セラフィローネ
遠くから聞こえる小鳥のさえずり。穏やかなまどろみの中、いきなり体を揺さぶられた。
「お嬢さま、お目覚めください。朝ですよ、お嬢さま」
しきりにかけられる声に唸りながら枕に顔を埋める。ベッドの中でもぞもぞとしていると、カーテンが開けられたのか、鮮やかな日の光が室内を明るく照らし出す。
「ぅ、ううぅ……」
まぶた越しに眼球を刺激する光に観念してゆっくりと目を開けた。それに気付いたらしい彼女、メリルがにっこりと微笑みかけてくる。
「お早うございます、お嬢さま。今日も良い天気ですよ」
「…ん」
もぞもぞと起き上がりながらぼんやりする頭を小さく動かしながら返事をするとメリルが小さな笑みを漏らす。
「さ、お嬢さま。お支度を致しましょう」
メリルの言葉にもう一度小さく頷きながら大きな欠伸をひとつした。
わたしの名はセラ。セラフィローネ・ル・ウォルスリーブ。現在ぴっちぴちの四歳児だ。身長は同年代の子と比べると小柄なようで、髪と目はともに黒。わたしとしては見慣れた色だが、どうやらこの世界では黒目黒髪は珍しいらしい。それに加え、わたしには“神の真名の加護”というものがないそうだ。
“神の真名の加護”はこの世界で生きていくためには必要不可欠なものらしいのだが、どういうわけかわたしにはそれがないらしい。…あまり実感がないので、それがどうした、だからなんだ、とも思うのだが。
自分としても四歳児らしからぬ思考だとは思っているが、それにはわけがある。
わたしには前世の記憶があるのだ。
こんなことを言うと電波かとか思われそうだが、残念ながら事実である。前世のわたしは“地球”という世界の“日本”という国に暮らしていたごく普通の女性だったようだ。ただ、前世の自分や近しい人たちの名前が思い出せず、代わりに前世のわたしが蓄えたと思われる知識はまるっとそのまま引き継いでいるらしい。それとともに性格も引き継いでいるようだが、それはまあそれである。
結構最近まで『前世の記憶』というものがよくわからず現世と前世を混同していたようだが、今ではだいぶ割り切っている…と思う。多分。そうしてわかったことがいくつかある。
まず、この世界は“地球”ではないということ。
なんといってもこの世界には『魔法』、こちらの言葉で『神術』と呼ばれるものがあるということにある。“地球”にはそんなものはなかったのでね。
この『神術』は“神力”という魔力に値するものを使って顕現化させるのである。そして『神術』を使用するに当たり、“神の真名の加護”を受けていないと使えないらしいのだ。この事実を知った時のわたしの衝撃といったら…。
まあ、それは置いておいて。
次に、“地球”ほどではないにしろ、それなりに文明は発達しているらしいということ。
科学技術が発達しまくった“地球”に比べると文化レベルは格段に落ちるが、それでも馬車はもちろん、紙は一般にも出回るくらいに普及しているし、上下水の管理もしっかりしている。都市部の方に行けば『鉄馬車』と呼ばれる、電車に近いものも存在しているらしい。これは、もちろんと言っていいのかはわからないが、原動力は電気ではない。『精霊石』と呼ばれる、いわゆる魔石を主な原動力としているそうだ。
排気ガスなどもないというので、エコだなぁ、と思ったのはやはり前世の記憶に起因するのだろう。
最後に、これは大変残念なことなのだが、“デザート”という概念がないということ。
前世も現世も大変な甘党であるわたしにとってこれは耐え難い事実であった。幸い、植物や生物は前世の記憶にある“地球”のものと大差ないようなので、将来的にはデザートの概念を広めようと小さな胸に誓っている今日この頃である。
そんなわたしの一日は、わたし付きのメイドさん、メリルさんが起こしに来るところから始まる。メリルは四十代後半くらいのややふっくらした「これぞママン!」という感じの女性だ。目尻には長年刻まれているのだろう笑いじわがくっきりと見える。生まれ変わっても朝の弱いわたしを毎朝起こしに来てくれる人だ。
メリルに起こしてもらい、まだ半分寝ぼけたままの状態で彼女の手を借りながら顔を洗ったり服を着替えたりする。これも残念なことに、この世界での衣服は中世ヨーロッパを彷彿とさせるものが多い。毎日わたしに着せ付けられているのもシンプルだとはいえ形はドレスそのものだ。子どもひとりでは到底着替えることなどできはしないだろう。
面倒ではあるが、わたしがこのようなドレスを着せ付けられるのにはわけがある。
わたし付きのメイドさんがいることからもわかるように、わたしは貴族の子女なのだ。
もう少し正確に言うと、貴族の子女となったのである。経緯について話し始めると長くなるが、取り敢えず簡単に説明すると、わたしの実の両親はすでに他界しており、子どものいない父方の叔母夫婦に引き取られることになったのだ。二人の兄と弟、四人そろって、である。ありがたいことだ。
その叔母夫婦、正しくは父方の祖父が伯爵位を持つ貴族であり、よって、わたしたち兄弟みな貴族の仲間入りをしたのである。喜ぶべきか迷うところではあるが。
閑話休題。
着替えを終えるころにはわたしの頭もはっきりとしており、メリルの後に続いて応接室へと場所を移す。そこに用意されている朝食を摂り、食べ終えるとメリルがその日の予定をざっと説明してくれる。
「昨夜もお伝えしましたように、本日の薬学のお勉強は中止となりました。他に急ぐ予定もありませんので、お嬢さまさえ宜しければ本日はごゆるりとお過ごしください」
これは昨日の夕食後にも聞いた話だ。どうやら下町の方で疫病が流行っているらしく、わたしに薬学を教えてくれている先生が駆り出されてしまったらしい。この世界は上下水がしっかりしているくせに衛生面にはあまり頓着をしていないようなのだ。それが原因で未だにちょっとした流行病が長引くことがあるという。
わたしからしてみれば衛生面こそもっとしっかりやれよと思うがわたしが声高々に言ったところで子どもの戯言と思われるに違いない。一応先生にはそういった話をしたことはあったが彼女も理解してくれたかどうかは怪しいものだ。
ちなみに、わたしは極度の潔癖症ということにして自分の周りは可能な限り綺麗にしてもらうようにいている。話によると、“神の真名の加護”を持たないわたしは神術を使えないだけではなく、わたしに対して神術自体が使えないらしい。つまり、普通の人ならば神術の治癒や解毒で事足りる、命の危険がないものがわたしにはそうではない、ということなのだ。なので、こういった流行病の話題が出た途端にわたしは軟禁生活を強いられることとなる。まあ、自分でも命は惜しいので文句は言わないが。
暇である。