男性の声が耳に入ってきた。
「ここだ。」
「姿が見えないから居ないのかと思ったよ。」
「俺が居なくて、何故店が開いているんだ。」
店主さんが少し動くとその向こう側に声の主と思われるブラウンの、今では中々見かけないスリーピースのスーツを着ている男性が見えた。
それが保坂穣太郎さんとはじめて会った時のこと。店主さんからは大学の頃からの友人だと紹介された。
またある日の休日に古本屋さんへ顔を出すと、保坂さんが店主さんと話しているところだった。
私はお店には休日のたびに顔を出しているので、店主さんにはいつも会っているような気がするが、保坂さんにお会いするのは随分久しぶりだった。
最後に会ったのはいつだったかという話題から、数日前に保坂さんが街中で私を見かけたという話になった。
「普段着とスーツの時の雰囲気が違うよね。」
「そうですか?」
「例えるなら…そうだねえ、甲冑を纏った武者のようだ。」
「甲冑に武者って、いくらなんでも年ごろの女にそれは無いだろう。」
「あ、ごめん。気を悪くしたかな?」
ぽかんとする私に、苦笑いする店主さんと申し訳ないと謝る保坂さん。
「“甲冑”、なるほど。それは言い得て妙かもしれません。」
私にとってスーツは社会という戦場で身を守り、生き抜くための甲冑なのかもしれない。
それにどんなに気分が浮かれている時でも落ち込んでいる時でも、スーツを着るだけでそれがスイッチになり一瞬で気持ちが引き締まる。
「そうだ!思い切ってテーラーで仕立ててみる気はない?」
せっかくのお話であったが、オーダーメイドなんて私にはあまりにも敷居が高かった。
しかし憧れはあったし、保坂さんが近々テーラーへ足を運ぶというので同行させてもらうことにした。雰囲気を味わうだけのつもりで話を聞いたが、価格が思ったよりもリーズナブルだと知り、現在仕事用に着ているスーツを仕立ててもらったのだ。
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細かく採寸し体に合ったスーツのおかげで、着心地が格段に良くなり朝の通勤がだいぶ楽になった。帰宅したときの疲労感がまるで違ったのには本当に驚いたものだった。
ますます体の一部になったスーツで今日も会社に向かう。
「秋津さん、」
私を呼ぶバリトンの声は駅構内の喧噪の中でもはっきりと私の耳に届いた。
振り返るとネイビーやグレー、ブラック系のスーツが大半を占める朝の見慣れた風景の中で上品なブラウンが目に入ってきた。
「おはようございます、保坂さん。珍しいところで会いましたね。」
挨拶を返すと、いつもの三つ揃いのスーツを纏った保坂さんは穏やかに笑った。
ブラウンという色といい、このタイプといい、違和感を与えること無く見事に着こなしているのは、偏にこの人の持つ品格の良さのおかげなのだと改めて感じる。
「おはよう。 今朝、出張から帰ってきたところなんだ。」
よく見ると傍らには大きめのスーツケースがある。
店主さんを介して紹介されて以来、顔を合わせたときに世間話をするくらいでお互いのことを良く話すわけではないが、確か保坂さんは貿易商社に勤めていて月に何度も海外に出張すると聞いたことがある。
『あいつは昔から奔放で気ままな奴で、会社でデスクワークなんて向いちゃいねーから、世界中プラプラしてる今の仕事がピッタリなんだよ。』
いつだったか店主さんも保坂さんの仕事をそう表現していた。
それでも海外へ出張となれば移動だけでも溜まる疲れはあるだろう。
「そうでしたか。お帰りなさい。」
「ありがとう、ただいま。」
つい馴れ馴れしくもお帰りなさい、なんて言ってしまったが、保坂さんは自然に返事をしてくれた。それから少し世間話をして別れ、保坂さんは朝の喧騒の中に消えてしまった。
そうだ、私はまだ保坂さんにお礼をしていなかった。
出張から帰るとあの古本屋さんに入り浸ると店主さんが言っていたから、次にお店でお会いできたら、テーラーを紹介してもらったお礼をしよう。
保坂さんに会えたお陰で新しい週末の予定が出来た。
たったそれだけの事なのに何故か元気をもらったような気分で会社に向かった。
詳細はこの3話と次の4話を合わせた活動報告にて。