安堵と終わり
穏やかな昼下がり、フィリアはセラフィローネを連れて街を歩いていた。もうすぐ二歳になるセラフィローネがここ最近しっかりと歩くことができるようになったため、フィリアは居ても立ってもいられずにこの日、ふたりで買い物に行くことにしたのである。もちろん、夫であるスタットと隣人のターニャ夫妻に息子たちを預けて。
「今日はどこに行きましょうか」
年甲斐もなく浮かれているという自覚はあったが、それ以上に「娘との買い物」という行動にフィリアの心は躍っていた。
「かあさま」
まだまだ舌足らずで甘えたような口調だがちゃんと言葉を交わすことができるようになったセラフィローネの呼びかけにフィリアは嬉しそうに頬を緩めながら顔を向ける。
「どうしたの、セラ」
「きょうは、どこ、いくですか?」
愛らしい桜色のドレスを着たセラフィローネはつば広の帽子を押さえながら低いところからフィリアを見上げていた。そんなセラフィローネの前に屈み込みながらフィリアは答える。
「今日はわたしたちだけでお買い物ですよ。いろいろ見て回りましょうね。何か欲しいものがあったらおっしゃいなさい。お父さまたちには内緒で買ってあげますよ」
あまり表情を変えない我が子が感心したような顔をして、はいっ、と元気よく答えたのに気を好くしたフィリアは立ち上がり、セラフィローネの手を引いて再び歩き出した。
何が起こったのだろうかとフィリアは間近で自分を見下ろすセラフィローネの顔を見つめながらぼんやりと思った。普段あまり感情を表に出さない我が子がぼろぼろと涙を流しながら必死に呼びかける姿にフィリアは場違いだと思いながらもひどく安堵し、自然と笑みが零れるのを止めなかった。
「セ、ラ」
ありったけの愛しさを込めて呼びかけたつもりだったのだが、その思いに反してフィリアの口から出たのはひどくかすれた弱々しい声だった。それと同時に胸の奥からせり上がる不快感にフィリアはむせるようにそれを吐き出す。ごぷっという不気味な音を立てながら吐き出された鉄錆の味と指の間をするすると逃げていく体温にフィリアはそっと辺りに視線を巡らせる。
ひどく遠くに聞こえる声の方へ目を向けたフィリアが見たのは、男たちに取り押さえられている浮浪者のような男だった。その憎悪にぎらつく目と目が合うと男は大声で何かを口走るがフィリアにその言葉は届かなかった。
取り押さえられている男の近くに赤く染まった包丁が転がっているのを見てフィリアは、ああ、と胸の内で呟く。そして再び視線をセラフィローネへ向けなおしたフィリアはその小さな頬に手を伸ばした。
「セラ、怪我は?」
届いたかどうかも怪しいフィリアの言葉にセラフィローネは否定を示して首を振る。それを見て取ったフィリアはやはり安堵に頬を緩めた。
この子が無事でよかった。セラには『治癒』が効かないから、ちょっとした怪我でも命に係わるかもしれない。彼女が負ったかも知れない怪我を自分が代わりに受けたのだとしたら、この偶然を神に感謝しなくては。
穏やかに微笑むフィリアとは対照的にセラフィローネは痛みを堪えるように顔を歪めた。その頬を優しく撫でながらフィリアは更に笑みを深め、そしてそっとまぶたを閉じた。引きずり込まれるように闇へと堕ちる中、フィリアは呟く。
―――セラ
―――わたしの可愛いセラフィローネ
―――大丈夫、大丈夫よ
―――きっとわたしは、大丈夫
―――だから、ね
―――そんな悲しい声を出さないで