闇宿す者
しばらくして我に返ったわたしはすぐ側で控えている従者殿に顔を向ける。すると当人は困ったような苦笑を返してきた。
「大変申し訳ありません。我が主はとても、その…自由なお方なので」
そんな言葉を聞いて思わず「大変なんですね」と呟いたわたしに相手は苦笑を深める。けれどすぐに佇まいを改めるとわたしに向かって丁寧な礼をした。
「改めまして、ルットフェッツェル公爵夫人、サフィーアさまの従者を務めます、シアンと申します。しばしの間お嬢さまのお供をさせて頂きます故、なんなりとお申し付けください」
堂に入ったその所作に若干見惚れそうになる。わたしが慌てて立ち上がり挨拶を返すとシアンさまは少し驚いた後、小さく笑った。笑われた意味がわからず首を傾げているとシアンさまは穏やかに微笑みながら言う。
「お嬢さまは不思議なお方ですね。普通、一介の従者にそこまで丁寧な挨拶をするご令嬢はまず居られませんよ」
「あー…その、済みません。わたしはその…自分が貴族であるという感覚があまりないようで……」
貴族らしいことってしたことあったっけ?と過去の自分を振り返るが思い当たることがない。教養として礼儀作法や勉強を学ぶことはあったけれど、それが貴族らしいことかと言われれば首を傾げる。前世の人生の大半が学生だった身としては勉強は当たり前であったし、礼儀作法も祖父母が厳しい人だったのでその延長のような感覚が拭えなかった。
思わず、貴族らしいってなんだろう…、と遠い目になる。
そんなわたしを見てシアンさまは再びくすっと笑った。
「やはり不思議なお方のようですね。それと、お嬢さまが謝られることはありませんよ。お嬢さまが謝らなければならないことなど何もないのですから」
にっこりと穏やかな笑みで言われ、知らず強張っていた体が自然とほぐれる。
「ありがとうございます」
無意識に出たお礼の言葉にシアンさまはやはり驚き、そしてふわりと微笑まれた。そしてその時になってようやくやっと気付く。
「シアンさまの目も黒いのですね」
真正面からしっかりと見据えて初めて気が付いた事実にぽろりとそんな言葉が漏れる。そういえば、以前、お屋敷のメイドさんに聞いたことがあったな、と思い出しながら再度相手をまじまじと見つめた。
肩にかからない長さに整えられた赤金髪にやや垂れ目がちな漆黒の瞳。身長は目測で百七十前後だろうか。フロルと同じくらいの身長だ。すらりとした細身を包む、所謂“執事服”と称される燕尾服は深い臙脂色で手には白い手袋。どこからどうみても美男子、それもネル以上の中性的な見目の執事さまだ。
「ええ、お嬢さまと同じ色ですね」
にっこりと微笑むその姿はフロルほどではないにしろなかなかにキラキラしい。フロルのような残念な部分がないのでとてもかっこよく見える。
「時にお嬢さま?わたしに対して敬称は必要ありませんよ?わたしは一介の従者。どうぞ、シアンと、そうお呼びください」
穏やかな、とても優しい声音に知らずほっと安堵した。なんだろうか、とても落ち着く。
しばらくシアンさんと他愛ない話をした。その間に思い知らされたのが、シアンさんはとても優秀な人だということ。
わたしが少し疲れたと思っているとすぐさま飲み物を用意してくれるし、流石に小腹が空いたなと思っていればわたしの胃に負担のない軽食を用意してくれる。その飲み物や食事をとってもどこで知ったのかと問い質したくなるほどわたしの好みに忠実だった。
感心と尊敬の念を込めた眼差しを向けると当人には、
「サフィーアさまにお仕えするならばこの程度、呼吸するようにできなければ務まりませんので」
と苦笑混じりに言われた。公爵夫人さま、どんだけレベルの高いものを求めるんですか。
まあ、それはさておき。
わたしがパニックを起こしたのは、初めての場所で緊張していた、というのもあったようだ。シアンさんとの会話で程よく肩の力が抜けたおかげか、視線を向けられてもそれほど身構えなくなった。こういうところでもこの従者殿の優秀さがよくわかる。
それに途中から気付いたことだが、シアンさん、わたしに視線を向けてくる方々に視線を返し、目が合うとにっこりと微笑みながら会釈していた。すると相手は慌てたように会釈を返して視線を外してくれるのだ。ホントなんなんですかねこの人は。おかげで助かっているので文句はないんですが。
そうこうしていると小父さまに連れられてネルとディーが帰ってきた。なんかもう、生気を吸い取られてきたかのようにぐったりしているのが気になる。…わたし、行かなくて本当に良かったかも。
帰ってきて早々ディーは泣きそうな顔でわたしにしがみ付いてきたのでよしよしと頭を撫でてやる。うん、なんかよくわかんないけど、よく頑張ったね。まあふたりとも本人とは別の香を付けて帰ってきたところを見るに、大体の想像は付くけれど。
げっそりしているふたりを余所に小父さまはシアンさんと何か言葉を交わしている。小父さまがちらりとわたしを見ながら言うのにシアンさんは苦笑混じりに頷きわたしへと顔を向けた。
「少し、宜しいでしょうか?」
出会った時と同じセリフで問いかけるシアンさんに首を傾げる。するとシアンさん、
「是非お嬢さまとお話をしたいと」
言いながらやはり同じく半歩身を引いてその相手を手で示す。そこに居たのは――
黒い髪の女性だった。
淡い若草色のドレスを着た、十代後半くらいの、まだ少女と呼べるくらいの人だ。腰まである長い黒髪には赤いリボンが巻かれ、顔の中心を飾る深い蒼色の瞳をきらきらと輝かせながらわたしを見つめている。そしてわたしと目が合った瞬間、弾かれたように駆け出し目の前まで来るといきなり、ディーもろともわたしを抱きしめた。そして一言。
「かっわいぃー!!」
少女特有の高めの声が喜色を含んで辺りに響く。わたしもディーもぎょっとしたが当人は気にした風もなくわたしたちに頬ずりをする。
「あぁもうっ、何このコ!お人形さんみたい!」
「きゃー!」と嬉しそうな声を上げながら抱き締める力を強めた相手にわたしたちはあわあわするのみ。けれどそれを助けてくれたのはやはり小父さまだった。
「やめんか、“気狂い”が」
苦味を含んだ声とともに小父さまが少女を引っ剥がす。「あぁん」と残念そうな声を上げながらようやくやっとわたしたちから離れた人物をわたしはまじまじと見つめる。
長い黒髪に深海色の瞳は大きくくっきりとしており、それを縁取るまつげも長い。白くきめ細かな肌は柔らかく滑らかで、肘まである手袋をはめた手が名残惜しそうにわたしの方へと伸ばされている。身長はやや低めで目測、百五十後半くらいだろうか。ヒールを履いてその高さなので実際はもっと低いかも。
今日は何かあるのだろうか、と疑いながらも記憶を辿る。
黒髪…ということは、メイドさんが言っていた『気狂い子爵』さま、だろうか?小父さまもそんな風に呼んでいたし。
わたしがまじまじと見つめているのに気を悪くした風もなく目の前の少女は艶然と微笑み見本のような美しいカーテシーをする。
「初めまして、可愛らしいお人形さん。わたくしは北の端を治めるハウンバート伯爵家の後見人を務める、ユーシリア・フィート・ハウンバート男爵ですわ」
にっこり微笑みながら「よろしくね」と彼女、ハウンバート男爵さまは告げた。そしてその後ろからもう一人。
「あら、本当に愛らしい」
淑やかな声がしたのにその場にいた大半(わたしやディーを除くので)が佇まいを改め、最敬礼を取る。その先にはお年を召してなお艶やかな女性がいた。
いろいろありすぎてすっかり忘れていたわたしの前にその人、王妃陛下が現れた。
以前にちらっとだけ出た「闇宿す者」たちを集めてみました。
自分にもシアンのような優秀な人材が欲しいです……。