ディーネランス
することがなくなったので仕方なく暇を潰すためにわたしは書庫へと向かっていた。わたしがここ、ウォルスリーブ伯爵邸で暮らすようになって一年ほど経つと思うが、未だに屋敷の全容を把握できていない。それでも与えられている自室と兄弟たちの部屋、義父母たちの部屋やよく通っている書庫の往復ぐらいはひとりでできるようになった。それにこの時間帯、メリルはわたしの部屋の掃除をしてくれているのだ。わざわざ付き添ってもらって彼女の時間を割くわけにもいかない。
豪奢だが落ち着いた内装の廊下を歩いていると少し先にある扉が開いた。そこから顔を覗かせた相手がわたしを見つけ、ぱあっと顔を輝かせる。
「ねえさま!」
くるくるふわふわした明るい茶髪に深緑の大きな瞳をした幼児がやや危なっかしい足取りでこちらへと駆け寄ってくる。ひとつ年下の弟であるディーことディーネランス・ラ・ウォルスリーブだ。将来は様々なお姉さま方やお嬢さま方を虜にしそうであり、現在も大半のご婦人方が目をハートにするであろう大変愛らしい見目の、小動物系幼児である。
「ねえさまっ!」
叫びながらぎゅうぅっとわたしに抱き付く弟はとても愛らしい。聞き分けもよく、あまりわがままも言わない、大変できた弟だとわたしは思っている。わたしは。
「ディーは本当にセラちゃんのことが大好きね」
すりすりと甘えてくるディーの頭を撫でながら声に視線を上げると、ディーが出てきたのと同じ扉からひとりの女性が姿を見せた。淡い空色の柔らかそうな髪とワインレッドの瞳はいつも眠たそうに半分閉じている。彼女はミリアシア・ル・ウォルスリーブ。わたしたちの義母だ。
「お義母さま」
わたしが声をかけると義母はにっこりと微笑みながらわたしの頭を優しく撫でる。
「セラちゃんは書庫に行くのかしら?」
「はい」
「ぼくもいきます!」
なおもすりすりしながらディーが声を上げた。それにくすりと笑った義母はディーの頭も撫でる。
「では皆で一緒に行きましょうか」
そう言って彼女はわたしの手を取った。
書庫、とは言ってもその大半がこの一年ほどで子どもたちのためにと用意された絵本や童話がほとんどだ。兄たちのためにと取り寄せられたものもあるが、それでもやはりわたしとディーのためのお話が大半を占めている。
そしてそんな絵本や童話の中に紛れ一際異彩を放っているのが植物図鑑や薬学書の類だ。しかもそれが一冊二冊という数ではないのだからなおさらだろう。
先にも述べたように、わたしには“神の真名の加護”がない。これは治癒や解毒といった回復系の神術が受けられないのはもちろんのこと、身体『強化』や移動『補助』といった付加・補助系の術も受け付けないのである。そのため、世間一般の四歳児よりもわたしはひどく弱いのだ。
しかしこれはあくまでもこちらの世界を基準にした場合ではあるのだが。
どちらにしろ、怪我をしたときに治癒を受けられないのであればもっと原始的な方法で手当てをしなければならなくなる。誤って毒物性のある食べ物を口にしてしまうことがあるかも知れない。その対処としてわたしには読み書きとともに薬学の知識を身に着けさせることになったのだ。本人がそれ相応の知識を持っていれば自分で対処できるし、毒物性のある食べ物を口にしなくなるのでは、ということらしい。
故に、わたしに与えられる書物には子供らしくない植物図鑑や薬学書が混ざっているのである。
今日も書見台に乗せたままの大判の植物図鑑を開く。その隣でディーが絵本を開いているが、今日はどういうわけかまじまじと図鑑を覗き込んでいる。
「……面白い?」
熱心にページを見つめているディーに問いかけると微妙な表情が返ってきた。…まあ、そりゃそうだよね。三歳児に植物図鑑はあまり面白い書物ではないだろうからね。
「ねえさまはおもしろいの?」
どこか不安そうに問いかける弟に少し考えこくりと頷く。一応、中身は四歳児ではないので植物図鑑は案外面白い読み物だ。するとなぜがショックを受けたような表情をするディー。背後でガーン!という効果音が聞こえそうだ。どしたー?
しばらくしてショックから立ち直ったらしいディーは今度こそ熱心に図鑑を覗き込む。
「ディー?」
「ねえさまがおもしろいなら、ぼくもよむ」
可愛らしい顔にはあまりにも似合わない難しい表情をして図版を見つめるディーの横顔に吹き出しそうになるのを必死で堪える。
ディーはとても聡い子だ。わたしが加護を持たないことの意味を漠然とでも理解しているのだろう。そして兄たちのように自分にもできることをと思ってくれているのだろうと思うと頬が緩むのを止められはしない。
だからわたしはディーが好きだ。彼だけではない。兄たちのことも、義父母たちのことも、わたしのことを気にかけてくれているすべての人が好きだ。そんな彼らの力になりたい、笑顔でいてほしいと思うのは、自然なことだとわたしは思っている。
わたしは自分のために生きたいと思う。
そしてそれ以上に、わたしの周りにいる人々のために生きたいと思うのだ。