衝撃と笑動
まだまだ続く。(長いね!)
人がいる。暗い色のローブにフードをすっぽりとかぶったその姿は薬学の先生にも見えた。けれど違う。姿を見た瞬間に彼女ではないと確信していた。ではなぜか。
ひとつ目に、雰囲気が全く違う。あのいつもびくびくとした感じは微塵もなく、それどころかフードからそこだけが覗く口元には不敵とさえ思える笑みが浮かんでいた。
ふたつ目に、目の前の人物はそこに居るにも拘らず“存在感”がまるでない。注視していないと透けて消えてしまうんじゃないかと思えるほどに。先生は注目されたくなくて気配を消そうとして失敗して逆に注目されてしまうという、とても残念でかわいそうな人だ。存在感を消すなど到底ムリである。
そして最後の理由は―――直感だった。意味も理由も根拠もまるでなく、ただ漠然と『彼女ではない』と感じたのだ。
「…誰?」
先ほどまでの緊張など比ではないほどに全身が強張っていく。けれどそんなわたしとは反対にその人は「おや?」とでも言いたげな空気をまとった。
「ほぅ…珍しい。初見で俺を視認するか」
そう零した彼(…でいいのかな?“俺”って言ってるし)はやおら立ち上がる。ここにきてようやく彼が座っていたのだと初めて知った。同時に彼が腰かけていたモノを見て再度固まる。
“闇”だ。昏いこの場で見てもなお暗く濃い“闇”がそこに蠢いているのが見える。けれど彼が立ち上がった瞬間はらはらと霧散し、文字通り“闇に消えた”。
…なんだ…アレ。
硬直しているわたしをよそに彼はわたしの顎を捕らえると強引に上向かせ、わたしを覗き込む。その際、目が合った。暗闇のせいか顔はよく見えないが、不思議な色合いの双眸がじっとわたしを見つめている。
右は血のように紅い瞳孔を闇色の虹彩が囲み、対して左は全体的に白い。けれど左目は一呼吸の内に何度もその色を変えていく。白から黄色、黄色から黄緑、黄緑から水色、水色から薄紫。瞬く間に色を変えるそれは、光の加減で様々な色を見せる貴蛋白石のようで美しかった。
半ば見惚れていたわたしはその双眸がすっと細まったのに我に返った。
「お前……」
言いながら彼は摘んだ顎をさらに持ち上げ、結果、わたしの顎から喉までが真っ直ぐになる。地味に辛いんですが、なんてツッコミも続く言葉を聞くまでだった。
「お前、転生者か。それも記憶持ちの」
目の前の人物が口にした言葉だけが頭の中で反響する。それと一緒に返ってくるのは「なぜ?」という問いだった。
なぜ彼は知っているのだろう。わたし以外、知り得るはずのないことを。
なぜ彼はそれを口にしたのだろう。それも疑問ではなく、確信を持った問いかけで。
そもそもなぜ彼はここにいるのだろう。今は背後となった扉からしか出入りできないのに。
なぜ?なぜ??なぜ???
そればかりが頭の中を駆け巡る。思考がまとまらず頭の中で同じ言葉が繰り返されている、その時だった。
「思考がダダ漏れだぞ」
「あだっ!」
額に衝撃を受けて後方へと転がった。後転するほどの勢いはなかったがあまりにもいきなりのことで強かに後頭部を打つ。床にカーペット(らしきもの)が敷いてなかったら今頃、悶絶していたことだろう。
取り敢えず痛む額(いや後頭部も痛いけどッ)を押さえて涙を浮かべながらも彼を睨む。すると噛み殺したような笑いが上がった。
「いきなり何すんのよ!!」
「うるさい。もう一発喰らうか?」
言いながら彼は片手をデコピンのかたちにする。それを見たわたしはつい先ほどの衝撃を思い出して妙な悲鳴を上げてしまい、結果、再度笑われた。
くっそぉう……。
「はー、笑った笑った」
ひとしきり笑って満足したらしい彼はわたしのすぐ近くで腰を下ろした。もちろん床にではなく、あのナゾ物体に、である。あのナゾ物体、彼が腰を下ろそうとした途端、どこからともなく集まってきてざわざわ蠢く黒い塊になったのだ。そんでもって彼も迷いなくその上に座った。
わたしがあまりにもまじまじと見ていたためか、彼は不思議そうな空気でどうしたのか問いかけてくる。なので聞いてみることにした。
「…ソレ、何?」
「ソレ?」
問い返されてしまったのでわたしは蠢く黒い塊を指差す。すると彼は「ああ」と呟くと小さく笑った。
「そうか、お前には観えるんだな。―――コレは精霊だ」
何か引っかかることを言われた気もするがそれよりも先に取り敢えず、
「精霊って尻に敷いていいものなの?」
思ったままを聞いただけだったが顔の見えない彼がきょとんとしたのがわかった。そしてみるみる内に肩を震わせ、最終的には腹を抱えてうずくまってしまった。
失礼な。
再びの笑動(w)がようやく治まったらしい彼はぐったりしていた。
「何もそこまで笑わなくても」
思わず口を尖らせながら悪態を吐くが彼は聞いちゃいない。まだ名残があるのか、時折肩を震わせている。
「お前、スッゲー面白い」
「そりゃどうも」
ぐったりした彼がサムズアップを送ってくるので適当に答えておく。もうすでに警戒心だとか危機感だとかはドブに捨てた。考えても無駄な気がしてきたから。
「大体アンタ誰よ。いきなり現れたと思ったら人にデコピンかましやがって。痛かったのよ!?幼気な四歳児に何してくれんのよ!」
「あー、自分で言うんだ」
だって誰も言ってくれないんだもん。わたしたち以外に誰もいないので当然だが。
「だって本当に痛かったんだもん」
再度口を尖らせて訴えると彼は「わかったわかった」とわたしの頭をぽんぽん叩く。全然わかってないし悪かったとも思ってないな、コイツ。
「…で?」
「ん?」
腕を組んで睨み上げているがまったく効果がないようで、彼はゆったりとナゾ物体改め精霊に腰かけ直すと脚を組んで片肘を突く。もちろん肘の下にも精霊の塊。その上で軽く握った手に頭を乗せた彼に見下ろされながらわたしは溜め息を吐いた。かなり偉そうな格好が様になっていると感じたのにはイラッときたが。
「アンタ何者?なんでここにいるの?どうしてわたしのこと知ってるの?何が目的?」
「一気か」
うんざりしたような呟きになおイラッとしたが今度は怒るよりも先に呆れてきた。
「アンタ、答える気ないでしょ?」
「わかってるなら聞くなよ」
呆れ口調で言われ思わず溜め息が出る。何やら頭痛までしてきた気がする。
「答える気がないならなんでここにいるのよ」
「精霊たちが煩くてな。見慣れない奴がいるから摘み出せってさ」
「人使いが粗ぇのなんの」とぼやきながら彼は頭を振った。
「…それ、わたしのこと?」
「ああ、そうだ。お前の魂はこの世界のものじゃないからな」
なんでもない風に答えながら彼は組む脚や突く肘を反対へと替える。
「この世界を構成している精霊たちからすればお前は異物だ。人間はよく『ガン細胞』なんて言い方をしていたな。排除されるべき存在。
けれどお前は器を受けて転生した。魂の状態であったならいざ知らず、器に納まった個としてでは自然分子に過ぎない精霊たちにはお前を排除するだけの力はないし、精霊の個々は人間ほどの感情を持っていないから自ら動くこともない。故に警戒はするが手は出せないし出さない。
しかしお前が生まれて四年間、封のされていないお前の周りにいた精霊たちはお前の力に染まりつつある。人間の力に染まるということは感情に染まるのと同義だ。喜び怒り哀しみ楽しむ。次第に愛して憎み、求めて妬み、縋って恨み、歓喜に嫌悪した。
そうして感情を得た精霊たちはお前を恐れた。
自らをも変える、万物の理より外れたお前を」
淀むことなく流れ出た言葉の意味を理解すると同時に、わたしは意味がないとわかりつつもその場から飛び退った。それを見た彼が喉の奥で短く嗤う。
「安心しろ。俺はお前を殺す気はない。俺にとってこの世界がどうなろうと知ったことではないし興味もない。だが―――」
はっと思った時には開けたはずの距離が縮められ、彼の片手がわたしの顔面を鷲掴んでいた。
「お前には興味が出た。お前は面白い。俺の代わりにこの世界をかき乱してくれそうだしな。だからお前は殺さない。―――暇潰しのために」
視界は遮られているはずなのに彼が心底愉しそうに嗤っているのが観えた気がする。それにわたしを掴む手にじわりと力が込められ、頭蓋骨がぎりぎりと音を立てているようだった。
「ぅあッ……!」
無駄だと思いつつも両手で顔面を掴む手を振り解こうとして、その手の異様な冷たさにびくりとする。それと同時にわたしを掴むその手から力が抜け、わたしは落とされるようにして解放された。
脚に力が入らずその場にへたり込みながらこの一瞬で跳ね上がった鼓動を落ち着かせようと震える深呼吸を繰り返す。そんなわたしの頭を彼はそっとなでる。
先ほどまでとはまるで違う、壊れ物を扱うような、慈しむような手付きで。